第31話


 気がついたら外は雨がちらついていた。

 これくらいなら、傘がなくても帰れるだろう。


 壁掛け時計は夕方五時を回ろうかという時間を示している。


 テーブルの上には開かれたままの、鳥越オススメの小説があった。二、三ページめくったあたりから記憶がない。


「あ。起きた」


 向かいに伏見がいた。文庫本を片手で開きながら、頬杖をついて俺の目を覗き込んでいる。


「静かだからよく眠れたでしょ」

「私語厳禁」

「ヒソヒソとやればセーフなの」


 俺の軽い注意にむくれたみせた伏見。

 まあ、周りに誰もいないしいいか。


「鳥越は?」

「……先に帰っちゃった。気になる小説がなかったのかも」

「ふうん。そっか。仲良くなれた?」


 苦笑しながら、伏見は出入口のほうへ目をやった。


「『趣味』が一緒なんだなって思って」


 だろうな。だから俺もこの図書館を選んだんだし。


「共通の話題があると、盛り上がりやすいもんな」

「ううん……うん。そうだね。色んな意味で」


 今度は困ったように眉根を寄せながら笑った。


「盛り上がるというか、白熱する気配すらあったかも」

「へえ。伏見はともかく、鳥越も?」


 好きなものを語るときは、誰でも熱を持つものか。


「うん」


 さっきから、伏見の笑顔に何かが混じっているように感じられた。

 何かあったのか?


 話は合ってるみたいだし……いや、同じ趣味だからこそ譲れない主張ってやつがあって、それでぶつかり合ったのかもしれない。


 感想を言い合ううちに意見に食い違いが出て――みたいな。


 けど、同じ趣味じゃないとぶつかり合うこともできない。


「激しくても意見交換できる相手ができてよかったな」


 まあねえ、と間延びさせながら伏見は言う。


 鳥越が帰ったこともあり、図書館にいる理由がなくなった。

 俺たちは雨がぱらつく中、駆け足で駅へ向かった。



◆伏見姫奈◆


「じゃあな」


 玄関先で諒くんと別れ、帰っていく背中を見送る。


 地元の駅に着いた頃には雨は上がっていて、今は雨上がり特有の埃くさいにおいが少ししていた。


 くるっとこっちを向いた諒くんが、シッシと払うように手を振る。

 いつまでも見てないでさっさと家の中に入れって言いたいらしい。


 わたしはまたこっちを見てくれたことが嬉しくて、手を振った。肩をすくめた諒くんが再び歩き出して、その背中は見えなくなっていった。


『私、高森くんのこと……好き……なんだと思う』


 あれから、ずっとその言葉が耳から離れない。


 何も言えなくなって、わたしは本棚の間に立ち尽くしてしまった。


 わたしの幼馴染のことを、好きなのだと、わたしの目を見て鳥越さんは言った。


 誰もいない家に入り、部屋のベッドに倒れ込む。


「わざわざご丁寧に……わたしに言わなくても、いいのに……」


 今までその手の話題は、諒くんには皆無だった。


 誰かが好きだ、とか聞いたことがない。諒くんが誰かのことを好きだ、とかもない。

 噂でも耳にしたことはなかった。


 何かあれば耳ざとい恋話好きの女子が教えてくれただろう。


 だから、誰にも獲られることはないものだと、安心しきっていた。


「うむうううう……慢心……幼馴染ゆえの、慢心」


 反省。


 でも、ちゃんと伝えてる。言ってるもん、わたし。なのに全然気づかないし。


「諒くんのばか」


 諒くん、おっぱい大きい人好きだし……。

 この前部屋に行ったとき、えっちなDVDはそういう女の人だったし。

 わたしは、その、まだ発展途上だし。


 体育のときちょっと見えたけど、鳥越さんの胸は……大きくはない。決して。

 でも、わたしより大きいのは、たしか……!


「……悔しい……」


 鳥越さんから好意を打ち明けられたら、諒くんはどう思うだろう。


 いつも一緒にお昼を過ごしていただけのクラスメイトがだ。


 選択肢の候補になる。

 それも最優先の選択肢になりはしないだろうか。


「うっ……想像だけでドキドキしてきた」


 変な汗が出てくる。

 鼓動の鳴り方が不規則になって息が苦しい。

 そんな場面を想像するだけで、嫌な気分で胸がいっぱいになる。


 今日はお邪魔してしまったけど、二人で共有している世界観のようなものが、あの物理室にはあった。


 それもあって鳥越さんのことは興味が尽きないし、仲良くしたいんだけど……。


「わたしに向かって諒くんが好き、なんて言えば、戦争しましょうって言ってるのと一緒だよ……」


 素に近いやりとりができる鳥越さんとは、これからもっと仲良くなっていきたいって思っていたのに、あっちはそうじゃなかったってこと……?


 宣戦布告するってことは、そうなんだろう。恋敵とみなしているってことだ。


 仲良くしたい人にそんなふうに思われていたなんて、かなりショック。


「この前のデートで、好きって言えばよかった……っ!」


 でも、どうせまた勘違いしちゃうんだろうなー。まだいいや、時間はたくさんあるもんねー。


「――――って思ってたのにっ!」


 時間、全然残ってなかった! 慢心……!

 油断大敵って言葉作った人、たぶんわたしと同じ状況だったんじゃないかな。


 それくらい今のわたしはぴったりと当てはまる。


 幼稚園の頃から、わたしは一番近くにいたってだけで、諒くんの一番は違う子だったんじゃないだろうか。


 小学生のとき、諒くんのノートにそれを見つけて嫌な気分になって、思わず破ってしまった。


 小学生女子の幼い恋心が犯してしまった小さな罪。


 勉強机の引き出しの中にそれはある。


 捨てることに罪悪感があったんだろう。人のものを勝手に破いて、捨てるなんて。

 捨てなければ、テープか何かで繋げられるからセーフ――。

 たしか、そんなことを思ってこの引き出しに閉じ込めた。


 施錠してある鍵つきの小さな引き出しを開けると、雑に破られた紙片が一枚あった。


 約束のことをさっぱり覚えていないのは、わたしのことを何とも思ってないからじゃ――。


 それには『好きな人』と諒くんの字で書いてあり、記されているのは、わたし以外の女の子の名前だった。

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