■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆七「来栖の軍学」

 エスポワールの二〇一号室。その二間の住居で、九天は兄と暮らしている。玄関に近い部屋は事務所にしている。奥の部屋は生活道具を押し込んだ二人の寝室になっている。夕食を終えた九天は、風呂に入り、奥の六畳間に移動した。申し訳程度にカーテンがあり室内は区切られている。その一方に布団を敷いて電気を消した。

 天井を見ながら九天は考える。今日は早瀬あかりが家に来た。兄の高校時代の同級生。今は教師の女。早瀬には悪いが、教師という職業は糞だと思っている。問題の解決には、まるで役に立たない。九天は中学時代を思い出す。あの忌ま忌ましい日々とおこなった復讐を。中学一年生のときの記憶。馬鹿な女たちを登校拒否に追いやった出来事を。


 小学校から中学校に上がると、クラスの大半は馴染みのない生徒になった。九天にとってそのことは、憂鬱な出来事だった。九天は小学五年生のときに両親を失った。友人たちは同情的で九天のことを心配してくれた。しかし、その同情心を新しい級友たちは持っていない。人間関係を一から作り直さないといけなかった。

 新しい環境に放り込まれた子供たちは互いの情報を求める。自分にとって信用できる相手かどうかを見極め、自らの居場所を確保しようとする。そうした探り合いをおこなう教室の中に、断片的な情報をラベルにして他者にマウントを取ろうとする者たちがいた。両親のいない九天は「親なし」というラベルを貼られた。親がいないということは、ケツ持ちがいないということだ。いじめても親からの報復がないことを意味している。

「ねえ、来栖さんって、お父さんとお母さんがいないの?」

 三人の女子集団。他人を見下すことを団結と考えているグループ。関わり合いたくはなかった。無駄な労力を払いたくはなかった。しかし、しつこく付きまとわれて仕方なく声を返した。

「そうだけど」

「かわいそ~~~~う」

 私たちのグループに入れてあげる――。グループのリーダーは、小柄で華奢な九天をペットか何かと勘違いしていた。

 彼女たちは、最初は頻繁に絡んでくるだけだった。時間の無駄なので無視していると、強硬な態度を取るようになった。突き飛ばしたり持ち物を隠したりしてくる。犬にボールを取ってこさせるように上履きを窓の外に投げ捨てることもあった。一ヶ月我慢した。教師は何の手も差し伸べなかった。仲よくしろよと、へらへらと笑って言った。教師という職業は、馬鹿でもなれるのかと感想を持つ。何かを期待した自分が悪かったと気づいた。

 体中に痣を作りながら学校に通う。クラスの人間は見て見ぬ振りだった。味方はいなかった。さて、どうするかと考える。九天は死んだ父のことを考える。父は幼い九天を捕まえて軍学の講義ばかりをしていた。自分ではなく兄に話せばよいのと言うと、あいつは人がよすぎるからなと苦笑した。

 ――いいか、九天。虚兵をもって実兵を討つ。来栖の軍学は幻惑の技だ。敵を退けるのに兵の血を流す必要はない。幻を見せることで戦を避け、敵を破滅に導くことができるのだ。

 父は愉悦の表情を浮かべながら言った。父の教えがそのまま利用できるわけではない。しかし考え方は参考になる。九天は兄に頼み、小さなICレコーダーを買ってもらい、学校に持っていった。

「来栖、てめえ、うぜえんだよ。死ねよ」

「やめて高田さん、いじめないで。どうして暴力ばかり振るうの高田さん。高田さん、ひどいことをしないで」

「ははは、逃げ回ってやがる。おらよ、地面に顔をこすりつけて土下座しろよ」

「やめて、高田さん。高田さん、やめて」

 その日は、いじめの主犯格をあおり、大いに暴力を振るわせた。少しやりすぎたようだ。お腹や腕が痛かった。九天はICレコーダーの音声を確認する。会話はきちんと録音されている。高田の名前もたくさん入っている。

 翌日九天は学校をさぼった。そして高田の母親が働いているスーパーに行った。この建物には放送設備がある。高田の母親がいることを確認してから放送室に向かう。九天は無人のタイミングを見計らって潜り込む。そして荷物で扉を塞いだ。

「――てめえ、うぜえんだよ。死ねよ」

「やめて高田さん、いじめないで。どうして暴力ばかり振るうの高田さん。高田さん、ひどいことをしないで――」

 大音量でスーパー中に会話が響く。売り場が混乱しているのが分かる。扉を激しく叩かれた。自分の名前は編集して消している。高田がいじめをしている様子が、彼女の母親の職場で延々と流された。そろそろ頃合いだな。九天は荷物を積み上げて、高所の窓に手をかける。小柄な九天は小さな窓から脱出した。

 今日の予定はもう一つある。九天は、高田の父親が勤める会社に行く。そして父親が出てくるのを待った。

「高田さんのお父さんですよね。少しお話があるんです。高田さん、私と一緒にいじめられているんです」

 自分の娘が、いじめる側だと告げられて心配する親はいない。しかし、いじめられていると言われれば話を聞こうとする。九天は喫茶店で一時間ほど父親と話した。そして、その会話を全て録音した。

 翌日学校に行った九天は、高田たちに呼び出された。

「てめえ、何をやってくれたんだよ!」

 高田は怒りに任せて九天を突き飛ばす。九天は転んで膝をすりむいた。膝の砂を払って立ち上がり、昨晩用意した音声を再生する。

「順子ぉー、順子ぉー」

 彼女の父親が嗚咽する声だ。その声に女の喘ぎ声が被さっている。高田たちが、ぎょっとする。九天は用意した台詞を淡々と告げた。

「高田。あんたの親父、腰を振りながら娘の名前を呼ぶんだな」

 場が凍りつく。高田たちの妄想が勝手に膨らむ。母親の職場で、本物の音声を流している。今回の音声が、偽物だと考える理由はどこにもなかった。

「なあ、高田。あんたが明日学校に来たら、この音声を学校中に流す。順子ぉー、順子ぉーと言いながら抱きつく、あんたの親父の声をな」

「ひっ」

 高田は尻餅を突き、九天を見上げる。

「待ってるぜ。校内中が驚き、順子って誰だ、このおっさん誰だって、言い出すのをさ」

 三人の女たちは、顔面を蒼白にさせる。

「やめて欲しければ、私が卒業するまで二度と学校に来るな。いいか、分かったか」

 九天は、炎のような目を高田に向けた。

 翌日、高田は学校に来なかった。あと二人。九天は敵を排除する計画を立てる。一ヶ月後、三人の登校拒否児童が誕生した。無能な教師に代わって、いじめを解決した。九天はそれ以降、学校で孤立するようになる。

 平穏な日々が続いた。会話のない学校生活を九天は送る。寂しくはなかった。それよりも安堵を感じた。波風のない人生こそ最良のものだと九天は実感した。

 それから数ヶ月が経ち、兄が起業に失敗した。精神を病んで、エスポワールというボロアパートに引きこもるようになる。ただ一人の身近な肉親。平穏は再び掻き乱された。

 九天は兄の面倒を見るために、伯父夫婦の家を出てともに住んだ。そして無気力になった兄をどうすれば立ち直らせられるか思案する。父は兄に軍学を授けず、自分に授けた。未来を組み立てる能力は、妹の方があると判断したのだろう。九天は兄を促して、ネットのトラブルを解決する仕事を始めさせる。短期的な依頼をこなすことでリハビリになると考えたからだ。

 九地の状態は徐々によくなってきた。しばらくして兄は、過去のことを調べたいと言いだした。兄が完全に立ち直るのには必要だろう。九天は賛成する。九地は長い時間をかけて調査をした。その結果は新たな不幸を招き入れるものだった。九地は親友の裏切りを知り精神の平衡を崩した。九天は、自分の家族は、おがくずで作った人形のようだと思った。両親が死に、兄が壊れた。全ては数年のうちに起きた出来事だ。九天は人生を悲観した。自分の人生は平穏とはほど遠いのだと実感した。

 当面の問題は兄の振る舞いだった。九地は、エスポワールの部屋で暴れた。来栖の家から引き上げていた様々な骨董品を投げては壊した。その中には、出すべきところに出せば金になるものもあった。兄が荒れるたびに九天は、部屋の隅で小さくなり嵐が去るのを待った。九天に物を投げないのは九地の最後の一線だったのだろう。破壊の暴風は、まるで台風の目のように九天を避けて発生した。

 九地の破壊は自身にもおよんだ。彼は古い機械を素手で殴った。割れた花瓶を無造作に踏んだ。床や壁には血の跡がついた。一匹の猛獣が、小さな檻の中にいるようだった。唯一の家族を失いたくない。どうすればよいか九天は考える。そして父の言葉を思い出した。

 ――いいか、九天。偽罪を犯させ密約を交わす。善良な人間ほど罪の意識に縛られる。そうした人間を支配下に置くには、偽りの罪を犯させ、秘密の約定を結べばよいのだ。

 また、父はこうも言った。

 ――兄ではなく弟の俺が家を継いだのには理由がある。兄は優しすぎたのだよ。軍学には向いていなかった。兄弟のあいだにも、はかりごとは必要なのだ。よりよい結果を導くにはな。

 父の愉悦の笑みが脳裏に浮かぶ。家族の絆を組み替えて、新しい人間関係を築く。父は家督を継ぐために、それをやった。九天は兄を助けるために、それをやろうとする。動機は違う。結果も異なるだろう。父の策謀は私欲から発していた。自分の行動は利他である。元の兄妹の形は、失われるかもしれない。それでも全てをなくすよりはよい。兄が完全に壊れる前に、自分がブレーキになる。そうすることで、たった二人の家族を守ろうと決めた。

 ある日九天は、話し合いをしたいと九地に提案した。うつろな目の兄は、力なくうなずく。荒れ果てた小さな部屋。骨董品の残骸の散らばった場所。二人だけの空間で話し合いは始まった。

 親の財産を食い潰した親不孝者。働くことなく引きこもっている寄生虫。九天は兄の現状を責め立てる。九地は怒りで顔を震わせる。九天は兄の感情を昂ぶらせる。そして、いきなり殴りかかった。驚いた九地は激しく九天を振り払う。二人は体格が大きく違う。長身の兄に、痩せ犬のような妹。九天の体は壁に勢いよく叩きつけられた。九天は、ガラクタの散らばる床の上に、壊れたおもちゃのように落下した。

 唯一破壊に巻き込んでいなかった妹を傷つけた。兄は気が狂わんばかりに、むせび泣いた。九天の体は骨が折れていた。痛みで頭が真っ白になる。おにいちゃんは私が守る――。遠のく意識の中、九天はそのことだけを考えていた。

 白いシーツ、掃除の行き届いた部屋。九天はベッドに横たわり、九地は椅子に座っている。入院した病院。そのベッドの上で九天は告げる。

「おにいちゃんは壊れているの。だから何かするときの判断は、全て私に任せてちょうだい」

「分かった。俺の行動や決断は、全部おまえに任せる。本当にすまなかった」

 人のよい兄は、懸命に詫びた。

 ――偽罪を犯させ密約を交わす。

 九天は、兄にわざと暴力を振るわせ、罪悪感を植えつけて支配下に置いた。

 ――兄弟のあいだにも、はかりごとは必要なのだよ。よりよい結果を導くにはな。

 父の言葉を思い出す。

 お父さん、こういうことよね? 心の中で尋ねると、果てしない無音が返ってきた。既に肉体を持たない父は、何の返事もしてくれなかった。

「九天。俺は何をすればいい?」

 椅子の上の兄が、無邪気な笑みを浮かべて言う。その顔はこれまでになく晴れ晴れとしていた。その表情を見て、九天の背筋は凍りつく。呵責という荷を下ろした兄は、全ての責任から解放された顔をしていた。九地が下ろした荷は、これから九天が一人で背負うことになる。

 顔の筋肉が強張る。自分の目元に皺が寄るのが分かった。木の皮の仮面をかぶったようだった。透明なレジンで全身を固められたようだった。九天は声を出そうとする。しかし声は出なかった。口の中が乾いていた。炎を飲み込んだようだった。

 兄は自分を信用している。そして、どんな命令でも聞こうとしている。他人に全てを頼られる重み。胸に大きな痛みが走る。人に無条件に信用される。そのことに何の痛みも恐れも感じない人間はいるのだろうか。もしいれば、どこか心が壊れている。九天は、赤子のような兄の笑顔を見ながらそう思った。

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