■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆十一「電脳鑑識」

 電車を降りて反対のホームに立った。連絡を絶つために九地はスマートフォンの電源を切る。引き返す電車が来るのを待ちながら考える。頭に浮かんでいるのはジラフのことだ。高校時代の親友。そしてベンチャー企業時代の仲間だった男。

 扉が開き、電車に乗る。座席に座って発車を待つ。考えては駄目だ。感情を殺すんだ。妹の許可なく怒ってしまった自分を戒める。決断は妹に任せると決めている。自分を暴走させないための仕掛け。ジラフを前にしても、その仕掛けは正常に作動するのだろうか。可能なら見つからないでくれ。そうであれば落胆はしても我を失うことはない。

 自分はジラフに会いたいのか、それとも会いたくないのか。九地は自分の心が分からなかった。


 電車で移動するあいだに、九地がどこで登記簿を確認するのか当たりをつけた。東京法務局新宿出張所。大久保駅を出て三分。電車を降りた光は、大通りの切れ目を抜け、建物に飛び込んだ。

 もう出たあとかもしれない。光は建物内を探し回る。白いシャツに緋色のサスペンダーが目に入った。九地だ。急いで駆け寄り、逃がさないように腕をつかむ。

「平原くん?」

 驚きながら九地は光を見下ろす。

「九天に言われて追ってきました。電話が繋がらないと言われましたので。いったい、どうしたんですか?」

 少し考える仕草をしたあと九地は苦い笑みを浮かべた。

「心配をかけたようですね。大丈夫ですよ。誰にも邪魔されず、静かに考えたかっただけです。武器を持って襲いに行こうというわけではありませんから」

 安心させるように九地は言い、スマートフォンを出して電源を入れた。

「ジラフさんの住所は」

 九地は首を横に振る。

「会社の代表はジラフではありませんでした。別の人物の名前が書いてありました」

「偽名ですか?」

「いや、おそらく名義貸しですね。住所を調べたところシェアハウスがヒットしました。ジラフはこの商売を長く続ける気はありません。仕掛けを成立させて桜小路さんが苦しむ姿を見れば、再び闇の中に消えるでしょう」

 九地は念のためにシェアハウスに寄ってみるという。そして光には学校に向かうように言う。

「本当に、大丈夫ですか」

「安心してください。そして九天にも心配をかけてすまなかったと伝えてください。ジラフがいないことを確認すれば、すぐに事務所に戻ります。たとえいたとしても武器を持って襲いかかったりしませんよ」

 九地はゆっくりとした足取りで歩き始める。光も並んで建物を出た。九地の言うようにジラフはシェアハウスにいないだろう。簡単にはたどり着けないのか。あの男は今どこにいるのか。光は駅に引き返して電車に乗った。


 横浜の駅に着いた。コインロッカーに預けていた制服に着替えて学校に向かう。並木道の向こうに校門が見えてきた。この時間から登校するところは先生たちに見られたくない。校門から入れば運動場を突っ切ることになり教室から丸見えになってしまう。

 道路に面した金網の破れた場所を知っている。そこから潜り込み、勝手口を使って校舎に入る。先生に会わないように注意しながら廊下を移動する。部室の前まで来た。鍵は持っている。部員たちは、おのおの勝手に複製を作っている。部室に入り、一番奥のパソコンを起動する。パスワードは部内で共通だ。データも盗み放題だし、ウイルスも入れ放題だ。安全よりも利便性を優先した運用。セキュリティの専門家が見たら、卒倒しそうな状態になっている。

 椅子に座り、エクスプローラを開く。日時を絞り込み、その時期に作成されたファイルを探す。ウォレットという英単語が入ったパスが見つかった。どうやって持ち出すか考える。このパソコンはウイルスに感染している可能性がある。USB経由でインストールしたプログラムは、アカウントやパスワードを盗む挙動をするかもしれない。もしそうならデータ転送用のサービスへのログインは、危険な行為だ。

 机を離れて棚を探す。どこかにUSBメモリの一つぐらいはないかと思い、引き出しや箱の中を調べる。見つかった。挿入してデータを移す。採取した検体をポケットに入れて席を立つ。扉をそっと開けて廊下を窺った。誰もいないことを確認して部室を出た。

 廊下を足早に歩きながら光は考える。セキュリティを突破されて汚染されたマシンは除染する必要がある。一つの方法は、ウイルス除去ソフトで問題の発生した部分を修正することだ。もう一つの方法は、OSを初期状態に戻してクリーンな状態にすることだ。二つの方法のうち、より強力なのは後者だ。ウイルスは一つだけではないかもしれない。思わぬところに自身のコピーを残しているかもしれない。ウイルス自身がセキュリティの穴を新たに作っていることもある。

 中身をリセットしてきれいな状態に戻す。しかしそれは機械での話だ。人間の場合はどうだろうか。信用を欺かれて犯罪に巻き込まれる。心を改竄されて操られる。人は心を初期状態に戻せない。被害者は心にセキュリティホールを開けたまま人生を送ることになる。カルト教団の洗脳被害者や、危険思想にかぶれて反社会的活動に手を染めた人と一緒だ。だから大事にいたる前に救出する必要がある。

 エスポワールにたどり着き階段をのぼると、扉の前に九天が座っていた。

「待ってたの?」

「中に入っていたら、あんたが来ても気づかないから」

 確かにそうだ。中に誰もいないと思っているから、ノックもせずに外で待っていただろう。

 九天が扉を開けて二人で入る。まだ九地は戻っていない。室内は静まりかえっている。折り畳み椅子を出して座り、今日のことを九天に伝える。彼女は熱心に光の話を聞いた。

「驚いたわ。那珂さんが絡んでいたとは」

「ジラフさんのことを知っているの?」

「おにいちゃんのベンチャー企業時代に、何度か会っている。おにいちゃんが信頼していた人。そして、おにいちゃんを地獄に叩き落とした張本人」

 吐き捨てるように九天は言う。

「九地さん、武器を持って襲いかかったりしないって言ったけど大丈夫かな」

「分からない。少なくとも私なら、あの男を許さないけどね」

 そうだろう。九地は激しい裏切りを受けた。その影響は妹の九天にもおよんだ。彼女の怒りと憎しみはよく分かる。

 しばらくすると、九地が帰って来た。シェアハウスには、やはりジラフはいなかったそうだ。九地は、九天が学校をさぼったことを知り小言を言う。九天は不満そうな顔をした。

「ソフトの方はどうでしたか?」

 九地に聞かれ、光はUSBメモリを渡す。

「ちょっと待っていてください」

 九地は奥の部屋に行き、いつもとは違うノートパソコンを持ってくる。OSを起動したあと仮想マシンを立ち上げた。

「念には念を入れておきましょう」

 USBメモリのデータを移して仮想マシンの中で実行する。こうしておけば、仮想マシンの外のOSやファイルにウイルスが感染することはない。挙動を確認したあと、仮想マシンを初期状態に戻せば、きれいに対象を消すことができる。

「監視を始めます」

 九地はプログラムを実行する。黒い背景のウィンドウが現れて、文字列が次々に表示される。

「ウイルスの挙動を調べるための自作ツールです。攻撃を検知して報告するソフトですよ。バックドア、キーロガー、盗聴、盗撮。スクリーンショットも、定期的に送っています。LANで繋がっているパソコンも危険です。部室のパソコンは、全て初期状態に戻した方がよいでしょう」

 九地はいつものノートパソコンでウェブブラウザを開き、IPアドレスを調べる。ウイルス満載のソフトが、いったいどこと通信しているのか突き止めようとしているのだ。

 IPアドレスの持ち主はフィリピンの会社だった。ブロックチェーンソーというふざけた名前のところだ。会社名を検索する。仮想通貨に関する技術を有していると謳っている。ジラフは以前、アジア圏のベンチャー企業と裏で繋がり、資金のキックバックを得た。彼はその地域に人的繋がりを持っている。その中には、直接やり取りしているところもあれば間接的にアクセスしているところもあるはずだ。

 あの狸親父が。心の中でラングモックの岩田を罵倒する。岩田はフィリピンに太いパイプがある。あのおっさんも一枚噛んでいるんじゃないのか。知らないと言っていたが怪しい。あいつは裏の人間とも付き合いがある。ジラフの分け前に与るつもりだったのだろう。

 ノートパソコンから目を離して、九地が光に顔を向ける。

「ジラフ本人以外は、全てのカードがそろいました。残るは桜小路さんをジラフから引き剥がすこと、そしてジラフ本人を捕らえることです」

「でも、どうやってやるんですか?」

 光にはその方法が分からない。

「前者は直接説得を試みる。後者は桜小路さんに協力を依頼する。桜小路さんが求めれば、ジラフは彼女に会うでしょう。全ての仕掛けが成立するまでは、彼女の信用を保ち続ける必要がありますから」

 それは分かる。問題はどうやって、それらを実行するかだ。

「桜小路先輩を説得する方法はあるんですか?」

 九地は、光に指を向ける。

「説得するのはきみですよ、平原くん」

「えっ」

「証拠は全てそろえました。説得可能なはずです」

「でも」

「信用が足りないですか?」

「はい」

「平原くんの日常は九天から聞きました。きみは桜小路さんをながめているだけのようですね」

 光は沈黙する。

「いいですか、平原くん。観察者でしかない人間は、信用されることはありません。傷つくことを恐れず自ら関わろうとした者だけが真の信用を勝ち得るのです。人は自分のために何かをしてくれる人を身近に感じます。利益をもたらしてくれる相手に、心の扉を開きます」

 理屈は分かる。しかし現実は違う。嫌われるかもしれない。ながめるだけならばリスクはない。傷つくこともない。

「大丈夫です、平原くん」

 九地は安心させるように口元を綻ばせる。

「きみは信用されるだけのことをしています。切っ掛けはともかくとして、あなたは桜小路さんのために奔走していたのですから」

 優しい声をかけ、九地は大きな手を光の肩に載せた。


 東京の町の雑踏。陽の光の降り注ぐ歩道。ホテルから出てきた那珂麒麟は日課である散歩を始めた。ゆっくりと呼吸をして肺の中の空気を入れ換える。足早に歩く人の群れの中で優雅な鶴のように歩を進める。

 すれ違う人々が足を止めて彼を見た。男性は驚きの顔。女性は憧れの表情。昔からそうだ。自分はなぜか人々から注目される。心の中身とは関係なく、絶対の信用を向けられる。多くの視線にさらされながら那珂は考える。洒脱な服装。優雅な動き。均整の取れた肉体。美しい容貌。表情。目線。声。体臭。全ては人の心を動かすサインとなる。人の心を開かせる道具となる。

 那珂は子供時代を思い出す。周囲の人間たちは、勝手に自己の理想を彼に投影した。女性。恋愛。好きだという告白。愛しているという言葉。彼の前には長い列ができた。那珂の体は一つしかなく、全員を満たすことはできなかった。要求を受け入れるためには、別離が必要だった。彼女たちは那珂が別れると言うと絶望した。彼女たちは那珂に心の全てを任せていた。信用という手綱を渡し、無残に断ち切られることで心を壊した。

 人間は生きていく上で信用が必要だ。それを裏切り続けては、この社会では生きていけない。信用を維持したまま生きていく。そのために那珂は自らを偽った。信用の抑制。トラブル防止のために女性との交際を控えた。生きていくために心も振る舞いも制御した。しかし一つだけ大きな問題があった。欲望。どうやら自分はそれを持っているらしい。食欲や睡眠欲。排泄欲や性欲。そうしたものと同じように絶望欲とでも言うべきものが心の中にあった。

 人が絶望にいたる姿を見たい。交際を終えると言った瞬間に泣き崩れる表情。人の感情が弾ける瞬間は、なぜかくも美しいのだ。人間は落差に感動する。映画や小説もそうだ。高く掲げた卵が落ちて割れる瞬間に人々は心を動かされるのだ。

 全米が感動した映画。日本中が泣いた小説。那珂はそれらに触れてみた。しかし何の感動も見出せなかった。スクリーンを通した偽物。紙とインクによる模倣物。本物が見たい。舞台の前に椅子を置き、たった一人の観客として、本物の役者による真実の絶望劇を鑑賞したい。しかしそんな都合のよい公演はなかった。那珂の人生は幕が上がることなく、ゆっくりと進む。彼は信用をまとった真空だった。何の楽しみもない人生を送っていた。

 機会は突然訪れた。親友からの誘い。ベンチャー企業という舞台。自分のために用意された演劇。その特等席に座らないかと声をかけられた。ありがとうナイン! 那珂は感動した。全力を尽くして脚本を書くよ! 親友のために決意した。自らが舞台の一員になることで最良の席に座れる。那珂はナインから学んだ。自分を満たすために、どうすればよいのかを教えてもらった。女性との離別の何億倍もの感動があることを知った。そして始まった観劇人生。

 今は桜小路恵海という役者と舞台に立っている。彼女の名演に期待して脇役を演じている。彼女は孤高の存在だ。強い自負を持っている。そして周囲から孤立している。桜小路恵海の信用を一身に受ける。そして傷つく彼女を最良の席からながめる。絶望にいたった彼女はどうなるだろうか。まだ幼い卵は、これまで以上に美しく割れてくれるだろう。

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