■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆二「女子高生とホテル」
夜になった。学生服のままではまずいと思い、私服に着替えて家を出た。横浜駅から川沿いに歩いた先のホテルコルチェスター。光は血涙を流しそうな気持ちで、ホテルの入り口が見える茂みに身を潜めている。
スマートフォンの時計を確認する。十八時五十分。予定の時刻の十分前に、桜小路先輩が現れた。学生服のままだ。そうか制服でのプレイか。妄想は暴走し、心の中のもう一人の自分が、魂の叫びを上げながら荒野を駆け回る。
先輩は腕時計を見ながら誰かを待っている。五分が経った。一人の男性が現れて、桜小路先輩に声をかけた。二十代半ばから後半ぐらい。すらりとした肢体に整った顔、肩ほどもある長さの髪。細身のスーツに身を包んだ美形の男に、桜小路先輩は笑顔を向ける。
ああっ、と思わず声を漏らしそうになる。スーツは高級そうだ。身のこなしも優雅だ。外見、社会的地位、能力、その全てで自分は劣っているのだろう。戦う前から敗北は確定だ。近代兵器に竹槍で対抗するようなものだ。悲観のスパイラルに入る。心は絶望のどん底に落ちていく。
あの男が、予定表にあったQLNという人物なのだろう。先輩は楽しそうにQLNに笑いかける。二人は並んでホテルの入り口に歩いていく。僕は涙の尾を引きながら、彗星のように夜の街を走りだした。
ぽつぽつと街灯が点いている道を、とぼとぼとした足取りでたどっていく。憂鬱だった。定期試験でヤマが大きく外れたときでも、これほど落ち込みはしなかった。お年玉をまとめて落とした小学四年生のときに匹敵する絶望具合だ。
アパートが近づいてきた。家に帰ったら、そのまま布団にダイブしよう。家事を何もしていないから、お母さんに叱られる。しかし知ったことではない。心の大切な部分をギロチンにかけられたような気分だ。精神的去勢。EDまっしぐら。気を抜くと、先輩があの男とよろしくやっている姿を想像してしまい、涙がこぼれてくる。
暗がりを歩いていると、道の先に人影があることに気づいた。壁に背を預けて、スマートフォンを覗いている。視線を向けると顔を上げてこちらを見た。九天だった。こんな夜更けにどうしたんだと思い、近くまで行き、声をかけた。
「夜遅くに女の子が出歩いたら駄目だよ。悪い男の人に襲われてしまうよ」
彼女の手のスマートフォンからは光が漏れている。光を下から受けた九天の顔は、目つきの悪さと相まって、ホラー映画にそのまま出られそうだった。
「さすがに悪いと思ってさ」
「何が?」
「糞ストーカー男って言ったこと」
真面目に言う九天の顔を見て、光は思わず腹を抱えて笑いだした。
「何がおかしいのよ」
不満そうに九天は言う。
「糞ストーカー男は事実だしね」
目から涙がぽろぽろと溢れる。
「ねえ、九天。ちょっと話をしない?」
涙をぬぐい、近くの公園を指す。
「コーヒーを奢ってくれる?」
「甘い奴?」
「ブラックで」
「苦いのが好きなの?」
「甘いのが嫌いなだけ。飲み物も人間も、甘い奴は反吐が出る。だから、ブラックコーヒーがいいの」
九天は吐き捨てるように言う。相変わらずだなと思い、自販機でコーヒーとジュースを買う。二人で公園に入り、光はブランコに腰を下ろした。
「落ち込んでいるみたいだけど何があったの?」
立ったままコーヒーをすすり、九天が尋ねてきた。彼女は背が低いので、それほど見上げずに話ができる。
「実はね、盛大に失恋をしてきたんだ」
予定表を見たこと、ホテルに行ったこと、そこで見た出来事を話す。
「はあ、呆れるわね」
九天が、心底くだらないといった様子で言う。
「呆れるだろう。僕の馬鹿さ加減に」
光は、苦笑しながら応じる。
「ぴかりん。あんた、おにいちゃんから何を学んでいたの?」
「えっ」
九天の台詞の意味が分からず声を漏らす。
「桜小路先輩の服装は?」
「学生服だった。学校帰りなんだろうね」
「やっぱり、あんたは馬鹿ね」
ため息とともに九天は言う。
「あんた、ホテルコルチェスターについて調べたの?」
首を横に振る。
「私も使ったことがあるから、どういうところか知っているわ」
九天がホテルを使った! 赤面すると思いっきり頭を叩かれた。
「痛いなあ」
「あんた、いかがわしい想像をしたでしょう。この不純異性交遊男め」
ばしばしと頭を叩いてくる。反撃する気もなかったので無抵抗でいると、すぐに攻撃はやんだ。
「あそこの一階には喫茶店があってね、商談でよく使われるの。出張などでよく使われるホテル。あんたが想像するような目的で利用する客はいないのよ。そういう目的なら、駅の周りに、いくらでもラブホがあるわ。それに、そうした行為をするなら、学生服なんかで行くわけがないじゃない。調査力も観察力も想像力もゼロ。だから馬鹿と言っているの」
なるほど。自分の馬鹿さ加減に、光は気づく。
「じゃあ、桜小路先輩は潔白ということなの?」
「まあ、そうとは限らないわね。桜小路先輩、滅茶苦茶嬉しそうだったんでしょう?」
九天は意地悪そうに言う。うっ、あれは商談というレベルを超えていた。知らない相手に見せる笑顔ではない。
「それで、その男の写真は撮ったの?」
「えっ? そんなことはしていないよ」
「使えない男ね」
ため息とともに九天は言う。
「まあ、写真はなくてもいいけどね。どういう相手か、素性を知りたいじゃない」
九天は、邪悪そうに口の端を上げる。好奇心なのか、光の恋の支援なのかは分からない。九天は、同学年の女子たちから、蛇蝎のごとく嫌われている。その評判の悪さから考えて、桜小路先輩の弱みを握ろうとしているのかもしれなかった。
「ついてきなさい。行くわよ」
「どこに?」
「ホテルコルチェスター」
目を見開いて九天を見る。
「興味があるんでしょう。相手がどんな男なのか」
悪巧みの表情を九天はする。断るべきだと思った。しかし、エミペディアの情報を充実させるチャンスだとささやく自分がいる。
「行こう」
心を決めて歩きだす。光は九天に従い、歩いてきた道を引き返し始めた。
高校生が出歩くには、際どい時間になっている。光も九天も制服のままだから、補導されてもおかしくない。幸いなことに、声をかけられることなく、二人はホテルコルチェスターに着いた。
コルチェスターは、イギリスの街の名前だ。ケルト語での名前は、カムロドゥノン。戦の神カムロスの要塞という意味を持っている。ローマのブリタニア征服で要塞が作られ、一時期はブリタニアの首都とされた。アーサー王伝説の、キャメロット城の跡地という話も出ている街だ。その戦の神の要塞に、これから攻め入る。戦闘に臨む心持ちで、光は入り口をくぐり、喫茶店に入った。
「コーヒー二つ」
席に着いたあと、慣れた様子で、九天は注文した。
「僕は、甘いジュースがよかったんだけど」
「そう? だったら、すぐに注文すればよかったのよ」
「そうだね」
仕方がない、相手は九天だ。諦めて周囲を見渡す。客の入りは半分ぐらい。桜小路先輩の姿はない。あれから一時間近くが経っている。既にQLNと別れて帰ったのだろう。
「桜小路先輩、いないね」
「ちょっと席を外すわ」
トイレかな。そう思い、視線で追うと、九天はレジカウンターに行き、店員に話しかけた。二人の姿をながめていると、店員が姿を消した。九天は大胆にもカウンターの中に入り、うろうろしたあと戻ってきた。
「何をしているんだよ九天」
小声で突っ込みを入れる。
「店員を追っ払って、予約ボードを見て来たの」
「どういうこと?」
「さっき公園で話したけど、私はこのホテルを、何度か商談で利用したことがあるの。そしてレジカウンター内のホワイトボードで、予約を管理しているのを知っていた。だからレジに行き、邪魔な店員にこう言ったの。忘れ物の件を、電話で店長に伝えたんだけど、店長いますかと。そして店員に確認に行かせている隙に、ボードを見て戻ってきたというわけ」
なるほど。監視の目を一時的に取り払ったというわけか。九天は紙ナプキンを一枚引き抜き、ボールペンで字を書き始める。
――プラチナバリュー、地井。
「これが、桜小路先輩が会っていた相手よ。あんたが目撃した時間に予約があったのは一件だけ。間違いないはずよ」
スマートフォンを出してエミペディアに記録したあと、会社の名前をウェブで検索する。結果は数十件。検索結果が異様に少ない。法人情報をまとめたサイトのページしかない。何をしている会社か分からない。桜小路先輩が会っていたのだから、IT企業の人だと思っていた。まともなIT系の会社なら、ウェブサイトを公開して業務内容を掲載している。違う業種の人間なのだろうか。
「ねえ、どう思う九天?」
画面を見せて意見を求める。
「非IT系? 謎の会社ね」
首をひねって九天は答える。
「とりあえず住所を見てみなさいよ。法人情報のサイトに載っているはずよ。国税庁のサイトでも調べられるわ」
検索結果から、適当な法人情報のページを開く。住所を入手できた。東京の新宿区にある。代表社員の名前は分からない。所在地の文字列をコピーして、検索サイトで調べる。マンションの一室のようだ。九天と九地のエスポワールと違い、鉄筋コンクリートで十階以上ある建物だ。
「場所は分かったけど、何をやっているのか不明ね」
謎の会社の人間と会い、桜小路先輩は何をしていたのか。先輩は騙されているのではないか。疑問がむくむくと大きくなる。
「僕は、このプラチナバリューという会社を信用できない。判断の手掛かりとなる情報が不足している。まともな会社だと考えることはできない」
光の言葉に、九天も同意する。まあ、情報がきちんと提示されていても、信用してはいけないことは九地から学んでいる。相手に渡す情報を操作することで、正しい情報しか与えなくても、容易に人を騙すことができるからだ。優秀な詐欺師ほど、吐く嘘は最小限で済ませる。
「先輩が会っていたQLN――地井さんって人、大丈夫なのかな。悪い人じゃないのかな」
九天に意見を求める。
「心配なら、直接聞いてみればいいじゃない」
面倒くさそうに九天は返す。
「駄目だよ。そんなことをしたら、予定を盗み見たことや尾行したことがばれてしまう。そうなったら破滅だよ。僕の恋は終わってしまう」
「スタートラインにも立ってないんじゃないの?」
九天は馬鹿にした口調で言う。
「いや、まあ、そのとおりなんだけど」
光は、夏の日のアイスクリームのような顔になる。
「はあっ、相変わらずね。うちに初めて来たときと同じじゃない。後先を考えずに行動するから、指し手を間違えてしまう」
確かにそうだ。他人からの相談事を、勝手に探偵事務所に持ち込んだ。そのせいで依頼主に報告をするのが難しくなった。
「でも今回の件は、軽率な行動をしたからこそ手に入った情報だよ」
「まあ、そうね」
興味なさそうに九天は答える。
「ねえ、九天。桜小路先輩が会っていた相手について調べられないかなあ」
呆れた目で九天は、光を見る。
「完全にストーカーね」
「うん、そうだよ。でも気になるじゃないか」
「社会人は十万円。学生は一万円」
「ぐっ」
高校生にとって一万円は大金だ。払えない金額ではないが、多くの欲しいものを諦めないといけない。
「ねえ九天。社員割引ってないの?」
「あんた、ただの押しかけ弟子でしょう。社員じゃないわよ」
光は下を向き、大きくため息を吐いたあと、ふと気づいて顔を上げる。
「あれ、そういえば九天は、何でこの依頼を受ける前提で話をしているの? 九地さんの仕事は九天が決めるんだよね。僕のろくでもない仕事を、引き受けてもいいと考えているのはなぜなの?」
大きな力を持つ九地と、それを制御する九天。この兄妹はそうした役割分担をしている。
「ろくでもない仕事って自覚はあるんだ」
蔑む目で光を見る。ハイヒールで頭を踏みつけられたような気分になり、光はぷるぷると震える。
「気になるのよ」
「九天も、桜小路先輩が会った人が気になるの?」
「違うわ。そのQLNという奴が、どうやって彼女の信用を勝ち得たかよ」
光は興味を持ち、九天を見つめる。
「私たちがネットで検索して見つかった情報からは、信用を勝ち得るのは不可能。それなのに、ぴかりんの話を聞く限り、桜小路先輩はQLNに心を許している。何か、表からは分からない理由がある。心をハックした方法がある。手品のタネが、どこかにあるはずよ。まあ、昔からの知人って線もあるでしょうけどね。従兄弟とか親類かもしれない」
「でも、それじゃあおかしい。予定表にQLNなんてハンドルネームを書いたりしない」
「あら、珍しく頭が働くわね」
九天は、感心した声を出す。
「おそらくQLNは、ネット経由で知り合った人物。そしてネットの情報ではなく、対面の情報で相手を信用させた。会った場所からして、やり取りの内容はビジネス絡み。会社はマンションの一室ということから、規模は最大でも数名程度。下手をすると一名しかいない。今のところ犯罪のにおいはしないけど、調べてみる価値はあると思うわ。悪人が出てこない調査なら、おにいちゃんも大鉈を振るう必要はないわけだしね」
「もし悪人がいたら?」
緊張とともに光は尋ねる。
「地獄の裁きをくだすだけよ」
九天は、意地悪な狐のような顔で答えた。
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