第47話


 経久さんは、ときどき伏見のレッスンを見学しにやってくるという。


 ――え、知らなかった? 意外だね。レッスンのことは諒くんには言ってそうなものなのに。

 ――僕もあまり本心じゃ賛成ではないんだけれど、やるって言うからには応援してやろうかなと思ってね。


 あのモヤっとした感じ、知らされなかったせいなのか、それとも別に原因があるんだろうか。


「さっきの、知り合い?」

「伏見のお父さん」

「そうなんだ」


 席に戻ると、鳥越はちらりとそちらを見て、オレンジジュースを飲む。


「鳥越は、何かある? 高校卒業した先のプラン」

「プランて」

「じゃ何て言えばいいんだよ」

「そうだなぁ……今なら、伏見さんの気持ちも、ちょっとわかるかな。何をやりたいか言わずにいたこと」


 鳥越は、ストローでコップの中を意味もなくかき混ぜながら、くるくる回るオレンジジュースを見つめていた。


「わかるって、何が?」

「いちいち言うことじゃないでしょ、そういうのって。少年漫画の主人公じゃないんだしさ。何かになりたいって、声高に宣言、普通しないでしょ」

「まあ、そうか……」

「それを簡単に口にしないってあたりが、なんかリアル。伏見さんの中では、憧れとか夢みたいなフワついたものじゃないってことでしょ」


 鳥越らしい冷静な正論……少なくとも俺には正論に思えたそれを聞いて、伏見がどうして軽々と公言しなかったのか、納得いった。


「そういうのってさ、胸に秘めるもんでしょ」


 基本無表情な鳥越だけど、今は『いいこと言ったでしょ』とでも言いたげなドヤ顔をしていた。


「経久さん……伏見パパの話じゃ、演技や演劇とかそっち系なんだと」

「努力家で一途っぽいし、テレビに出るような女優さんでも声優でも舞台女優でもなれると思うよ。伏見さんなら、何でも」


 どきりとした。何だこの気分。


「…………かもな」


 それだけ、どうにか俺は口にした。


 この話題は、それが最後のやりとりで、鳥越は話を変えた。

 物理室ではそれほど話すことは少ないのに、今日はよくしゃべった。俺もつられてあれこれ話した。




 夕方頃にファミレスをあとにして、浜谷駅前で解散し、鳥越は俺とは反対方向のホームに向かった。


 先にあちらが電車に乗り込み、窓際にいるのが見えて目が合うと、はにかみながら小さく鳥越は手を振った。

 俺も手を振り返した。


 ピコン、と電子音がすると、メッセージを受信した。鳥越からだ。


『付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ』


 どういたしまして、と。


 ひと言だけメッセージを返すとすぐに既読マークがついた。

 またメッセージを受信したと思ったら、鳥越じゃなくて伏見からだった。


『今日は鳥越さんと遊んでたの? わたしも誘ってくれればよかったのにぃー』


 不満げな顔がすぐに思い浮かんだ。


『あのファミレスいたんだってな。こっちくればよかったのに』


 こちらも既読にはなったけど、返事はなかなか返ってこなかった。


 誘ってほしかったって言っても、おまえはレッスンがあったんだろ。


 それをメッセージ画面に入力したところで、全部消した。




 家に着いたあたりで、今日はカレーらしいというのがすぐにわかった。

 駐輪スペースとしている駐車場の脇に自転車を置いて、家に入る。


 キッチンを覗くと、母さんがカレーの入った鍋をかき混ぜていた。


「ただいまは?」

「それを要求する前に言うことあるだろ」

「おかえり」

「ただいま」


 今日の仕事は夜勤らしい。冷蔵庫に貼ってあるシフト表にそう書いてある。


「なあ。母さんって、何で看護師になったの?」

「そんなの訊いてどうすんの」

「いや、なんとなく」


 ちらっと母さんを見ると、イタズラを覚えた猫みたいな顔で俺を見つめていた。


「何、何何、青春ー?」

「うるせえな。違うわ」

「もう反抗期。言葉遣いが。ほんと怖い」


 絶対そんなこと思ってねえだろ。


「何でなったんだろうね」

「理由などとうに忘れた、ってか」

「そこまで年月経ってないわよ」


 じと目で睨まれた。


「なんとなく、じゃない?」

「あ、そう……」


「今日は母カレーだから。茉菜カレーじゃなくて」


 あ、そ、と俺はまた似たような返事をする。

 茉菜はどうやら今日はお泊りをするらしく、友達の家へ出かけたそうだ。


「『にーにが構ってくんないからもぉいぃー』って言って出てったわ」

「目に浮かぶ」

「いい嫁になるよ、茉菜ちゃんは。可愛いしおっぱい大きいし」


 最後の関係あるか?


 母カレーを食べて、席を立つ。

 部屋で適当に過ごしていると、伏見から電話がかかってきた。


「どうかした?」

『お父さんが、色々しゃべったってさっき聞いて』

「ああ……レッスンのこと」

『うん。隠すつもりもなくて、諒くんにはいつか言おうと思ってたんだけど』


 経久さん経由で知ったんじゃなくて、実際目の当たりにしたとは言えなかった。


 それから伏見は、どうしてその道を選んだのか、話してくれた。


 最初は、中学のときに見た大衆演劇がきっかけだったという。

 生で演技を見たその熱量や迫力に圧倒されて、そっちの道を夢見るようになったそうだ。


「そんなことが」

『うん。諒くんの知らない「わたし」でしょ』


 これには苦笑するしかなかった。


「何でも知ってるわけじゃないんだよな。お互い」

『きっと、わたしの知らない諒くんもいると思うよ』


 そうだな、と俺は言う。

 中学三年間と高校の一年、合わせて四年もあれば、そりゃわからないことだって出てくるだろう。


『レッスンのこと、率直に、どう思った……?』


 鳥越から借りてきた言葉が口を突いて出た。


「伏見なら、たぶんなれるよ。女優でも舞台俳優でも、何でも」


 くすぐったそうに伏見は笑った


『ありがとう』


 そして、こう続けた。


『誰にも言ってないけど、わたし、女優さんになりたい』


 少年漫画の主人公みたいに、宣言した。






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