■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆四「闇の繋がり」

 部活を終える時刻になった。部室に翔の姿はない。電脳部でデータを修正したあと、軽音部に行って音合わせをしている。光はパソコンの電源を落として、スマートフォンを鞄に仕舞う。今日も、エミペディアを更新した。桜小路先輩との距離はさっぱり近づいていないが、情報が増えたことで満足する。

「ねえ、平原くん、一緒に帰ろう」

 桜小路先輩の声だ。部室がざわめく。天変地異か。この世の終わりか。光は緊張してあたふたする。観察者の立場から当事者の立場に突然放り込まれた。そのことで頭が真っ白になる。

「は、はい」

 声は無様に裏返った。

 並んで廊下を歩き、先輩と雑談する。桜小路先輩の話題は、主に開発のことだ。変わったユーザーサポートのメールが来た。ロシアのクローラのお行儀が悪くて困る。ドイツからの謎の連続アクセスに悩んで遮断した。それらの話に相槌を打ちながら、ネットで得た知識を総動員して会話する。

 玄関に着いた。靴を履き替える。運動場に面した屋外に出る。空がとても広かった。西の端に夕暮れの太陽が落ちかけている。夜がゆっくりと頭上を覆いつつある。時の移ろいを感じた。青春の貴重な時間を、憧れの女性とともに過ごしていることを実感する。

「今、ビジネスのオファーが来ているの。ベンチャー企業に誘われているの」

 突然の告白に驚いた。桜小路先輩は、眼鏡の奥の目を輝かせている。未来への希望で、胸を膨らませている。

「高校や大学に通いながらでもいいって話なんだ。だから真剣に考えているの」

 先輩は、これまでオファーのあった様々な提携話を語る。その中から、ネット経由で知り合った信頼できる人を選んだと告げた。肌が触れそうな距離にいるのに、遥か遠くにいるように感じる。一つ年上の女性は、自分が知らない世界をたくさん経験している。二人の世界は離れており、容易には交差しない。同じ場所にいても、見ている世界の大きさも形も違っていた。

 校門を抜けて並木道をたどる。ぽつぽつといる生徒の姿は、暮れゆく空に現れた明るい星々のようだった。なぜ、今日に限って自分を誘い、こうした話をしてきたのか。桜小路先輩は、この場の空気を壊さないように繊細な口調で話しかけてきた。

「平原くん、いつも私のことを見ているでしょう。だから先生に、私のことを相談してくれたんじゃない?」

 桜小路先輩も、今日、あかり先生に呼ばれて準備室に行った。ばればれですよ先生。秘密にしてくれると言ったのに約束を守ってくださいよ。光は苦情を言いたくなる。

 ――いつも私のことを見ているでしょう。

 はい、見ています。先輩に下心を見透かされていたことを知り赤面する。

「私は大丈夫よ」

 年上の女性の声で先輩は言う。年は一つしか離れていないのに、親戚のお姉さんが幼い子供を諭すような口調だった。

 ホテルで会った人は誰ですか? 尋ねたくて聞けない問い。簡単な質問なのに口にすることができない。心配する後輩とストーキングする後輩。わずかな差でしかないが信用は大きく損なわれるだろう。

「悪い人に騙されたりしないんですか?」

 大人の世界には悪人がたくさんいると主張する。

「心配性ね。信用できる人だから」

 先輩は明るく笑う。信用できる人――。その答えはとても危うく感じられた。


 バス停の前で桜小路先輩と別れた。下校する生徒の姿はまばらになる。先輩との会話を思い出して足取りが重くなった。ゆっくりとした足取りで歩いていると背後から足音が聞こえてきた。音は徐々に近づいてきて横に並ぶ。振り向くと九天がいた。目つきの悪い顔で、こちらに視線を注いでいる。

「どうしたの九天?」

「岩田とラングモックの情報なんだけど、今聞く? それとも明日の方がいい?」

 光は苦笑する。先輩との会話を、うしろで聞いていたのだろう。他人に聞かれたくない話は、公共の場所でするべきではない。

「今話しても大丈夫な内容?」

「非合法な情報じゃないから問題ないわよ」

「じゃあ教えて」

 光は九天の歩幅に合わせて歩く速度を緩めた。

「ラングモックという会社名は、ランゲージモックアップという名前を略したものらしいわ。代表取締役の岩田は、日本人とフィリピン人のハーフ。彼はアジア圏、特にフィリピンから日本に進出する中小企業をサポートする仕事をしている。

 主な業務は、日本法人を作る際の手伝い。法律や商習慣の違いがあるでしょう。先行して場所を確保して、法人登記をして、自分を代表として登録しておく。取引先が進出する際に、登記情報を書き換えて譲渡する。あるいは適当な者を代表に据える。ゼロから会社を作るよりは簡単。岩田の方も繰り返し作業だから特別なスキルは要らない。コネさえあれば定期的に仕事をもらってお金を得られる。

 顧客は主に海外だから、ウェブサイトで日本人向けに宣伝する必要はない。だから真面目にサイトを作っていなかったのね。情報がほとんどなかったのもうなずける。岩田は、そうした仕事をしている。だから自分が作った会社を、一つずつ把握していない可能性もある。

 おそらくプラチナバリューも数多く登記した会社の一つだと思う。岩田が代表のままだということはまだ売っていない。その売却相手が地井の可能性がある。それが、おにいちゃんの見立てよ」

 九天は説明を終えた。光は彼女と並んで歩きながら考える。地井は岩田から会社を買う予定なのか。新しく作るのではなく購入する。もしそうならば存続期間を長く見せたいわけだ。つまり、きちんと活動実績のある会社だと思われたいのだ。いったい、なぜそんなことをしようとするのか。僕が高校生だから分からないだけで、大人の世界では当たり前のことなのか。

「ねえ、九天どう思う?」

「怪しさ大爆発。桜小路先輩は、何でこんな、やばそうな相手を信じているの?」

 自分以外の目からも見ても、やはりおかしな話に見えるようだ。

「騙されていると思う?」

「他人を信用している時点で、全ての人は騙されているのよ」

 身も蓋もないことを九天は言う。さて、どうするか。桜小路先輩は、地井を信用している。僕はただの観察者でしかない。僕と先輩の人生は交わらない。光は、一つ年上の憧れの女性を、諦めるべきかと考えた。


 平原くんに心配をかけてしまった。桜小路恵海は、重い気持ちで家路をたどる。足元は坂になり傾斜をのぼっていく。繁華な通りを離れると大きな一軒家が多くなった。丘の上にある家の門をくぐる。二台分の駐車場は今日も空だ。鍵を開けて中に入る。無言のままキッチンに行き、冷蔵庫を開けてペットボトルを出した。

 棚からコップを取り、冷たい麦茶を飲む。テーブルの上のメモを見て夕食を確認する。お手伝いの佐山さんが書いたもの。昼のうちに来て家事をしてくれる五十代の女性。今日のメインディッシュは鶏肉のトマト煮込み。鍋を火にかけて食べるように指示がある。冷蔵庫にはサラダが入っている。

 食事を先にするか、お風呂を先にするか、それとも開発を進めるか。斜め上を見上げて考える。相談相手はいない。全てを自分で決めるしかない。どの順番でもよいが、両親が帰宅するまでに食事を終えている必要がある。開発に没頭して叱られるリスクを考えると、先に夕食にするべきだろう。恵海はコンロの火をつける。炊飯器からご飯をよそい、サラダを冷蔵庫から出した。

 ――いただきます。

 声に出さずに言って食べ始める。食事中にテレビなどを見てはいけない。そう言われて育てられたので静かに箸を動かす。食事時間はきっかり十分。使った食器を食洗機に入れてスイッチを押した。

 お風呂に入ってから開発をしよう。没頭して入り忘れると叱られる。給湯ボタンを押したあと自分の部屋に行く。荷物を置いて制服を脱ぎ、そのままの姿で脱衣所に向かった。服を脱ぎ、体重計に乗る。運動しなきゃ。そう思うけど実現したことはない。浴室に入り、体を洗い、いつものように五分湯船に入って外に出た。

 さあ開発をしよう。自室に戻り、ノートパソコンを広げて画面に向かう。すぐに集中する。TODOリストを見て、改良すべき点を端から順に潰し始めた。どういった処理で実現するかは既に考えている。下校のとき、食事のあいだ、風呂の時間。絶えず頭の中で、開発をおこなっている。コードが脳内で完成しているものもあれば、実現方法だけに留めているものもある。ネットにどのようなライブラリやアルゴリズムがあるかは覚えている。必要に応じて検索エンジンでコードを呼び出し、ライセンスを確かめて自分のプロダクトに組み込んでいく。

 今取り組んでいるのは完全に新しい機能だ。こうした機能をトランクに関連づけることは想定していなかった。サーバーやクライアント向けの実行ファイルはもらっている。APIのドキュメントもある。あとはこちらの実装だけだ。どう組み込めば最良のユーザー体験ができるかを考える。全てのユーザーを、精神的にも経済的にも幸福にしたい。自分の思考と決断が、多くの人の人生を豊かにすると信じている。

 玄関で物音がした。集中して作業をしていたため、車の音に気づかなかった。父と母、どちらだろう。車の音を聞いていれば誰が帰って来たのか分かったのに。部屋からは駐車場が見えない。母なら放っておいても咎められないが、父ならきちんと挨拶をしろと言われる。恵海は手に汗を掻く。何をやっているんだと叫びだしたくなる。

 席を立って扉に向かった。廊下に出て、階段を足早に下りる。キッチンに向かう父の背中が見えた。

「お父さん、おかえりなさい」

「恵海。家の人が帰ってきたら、きちんと玄関で挨拶をしなさい。家族の基本はコミュニケーションだ。そしてコミュニケーションの基本は挨拶だ。それができない者は、桜小路家の者ではない」

「ごめんなさい、お父さん」

 殊勝に頭を下げると父は満面の笑みを浮かべた。

「分かればいいんだよ恵海」

「はい、お父さん」

「恵海はできる子だ。何事も自分で考えて実行できる。私の自慢の娘だよ」

 相談したいことがある。しかし言い出せる雰囲気ではなかった。父はそのまま背中を向けた。そして夕食を取るためにキッチンに消える。今日も話ができなかった。そう思いながら恵海は二階の自室に戻る。会社を三つ経営している父に、店を二つ持っている母。経済的には申し分のない家に生まれた。欲しいと言うと大抵のものは買ってくれた。

 プログラミングを始めた切っ掛けは、小学生のときにノートパソコンをプレゼントされたことだ。父と母を待つ時間を潰すためにプログラムを書き始めた。恵海は才能がある。さすが私の娘だ。父にそう言われて、もっと頑張ろうと思った。

 中学も半ばになった頃には、学校の友人たちと話が合わなくなった。彼女たちは、芸能人のことやユーチューバーのことを話す。恵海はそうしたものに興味がない。会話の相手はネットの大人たちになった。しかし接し方は難しかった。彼らは恵海が若い女性だと知ると露骨なまでに態度を変える。媚びる者、下に見る者、性的な話題を振ってくる者もいた。

 両親に相談したかった。しかし自立を重んじる両親を前にすると言い出せなかった。強い子になりなさい。はい、と答える自分。本当は親に優しく守られたかった。誰かに頼りたかった。しかし自分の悩みを打ち明けられる人間は周囲にいなかった。

 初めてQLNと出会ったのは、OSS――オープンソースソフトウェア――のコミュニティで活動しているときだった。その場所で恵海は、PRUNUSSEAとして発言していた。いくつか分からないことがあり質問をしたら勉強不足と叩かれた。そこに現れたのがQLNだった。答えがまとめてある場所を教えてくれた。その場所はダークウェブの中にあった。

 ダークウェブ――検索エンジンにインデックスされていないアンダーグラウンドの領域。QLNが紹介してくれた場所には、恵海が知りたかった脆弱性情報が集積されていた。ソフトウェアのアンチパターンの宝庫だと思った。どういったところに穴が空きやすいのか知ることができた。

 恵海はQLNにお礼を言う。若い人の力になりたいんだとQLNは答え、ダークウェブの歩き方を教えてくれた。闇の世界に精通した人間。彼はアンダーグラウンドの人脈も豊富だった。しかし本人は裏社会の人間ではないという。健全なビジネスマンなのだと主張した。馬が合い、よく雑談した。少しずつ個人情報を明かすようになった。QLNも自身のことを教えてくれた。

 リアルな世界で一致しているプロフィール。恵海は、自分とQLNの大きな共通点を発見する。広大なネットの海の中で、そうした偶然があることに驚いた。そしてQLNのことを運命の相手だと思った。

 本名を聞く。こっそりと調べた。彼の話は全て事実だった。手の届くところにいる人だと分かった。信用できる存在。これほど近くに理解し合える人がいたのかと感動する。恵海はQLNに、開発しているウェブサービスのことを相談した。QLNは的確なアドバイスを返してくれた。尊敬の念が深まる。そうした日々が続いたあとQLNが提案してきた。

 ――ねえ、PRUNUSSEA。一緒にビジネスをしない?

 ――うん、やろう、QLN!

 父や母よりも私のことを知っている相手。私も彼のことをよく知っている。理解し合ったパートナー。何かをする上で、これ以上の相手はいないだろうと思った。

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