第19話


 四月の体育は、去年と同じで体力測定がメインで授業が行われる。


 反復横跳びにシャトルランに幅跳びに一〇〇メートル走などなど。


 飛んだり跳ねたり走ったり、男女にわかれて行われるけど、やっぱり伏見に順番が回ると学年問わず男子が注目する。


 三年の男子とか、窓からグラウンドめっちゃ見てるもんな。


「ヒナちゃん、すご……」

「めっちゃ速いし……」


 女子たちからそんな会話が漏れ聞こえる。


 競技を代わるとき、お互いの回数や距離の数値を教え合うと、


「諒くん、全然ダメだね」


 どこか楽しそうな声音で伏見は笑った。


「全然ってことはないぞ。男子でも、五番目くらいだ。下から数えて」

「あはは。やっぱダメじゃん」

「十分だと思うけどな」


 学級委員コンビで幼馴染というのが浸透し、俺たちが仲良さげに話していても奇異の目で見られることもなくなっていた。


 最近、登下校はずっと一緒で、いよいよ伏見の『幼馴染』が板についてきていた。


「何で部活入んないんだろうね」


 女子の中からそんな声も聞こえた。

 当然といえば当然か。


 伏見が記録した数値は、男子の俺よりもいい。それどころか、陸上部の短距離のエースやバスケやテニス、その他運動部に所属する女子たちより、現在の総合スコアはいいらしい。


 体育が終わったあと、クラスの女子に話しかけられた。ポニーテールの女子だ。

 顔はわかるけど名前は……覚えてない。


「ねえねえ、いいんちょー」


 汗をかいたあとなので、においが心配で俺は二歩だけあとずさった。


「……俺は学級委員であって、長ではねえから」


 訂正すると、どっちでもいいよー、と言って続けた。


「伏見さん、ちょっと借りられない?」

「借りるって……何で俺に言うんだよ。別に俺の物ってわけでもないし」


「わかってる。だから、協力してくれるように説得してほしいの。来週末、春季大会があって……団体が一人足りなくて出られないの」


 この子何の部活だっけ、と首をかしげながら話を聞いていると、テニス部の話だった。

 新入部員が入ったらよかったんだけど、その見込みが薄く、団体戦に出られないという。


「俺に言われても……」

「直談判したら断られちゃって」


 だろうな。引っ張りだこだから、助っ人をはじめるとキリがなさそうだし。


「悪い。他当たってくれ。その話だと、人数合わせでいいんだろ? 伏見じゃなくて、誰か他のやつで埋め合わせできるはずだから」

「そんなこと言わないでよぅ、いいんちょー」

「他の部活の人とか、中学がテニス部で今フリーとか、そういうやついるだろ? それも無理なら、誰か適当に名前借りて当日は一人二役するとか」

「そんな、ドタバタコメディじゃないんだから」


 冗談冗談、と笑って前言を撤回する。

 伏見じゃないとダメな理由は何もない……でも、困ってるのも確かなんだよなぁ……。


「当日は手ぶらでオッケー。シューズもユニフォームもラケットも、全部ぜーんぶこっちで用意するから! ねっ?」


 そこまで言われるとなぁ。

 ううーん、と俺が判断に困って唸っていると、ひんやりとした冷気みたいなものが背後から流れてきた。

 ぶるっと身震いをして、振り返る。


「……?」


 誰もいない……。


「? どうかした?」


 何でもない、と俺は首を振った。


「しゃーないな。訊くだけだぞ? 説得はしない。状況の説明と、手ぶらでオッケーってことだけを教えて、判断は伏見に任せる」

「あ、ありがとう! それでいいよ!」


 ぎゅっと手を握られて、ぶんぶんと振られた。


「さすがいいんちょー」

「だから長ではないって何度言えば……」


 全然手を離してくれない。

 さらに強い冷気が肌を撫でて、俺はまた身震いをした。


「じゃあ、よろしく!」


 手を振って去っていくと、よっぽど嬉しかったのか投げキスをされた。

 テンション高いなー。


 俺も会釈程度に手を振り返し、教室に戻る。

 体育が最後の授業だったこともあり、教室はがらんとしていて、みんな下校したり部活に行ったりしていた。


 さて。適当に日誌を書いて帰ろう。


 首筋が薄ら寒くなって首をすくめた。

 さっきからなんだ?

 風邪でもひいたかな。


「……本間さんと仲いいんだね」


 綺麗に畳んだ体操服を胸に抱えた伏見が教室に入ってきた。


「本間? ああ……あのテニス部の」


 あれ。く、空気が――周りの空気が一層冷たくなった!


 伏見が自分の席に着くと、冷気が酷くなった。


「さむっ」


 思わず自分の体を抱きしめた。


 隣で帰りの準備をしながら、つーん、と唇を尖らせている伏見。なぜか拗ねている。


「別にいいんだけど、諒くんが誰と仲いいとかわたしには関係ないし」

「いいって言うけど、全然そう思ってないだろ」


「思ってるし」


 声低っ。

 伏見史上、一番の低音ボイスだった。おまけに低温ってか?


「学級委員なのに、廊下で手を繋いで、キスして。――学校なのに」


「おい、待て待て! 俺が見た光景と微妙に違うぞ!? 手は握られて、どっちかっていうと握手。そんで、キスじゃなくて一方的な投げキスだから」


 雰囲気的に、深い意味は何もないんだろけど……握手も投げキスも若干ドキッとした。

 てか見てたのかよ。


 あのとき感じた冷気は伏見から発せられたものだったらしい。


「諒くん、嬉しそうだった」


 く、否定できねえ。

 伏見以外の女子とのふれあい、あんまりないからな……。


「学級委員は、クラスメイトには平等に接しなきゃなのに。贔屓してるっ」

「してないってば」


 帰る準備を整えた伏見は、帰るでもなく、ご機嫌斜めのまま隣にいる。

 俺を待ってくれるっぽい。


「テニス部入るの? 至れり尽くせりって感じだったじゃん」


 あ、もしかして途中から聞いたのか?

 誤解してるみたいだから、俺は一から本間さんとのやりとりを教えた。


「それで、団体に出られないから手を貸してほしいんだとさ」

「そっか。そういうことだったんだね」


 充満していた冷気が消えてなくなった。


「やっぱり、断らざるを得ない、かな……」


 キリがないからっていうのはわかる。でもどうしてそんなに頑ななのか、俺はまだよくわからないでいた。


「俺から断っておこうか?」

「ううん。自分で言うから大丈夫。ありがとう」


 機嫌が直った伏見は、俺が日誌を書き終えるのを待っている。

 頬杖をついてニコニコしながら、こっちをじっと見ていた。


「見てても面白くともないだろ。携帯でもいじってれば?」

「いいの、いいの」

「伏見って、俺にはめちゃくちゃ優しいよな」


 授業中困ったら助けてくれるし、待たないでもいいのにこうして待っててくれる。


「そ、そうかな?」


 微笑がさらにゆるんで、てへへと笑う伏見。


「でも、学級委員ならクラスメイトを贔屓したらダメなんじゃ――」


 続けようとした俺を、慌てたように伏見が遮った。


「お、幼馴染は特別枠だからいいのっ! ……だから、諒くんも、わたしを特別枠に入れておいてくれると、嬉しいな」


 瞳を覗き込むようにそんなことを言われると、俺でなくても照れただろう。


「お、おう……」とだけどうにか言って、目をそらした。


「諒くん顔赤い」

「そっちもな」


 おかしくなって、俺たちは誰もいない静かな教室でけらけらと笑い合った。

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