第8話


 朝は携帯のアラームで起き、茉奈が用意してくれたギャル飯を食う。

 俺が勝手にそう言っているだけで、トーストと目玉焼きとサラダの至って普通の朝食だ。


 ちなみに母さんは夜勤らしいのでまだ寝ている。


「にーに、遅刻するよー?」と、早朝からばっちりギャルメイクをしている茉奈に急かされる。

 いいよな、中学は。近いからまだまだ余裕あるし。


 ぼんやりトーストを牛乳で流し込んでいると、「ホント、マジ遅刻すっから!」と俺の心配をしてくれる優しい妹ギャル。

 へいへい、と俺は鞄を持って、家を出た。


「諒くん、おはよ」


 そこには、春の日差しみたいに温かい微笑をしている伏見がいた。


「……おお、おはよう。うちに何か用? あ、忘れ物とかした?」


 首をかしげていると、ふふふ、と控えめに伏見が笑った。


「違うよ。学校、一緒に行こう?」

「え? ああ。おう……」


 ナンデ? ドウシテ? 疑問はいっぱいあったけど、時間が時間なので、駅に急ぐことにした。

 送ってくれるはずのおじさんと、今日も時間が合わないとか、そういうあれか。


 痴漢未遂がトラウマになって、電車に乗りづらいとか?


「伏見、知らないかもしれないから言っておくけど、この世の中には、女性専用車両ってのがあってだな。そこなら痴漢の心配はないぞ」

「ふふ。知ってるよ、そんなの」


 じゃあなんで……?


「昨日の帰りもそうだけど、諒くんをボディガード代わりにしようなんて思ってないよ」


 だとすると、余計に気になる。俺と一緒に行くメリットなくね?


 それに、と伏見は続けた。


「女性専用車両じゃ、諒くんは乗れないでしょ?」

「うん。男だからな」

「じゃあダメじゃん。別々になっちゃうもん。『一緒に行く』って感じしないし」


 真意が掴めず、俺は「はあ、あ、そう……」と曖昧に返す。


 察しの悪い俺に、伏見が肩をぶつけてきた。


「一緒に学校に行きたいっていう理由だけじゃ、ダメですか?」


 はにかみながら訊いてくる伏見。朝っぱらからその表情はズルイ……。

 思ったことはなるべく表情に出さないようにした。


「ま、まあ、いいけどな?」

「よかった。ふふ。諒くん嬉しそう」


 何でわかるんだよ。隠してるのがバレるって一番ださいパターン……。


 伏見はどうやら『幼馴染』のテンプレートなことがしたいらしい。


 改札を通り、やってきた学校方面への電車に乗った。今日も結構な人数が乗っていて、乗車率はかなり高い。


 パンパンとまでいかないけど、おしくらまんじゅう状態であることは確かだった。


「むぎゅぅ……」と朝の電車での立ち回りがわかってない伏見が、人垣の中で呻き声を上げていた。

 OLのお姉さんとサラリーマンに潰されそうになっていたので、比較的スペースがある俺のほうへ手を掴んで人垣から引っこ抜いた。


「あ、ありがと……ペシャンコになるかと思った……」

「どういたしまして」


 人垣を背負いながら、伏見が潰れないように両手を扉についてスペースを確保する。


「諒くんが、ダブルで壁ドンしてる」

「仕方ねえだろ。我慢してくれ」

「ううん。冗談だよ。ありがとう」


 顔が近い。正面を見続けるってことができず、俺は顔をそらした。にしても、いい匂いがする。シャンプーの清潔な香りだ。


 俺は修行僧のように心を無にして、あと二駅……あと二駅……と念仏のように頭の中で唱える。


 窓の外でも見てるのかなと気になって、正面をむいたと同時に、電車が大きく揺れた。


 その拍子に、顔同士が近づいて、ぶつかった。


 あ、あれ、今、当たった? よな……?

 一瞬だったから全然わからなかったけど、今のは気のせいじゃ――


「~~~~っ!」


 伏見が、顔を真っ赤にして口をVの字にしている。

 瞬きの回数が尋常じゃねえ! 動揺してるのか、そうなんだな?


 さっきぶつかったのは――気のせいじゃないなっ!?

 一番警戒していたはずの痴漢は、すぐそばにいたってオチか!


 事態を理解して、俺も顔が熱くなってきた。


「ご、ごめん! あの、今のはわざとじゃなくて――っ」

「りょ、諒くん……ちゅう、しないでよ……」

「してない、してない。ちなみに、どこ? 当たった?」

「こ……ここ……」


 目の下……頬骨のあたりを指差した。


「も、もお……恥ずかしいよお……」


 糖分を含んだような声を出して、こてん、と伏見が頭を俺の胸に預けてきた。


「ごめんな」


 と謝りながら、何度か頭を撫でた。


「い、いいよ……? 許したげる……」


 ぼそぼそとした声が返ってきた。胸に頭をくっつける伏見の耳はまだ赤い。


 最寄り駅到着のアナウンスが流れ電車が停まった。

 ぞろぞろ、と同じ制服を着た生徒が降りていく。俺たちに気づいて、好奇の目を寄こす人もいた。

 顔を伏せてるから、これが伏見姫奈だってことはわからないだろう。


 降車待ちの人もいなくなったので、伏見に声をかけた。


「そろそろ行こう」


 すると、俺から離れない小さな頭が、少しだけ動いた。さらさらと髪の毛が揺れる。

 首を振っているらしい。


「え……でも、遅刻するよ」


 うん、とうなずいた。降りようと促す俺の袖を、伏見はきゅっと掴んだ。


「……まだ、一緒に乗ってたい」


 アナウンスが流れ、降り口の扉が、プシンと音を上げて閉まった。

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