■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆三「軍学の家」

 九天を通して、ナイン電脳探偵事務所に、桜小路先輩の件を依頼した。前金の五千円を支払った。お年玉貯金がぐっと減った。後払いの五千円も控えている。バイトをした方がいいかもしれない。面倒だな。疲れるな。光は一万円の重みを感じる。

 九天と別れて家路をたどるあいだ、自分は何をやっているのだという思いを強くした。桜小路先輩のことを延々と調べている。あまつさえ、その安否を気遣い、会った相手の身上調査をしようとしている。馬鹿だ。果てしなく馬鹿だ。自分の行動の支離滅裂さに嫌気が差す。これが世に言う恋なのだろう。それとも僕は、ただの偏執狂のストーカーなのだろうか。

 街灯の間隔が広い夜道を歩く。どうせ、少し調べれば分かるような、落ちが待っている。開発会社の社長とか、オープンソースソフトウェアのコミュニティの人とか。

「はあっ」

 光はため息を漏らしながら、重い足を動かした。


 翌日学校に行った。授業は上の空で聞いた。いつもと変わりがないと言われれば、そのとおりだ。しかし輪をかけてぼうっとしていた。昼飯を食べ損なうほど、ぼんやりとしていたのは自分でも驚いた。お腹が減っている。早く部室に行って、弁当を食べよう。扉を開けると先客がいた。桜小路先輩がいて、荷物を肩から下ろしていた。

「先輩、早いですね」

「早く開発の続きをしたいから」

 花がぱっと咲いたように笑みを見せる。ずるいよなと光は思う。飾ろうとしない天然の可愛さだ。こうした表情が自然と漏れる人は周りから愛される。人々の好意を集めて信用される。九天とは逆だな。彼女には悪いが器が違う。九天は笑顔を見せないだけでなく、いつも何か企んでいる。そうした人間は、油断のならない相手として距離を置かれてしまう。

 桜小路先輩は、鞄からノートパソコンを出して起動する。それとは別に、部室のパソコンの電源を入れて席に座った。光も椅子に腰を下ろし、スイッチを押す。デスクトップが表示されるのを待ちながら、先輩の姿をちらちらと視界に入れた。先輩はUSBメモリを持ち、部室のパソコンに差している。何をしているのだろう。ソフトでもインストールしているのかな。

 ネット経由ではなく、USBメモリ経由。疑問に思い、桜小路先輩に顔を向ける。先輩はそのままノートパソコンで開発を始めた。時折顔を上げてデスクトップパソコンのモニターを確かめている。先ほどのUSBメモリと、何か関係があるのか。あとで画面を見に行こうと思った。

 お弁当を開けて食べ始める。空腹を解消したところで、ウェブブラウザを開き『トランク』にログインする。桜小路先輩が開発しているウェブサービスだ。質問が何件か届いている。誰が送ったか分からないものだ。その内容を見るのは、ボトルメール的な面白さがある。依頼をこなして経験値を積むRPG的な楽しさもある。

 光はトランクをまめに利用している。毎回、きちんと調べて回答を書いているので、いくつかの分野の専門家として認定されている。過去に書いた内容は、ブログのように、自分のアカウントに紐づけされて公開されている。そのため、たまにヘッドハンティングのメールが、誤って送られてくることもある。

 部員がぼちぼちと増えてきた。三年生は少なく、一、二年生が多い。

「ようっ、ヒカル」

 親友の翔もやって来た。

「あれ。今日は、おまえの嫁は来ていないのか?」

「だから、九天と付き合っているわけじゃないから」

 否定の言葉を笑顔で受け流して、翔はヘッドホンを装着してパソコンに向かう。新しい曲を打ち込んでいるのだろう。軽音部にも所属している翔は、DTMをするために電脳部に籍を置いている。打ち込みのデータは、ネット経由で自宅と共有している。

 桜小路先輩のUSBメモリを思い出す。自宅とのデータ共有ではあまり使わない。そもそも先輩はノートパソコンを持ち歩いているのだから必要ない。誰かにもらったのではないか。もしかして昨日ではないか。それをなぜ学校の部室のパソコンに差しているのだ。理由を考えようとするが思いつかない。桜小路先輩が自発的におこなっていることなのか。昨日会った男に命令されたことではないだろうか。先輩を視界に入れてあれこれ考えていると部室の扉が開いた。

「ぴかりん、いる?」

「おっ、嫁が来たぞ」

「違うから」

 翔に突っ込みを入れたあと席を立つ。

「何、九天」

 九天は、親指を廊下の先に向ける。一緒に帰るぞという合図だ。九天はちらりと桜小路先輩を見る。昨日の件について話があるのだ。

「分かった。ちょっと待ってね」

 荷物をまとめて席を立つ。その横で翔が、裏声で演技を始める。

「ぴかりん、一緒に帰りましょう! 九天ちゃん、手を繋いでいきましょう! そして二人は夜の街に消えた」

 勢いよく鞄を振って翔の頭にぶつける。

「痛えなあ」

「ショウと僕は違うんだからさ」

 女たらしの翔をにらむ。

「そうかい、そうかい」

 翔はヘッドホンに手を添え、目をつぶって体を揺らし始めた。


 古めかしい集合住宅、エスポワールの二階、ナイン電脳探偵事務所の扉を、九天が開けた。

「ただいま」

 九天は声をかけて中に入る。光もあとに続く。部屋の中央には、青羅紗のビリヤード台が鎮座しており、壁際には無数のガラクタが並んでいる。奥には小さな机があり、ノートパソコンが置いてある。その前には、白いシャツに、緋色のサスペンダーの来栖九地が座っていた。

「おかえり、九天。平原くんも来ましたね。昨日の件、桜小路恵海さんが会っていた人物についての調査報告をします。まだ途中ですけどね」

 九地は糸のような目で笑みを浮かべる。彼は席を立ち、ビリヤード台の上に板を載せて広いテーブルにした。

「まず、プラチナバリューの登記簿を取ってきました。住所は既に知っていますね。新宿区の四ツ谷駅近くです。社長の名字は岩田です。下の名前は、ムサシと読むのか、タケゾウと読むのか分かりません。どちらにしろ、強そうな名前ですね」

 光は印刷された報告書を見る。岩田武蔵。新しい人物が現れた。

「地井という名字ではないんですね?」

「ええ。ですから、昨日桜小路さんが会った人は、プラチナバリューの代表ではありません。社員なのかもしれません。あるいは会社名を騙っていただけの可能性もあります。そんなことをして何の利益があるのかは分かりませんが」

 九地は、板を渡したビリヤード台の上にノートパソコンを置く。

「岩田について調べてみました。複数の会社の代表になっています。どれも規模が小さな会社です。岩田はかなり頻繁に法人を登記しているようです。それ自体は犯罪ではありませんが、ちょっと怪しい行動ですね」

 謎が飛び火した。謎の人物を探ったら、その先に迷路が待っていた。

「岩田が代表をしている会社の中で、ウェブサイトがあるものが一つあります。名前はラングモック。ただし事業内容は書いてありません。プラチナバリューと同じ住所にあります。住所の場所にも行ってきました。最近はストリートビューで確認できますが、いちおう念のためにというわけです」

 九地はノートパソコンに写真を表示する。マンションの外観、一階の集合ポスト、部屋の前まで行き、看板を撮ってきたものもある。

「今日までの時点で判明した情報は、こんなところです。平原くん、調査を続けますか?」

 九地は笑顔を光に向ける。すぐに結果が出ると思っていたが、そうはならなかった。桜小路先輩は、自分が会った相手が何者なのか把握しているのだろうか。

「続行をお願いします」

「分かりました」

 お節介なのは分かっている。しかし、気になって仕方がなかった。早く問題のない相手だと知り、安心したかった。


 すっきりしない日々が続いている。一昨日は、桜小路先輩がホテルの前で男と会うところを目撃した。その日のうちに、相手がビジネス目的だと推測できた。しかし翌日に、男が名乗っていた会社の持ち主が、謎の人物だと判明した。先輩が会っていた美形の男性についての情報は手に入っていない。直接聞けば分かるのだけど、そうすれば僕のストーカー行為がばれてしまう。

 授業が終わり放課後になった。教室では声が湧き上がり、大声での会話が始まる。運動部の人間は急いで出て行く者が多い。文化部はもう少しゆっくりしている。どこにも属していない帰宅部の人間は、スマートフォンでゲームをしたり、すぐに帰ったり、それぞれだ。

 光は友人たちとユーチューブの動画について盛り上がったあと教室を出た。今日は部室で、エミペディアをもりもりと更新するかな。日課になっている桜小路先輩の記録のために部室の扉を開ける。既に部員が多くいる。一番奥には電脳部の女神である桜小路先輩が座っている。表情が険しい。開発モードに入っている。

「あら、平原くん」

 呼びかけられて、いつもと違う人が部屋の隅にいることに気づく。眼鏡に私服で、お団子ヘアー。珍しいなと思う。国語の早瀬あかり先生が座っていた。あかり先生は、嬉しそうに笑顔を見せる。彼女は誰にでも愛想がよい。まだ二十代という若さもあり、生徒たちからは、あかり先生と呼ばれて慕われている。

 彼女は電脳部の顧問だが、コンピュータはあまり詳しくない。どちらかというとアナログ人間で、本は必ず紙で読む。情報技術に疎いのに、若いからという理由で顧問を引き受けさせられたそうだ。

「何かあったんですか、あかり先生。普段顔を出さないのに」

「ごめんね、不真面目な顧問で。でも私、コンピュータのことはよく分からなくて」

 手を合わせて苦笑を漏らす。まあ、本当の理由は、以前のトラブルが原因だろう。素人のあかり先生が、延々と桜小路先輩に質問を続けていたら、開発ができないので静かにしてくださいと叱られた。先輩の口調は穏やかだったが、先生はひどく落ち込んだ。生徒に邪険にされたのがショックだったのだろう。一週間ぐらい、授業中も暗い表情のままだった。

「ねえ、平原くん、ちょっといい?」

「何ですか」

「準備室で話をしたいんだけど」

 どういうことだと思うと、翔が笑みを向けてきた。何か仕組んだな。どうせ、ろくでもない悪戯だ。翔は、そういった子供っぽいことをよくする。

「はあ、分かりました」

 あまり気は乗らないが、相手は先生だ。きちんと対応しよう。光は荷物を席の下に置き、あかり先生とともに、準備室に移動した。


 隣にある準備室は、部室の半分ぐらいの広さだ。スチール製の棚が壁を覆っており、古い機材やコード類、昔の部員が残していったガラクタの数々が収まっている。部屋の中央には、作業ができる広い机がある。半田ごてを使っていた時代の名残だろう、天板には焦げ目や穴が無数にあった。

 あかり先生はパイプ椅子を出して机の横に座る。光も同じように椅子を手に取り、斜め向かいに腰を下ろした。

「ねえ、平原くん」

「何ですか?」

「来栖さんと付き合っているって本当?」

「ぶっ」

 思わず噴いて、隣の部屋にいる翔に恨みの視線を向ける。翔の奴、面白いと思って、先生に話したのか。それとも、光がいないときに先生が来て、たまたま話題になったのか。どちらにしろ、あとでジュースでも奢らせないと気が済まない。

「いや、九天とは恋人でも何でもないですから」

「平原くんと来栖さんって、九天、ぴかりんって、名前で呼び合う仲なのよね」

 真面目な顔で、あかり先生は言う。駄目だこの人、他人の話をまるで聞こうとしない。国語教師なのだから言葉は正しく受け止めて欲しい。いや国語教師だからこそ、行間を読んで妄想を膨らませているのかもしれない。

「それにしても、九天って名前は変わっていますね」

 光は、必死に話を逸らそうとする。

「孫子の兵法、形篇よ」

 すらりと出てきた答えに驚き、視線を注ぐ。

「善守者、藏於九地之下、善攻者、動於九天之上、故能自保而全勝也。よく守る者は、九地の下にかくれ、よく攻める者は、九天の上に動く。ゆえに、よく自らを保ちて、勝をまっとうするなり」

 ぽかんとして、あかり先生の顔を見る。

「守備の上手い者は、地下に隠れる。攻撃の上手い者は、空の上を動く。だから味方を傷つけずに勝ちを収める。そういった意味よ」

「有名な言葉なんですか?」

 尋ねると、あかり先生は首を横に振る。

「名前の由来を聞いたことがあるの。だから知っていたのよ」

「九天から?」

「違うわ、彼女のお兄さんから」

「九地さんからですか!」

 あかり先生はうなずいた。先生は遠い目をする。在りし日の記憶を蘇らせるように、しばらくたたずむ。

「来栖くんとは、高校時代に部活が一緒だったの。母校はここ。図書部に所属していたの。同じ学年は三人。そのうちの一人が私で、もう一人が来栖くんだったの」

 なるほど。九天だけでなく九地の名前も変わっている。由来を聞いていれば、おのずと九天についても同じ理由でつけられた名前だと分かる。

「来栖くんの家はね、軍学者の家系だったそうなの。だから孫子の兵法にちなんだ名前を親がつけたのね。名づけのときに由来のある言葉を選ぶ。そうした決まりがある家だって高校時代に話していた」

「古風な家系なんですね。でも、今は自由奔放そうな暮らしをしているようですが」

 二人の両親には会ったことがない。実家から離れて、兄妹で暮らしているのだろうか。よくよく考えれば、九天の年頃で親元から離れているのは珍しい。二人の生活について触れると、あかり先生は悲しそうな顔をした。

「来栖くんが就職して一年ぐらい経った頃、交通事故があったの。それで来栖くんは両親を失った。妹さんは、まだ小学生だったので伯父夫婦の家に引き取られたの。その後いろいろあって、二人で生活するようになったと聞いているわ。あまり伯父さんたちと馴染めなかったのかもしれないわね。人と人は必ずしも上手くいくとは限らない。互いに信用し合っていてもすれ違うこともある。ちょっとしたボタンの掛け違いで、大きく心が離れることもある」

 光はあかり先生の話を神妙に聞く。なるほど親の姿を見たことがないはずだ。事故で既に亡くなっていたのか。小学生なら、まだ甘えたい年頃だったはずだ。いろいろと理不尽な思いもしただろう。彼女が世間を斜に見るのは、そうした経験から来ているのかもしれない。

「私は、来栖くんのおうちの事情を知っていた。そして彼の妹の来栖さんが、この学校に入学してきた。嫌でも注目するわよね。学校で楽しく過ごせているかな。友達はできているかな。でも現実は違った。彼女は友人を作らず、同じ学年の女子たちの中で孤立していた」

 あかり先生は、光を優しい目で見つめる。

「恋人と勘違いしてごめんなさいね。でも、ちょっと嬉しかったの。彼女が気軽に話せる相手が見つかったことが。来栖さんと仲よくしてちょうだいね。孤独に過ごしているようだけど、それは彼女が望んだことではないと思うの。だからといって事情を説明して回るわけにもいかないし。今の話は来栖さんには秘密にしておいてね。同情されると傷つくと思うから。それに生徒の個人情報を漏らすのは本来は駄目なことだから」

「分かりました。僕でよければ九天の話し相手になろうと思います」

 あかり先生は柔らかい笑顔を見せた。

 話は終わった。これで準備室にいる必要はなくなった。去ろうとして席を立つ。その直前、自分では無理だが先生ならできることがあると気づいた。

「あかり先生、最近、桜小路先輩が少しおかしいんです」

「どうしたの?」

「何か、浮ついているというか、知らない人と頻繁にやり取りしているというか」

 光の口から聞くと変なことでも、先生の口から尋ねれば自然なこともある。自分と先生では社会的な信用度が違う。どの経路をたどるかで、情報の入手のしやすさは変わる。

「分かったわ、さりげなく話してみる」

「僕から聞いたということは秘密にしてくださいね」

「大丈夫よ。言わないから」

 頭を下げて立ち上がる。部屋の入り口に向けて歩きだしたあと、ふと気になったので、振り向いた。

「高校時代の九地さんって、どんな人だったんですか?」

 不意打ちの質問に、あかり先生は頬をわずかに赤く染める。

「とても優しい人よ。情が厚いというか。他人を心から信用する人。もう一人の図書部員の友人と仲がよかったわ。平原くんと須崎くんみたいな関係ね。私はその横で突っ込みを入れる役だった」

 あかり先生は大切な珠を撫でるような声で言う。違和感があった。光は豹変した九地を知っている。高校時代は、そうした性向を隠していたのだろうか。あるいは卒業後に何かあったのか。当時の九天は、まだ年端もいかない子供にすぎない。高校生の兄の行動を決めていたとは思えない。

「好きだったんですか?」

 立ち入りすぎだと思いつつ尋ねる。あかり先生は曖昧な表情をした。肯定とも否定とも取れる顔。好意はあったのだろう。恋愛までは発展しなかったのかもしれない。大切な記憶。青春の残滓を、心の小箱に収めている。先生は少女時代を振り返るように微笑んだ。

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