■本章「女子高生プログラマー事件」 ◆一「人間信用順位」

 電脳部の机の島の奥には、桜小路先輩が座っている。三つ編み眼鏡の二年生。彼女が利用しているのは、自分で持ち込んだノートパソコンだ。彼女はプログラミングの腕でお金を稼いでいる。バイトに寛容なこの高校では、そうしたことは咎められない。僕の女神である桜小路先輩は、今日も真剣な顔で、自身のウェブサービスの改良をおこなっている。

 先輩のネット上の名前は、PRUNUSSEAだ。名字の桜に、名前の海。桜は英語ではなく、学名のサクラ属PRUNUSである。小学生の頃から、いろいろと作っているので、開発者の中では知る人ぞ知る存在になっている。

 小学生時代からウォッチしている人ならば、PRUNUSSEAが女性だと把握している。中学校に入ってから、性的なメッセージを送りつける大人が出てきたために、性別を公表しなくなった。悲しいことだが、そういう大人がいるのだ。

 彼女が避けようとしたのは、性的なメッセージだけではない。勘違いした大人も拒絶しようとした。プログラムの書き方を教えてやる。企画を与えるから指示どおりに作れ。エディタはこれを使え。開発ツールはこれ以外は許さない。若くて未熟な少女を、俺が導いてやる。やっていることは、アイドルのストーカーと同じだ。

 光は入部後に調べた先輩の経歴を思い出す。先輩も最初からすごいソフトを作っていたわけではない。小学生の頃の作品は、簡単な学習ゲームだった。それでも同年代で同じレベルのプログラムを書ける子供は少なかった。彼女は小学生向けのコンテストで入賞して、文部科学大臣に表彰されている。

 中学生になった桜小路先輩は、ウェブサービスの開発を始めた。サーバーの無料枠を利用しての参入だ。コンピュータを持ち、ネットに繋がる環境さえあれば、大人と同じことができる。

 最初に作ったサイトには、人があまり集まらなかった。しかし学生の特権である時間を使い、次々とサービスをリリースして経験値を溜めていった。高校生になってから、数個のウェブサービスを売却して百万円以上を稼いだ。彼女が開発に用いているノートパソコンは、そうしたお金で得たものだ。既に親からお小遣いをもらう時代は卒業している。欲しいものは自分の資金で購入する段階に入っている。

 先輩が最近力を入れているのは、自身が開発した『ヒューマン・トラスト・ランク』というウェブサービスだ。略称は『トランク』。日本語に訳すなら『人間信用順位』となる。ある分野における信用度を可視化したサービス。ネットのインフルエンサーたちが話題にしたことで、ユーザーが増えてサービスとして軌道に乗りつつある。

 トランクの仕組みはシンプルだ。利用者はユーザー登録する。そして質問を送ったり受け取ったりする。サイトに登録した直後はランダムに質問が届く。誰からの質問かは分からない。送った方も誰に届いているのか知らされない。質問が届いたユーザーは、答えても答えなくても構わない。

 質問は複数の人に送られる。質問者はいくつか回答をもらい、内容を見て点数をつける。その情報をもとに、AIがユーザーの得意分野をカテゴライズしていき、人物の重要度を評価していく。そして徐々に最適な質問が届くようになる。最終的にユーザーは、特定分野のエキスパートであると人工知能に認定され、周囲に示される。各種分野の信用度が可視化されるのだ。

 ユーザーが書いた回答は、点数の集計が終わったあと公表される。その文章がコンテンツになり、検索エンジンから人が流入してくる。ネットにはトランクを応援するコミュニティがあり、サービスの普及に一役買っている。トランクを開発、運営しているPRUNUSSEAは、三十代、四十代の開発者や経営者とも、物怖じせずに渡り合っている。

 桜小路先輩の前には、広い世界が広がっている。彼女の見ている世界は、高校という小さなものではない。そうした目の肥えている先輩に、自分が受け入れられるのは難しいと感じている。高校生同士の恋愛が成立するのは、狭い閉じた世界の中で、互いを認識しているからだ。もし選択肢が広がれば、同年代を選ぶ必要はなくなる。最も価値ある相手を、パートナーにすることができる――。

「おい、ヒカル。おまえ、また先輩のことを見ているのか?」

 横から声をかけられて、慌てて顔を向けた。親友の翔だ。金髪ピアスのモテ男。女子からの人気は、学内で三本の指に入る。DTMに凝っていて、パソコンを使うために電脳部にも籍を置いている。

「急に声をかけるなよ。びっくりしたじゃないか」

 光は、自分が上の空だったことを棚に上げて、文句を言う。

「今日も、ヒカルの女神様は開発で忙しいご様子だな。それでおまえ、告白はしたのか?」

「しないよ」

「じゃあ、先輩のことは諦めたのか?」

「諦めちゃいないよ。自分ではつり合わないと思っているだけだ」

「そうか。桜小路先輩のこと、諦めたと思っていたぞ」

「何でだよ?」

 光は毎日、エミペディアに桜小路先輩の記録を取っている。そうした光が、彼女のことを諦めているわけがない。

「おまえ、最近嫁ができたと評判だからな」

「嫁ってどういうこと?」

 光は、ぽかんとした顔をする。

「来栖と一緒に下校して、彼女の家に入り浸っている。周囲には公認のカップルだと思われているぞ」

「いや、それは違うんだ」

 彼氏彼女の仲ではないと必死に説明する。その声をわずらわしそうに聞いたあと、翔はぽんぽんと光の肩を叩いた。

「何事も経験だ。高嶺の花に憧れるのもいいけど、経験を積むことも大切だ。そういうお年頃だからな。発散しなきゃ、溜まったものは」

 指で卑猥な形を作った翔に、そんなことはしないよと顔を赤くして言う。

「まあ、エミペディアなんか作って、ストーカー行為をしているよりは、よほど健全だと思うぜ」

「うっ」

 痛いところを突かれて押し黙る。

 二人で小さな声で話していると、桜小路先輩が手を止めて立ち上がった。一番奥の席を使っている先輩は、入り口目指して歩き始める。

「先輩、開発は順調ですか?」

 近くまで来たので声をかける。少しでも会話しようと思い、トランクのことを話題にする。

「うん。新しい機能の要望が多く来ているんだけどね。全部実装したら、支離滅裂なサービスになってしまって、メンテナンス性も落ちるでしょう。だから悩んでいるの。シンプルさを維持しながら、絶えず改良されているように感じてもらう。それって難しいなあと思っている。今はね、そうしたことを考えながら、ちょっとした使い勝手を、ひたすらよくしているの。ねえ、平原くんも何か開発しようよ。プログラミングの勉強もしているんでしょう。面白いよ」

 先輩は、眼鏡の奥の目を輝かせながら言う。

「いやあ、僕は先輩みたいに高度なプログラムを書けませんし」

 勉強しているといっても、駆け出しのプログラマーというレベルだ。RPGなら、レベル一か二ぐらい。ハローワールドの呪文を唱えて、ファイル入出力でセーブやロードができて、コピペでデータベースを召喚できるぐらいだ。少し複雑な処理になると、何がどうなっているのか分からなくなる。

「大丈夫よ。私がやっているのは、全然高度なことじゃないもの。計算量を厳密に考えて、処理を書いているわけじゃないし、新しいアルゴリズムを考案して論文を書いたりしているわけじゃないから」

 そうした台詞が出てくる時点で、僕にとっては雲の上の存在ですよ。光は必死についていこうとして話に応じる。先輩の話は止まらない。しばらく会話していると、先輩はもじもじし始めた。

「ごめん、ちょっと席を外すね」

 おそらくトイレに行くつもりで立ったのだろう。途中で開発話で盛り上がってしまい、尿意を忘れていたのだろう。桜小路先輩は、そういうところがある。好きなことについて語っていると、どこまでも話し続けてしまう。

 慌てて飛び出した先輩を見送ったあと、スマートフォンのロックを外す。エミペディアのページを表示して、先輩と話した内容、トイレに行ったことを記録する。隣の翔は、やれやれといった表情をしている。自分でも、よくないことだとは分かっている。しかし、桜小路先輩の記録を残すことを、やめられないでいる。

 光は顔を上げて、そっと廊下の音に耳を澄ませた。先輩はまだ戻って来る気配はない。席を立ち、部室の奥に向かう。本棚があり、プログラミング言語の解説書や、開発手法の書籍が並んでいる。桜小路先輩が入部するまで、棚には初心者向けの本しか並んでいなかったそうだ。しかし、彼女が来てから変わった。本格的な専門書が過半を占めるようになった。

 光は棚から一冊取り出す。その場で読む振りをして、先輩のノートパソコンの画面を覗く。エミペディアの情報を充実させるための涙ぐましい諜報活動。画面には、グーグルカレンダーのページが表示されている。開発の進捗絡みの予定が多い。光は、今日の欄を見て硬直した。

 ――十九時、QLNとホテルコルチェスター。

 ホテル? 驚きで思わず本を取り落としそうになる。あたふたとしたため、部室にいた人たちの注目を浴びる。何でもないことを身振りで示したあと、ぎくしゃくとした動きで棚に本を仕舞う。自分の席に戻ったあと、光は力なく座った。

 桜小路先輩が、誰かとホテルに行く。嘘だ。信じたくない。しかし、高校生という枠組みを超えて、世間を見ている先輩のことだ。実はとても進んでいて、僕には想像できないような、あれやこれやを経験しているのかもしれない。

 頭の中が真っ白になり、燃え尽きた灰のように気力が根こそぎ消失する。トイレに行っていた先輩が戻ってきた。椅子の上で脱力している光を怪訝そうに見たあと、自分の席に座り、作業を再開する。

 ホテル、ホテル、ホテル。言葉が頭の中で、ぐるぐると回る。桜小路先輩のあられもない姿を想像して、不謹慎だと思い、必死に頭から追い払う。不純異性交遊。桜小路先輩に限ってそんなことはない。信じる。信じたい。信じさせてくれ! 心の中で絶叫しながら、椅子の上で体育座りをした。

 部室の扉が開く音がした。

「ぴかりんいる?」

 九天が扉のところで光を呼ぶ。

「平原の嫁だ」

「嫁が来た」

「嫁のお出迎えだ」

「くそっ、リア充め」

「爆発しろ」

 部室の中で、複数の声が聞こえた。いや、だから、そんな関係ではないって。彼女の兄に弟子入りしているだけなんだって。心の中で叫び声を上げる。しかし、経緯を語るわけにもいかないので、荷物をまとめて、すごすごと帰る準備をした。

「ねえ、平原くんも開発しようよ」

 桜小路先輩が声をかけてきた。ホテル、ホテル、言葉が回る。先輩は、プロダクトの開発とともに、違う方面の開発もごにょごにょ。光は涙目になり、九天と一緒に廊下に出た。

「どうしたの?」

 怪訝そうに九天が聞いてくる。

「いや、どうしようかなと思って」

 熱に浮かされたような頭で言う。

「何なのよ話してみなさい。聞いてあげるから」

 九天は、相変わらず尊大な口調で言う。兄の仕事を手伝っている九天なら、尾行も情報収集も得意だろう。冷静ではいられない光に代わって、桜小路先輩のことをしっかり観察してくれるに違いない。

「ねえ、九天。今日の夜、僕と一緒にホテルに行って欲しいんだ」

 ――桜小路先輩の行動を調べるために。

 じっと見つめると、九天の顔が見る間に真っ赤に染まった。口元は、あわあわとしており、足元が覚束ない状態になっている。どうしたんだろう。不思議に思いながら九天の姿を見つめる。

「馬鹿っ」

 拳を握り、腹にパンチを放ってきた。重い一撃を受けた光は、悶絶して廊下に転がる。

「ぶはっ、なぜ」

 床を這い回りながら九天を見上げる。恥ずかしそうに顔を赤らめて、ぷるぷると震えている。

「ふ、不純異性交遊男めっ!」

 九天は目をつむり、よく分からない罵倒の言葉を発する。

「いや、だから、桜小路先輩が今日ホテルに行くみたいだから、あとをつけようと思って」

 必死に事情を説明した。九天の様子が、みるみると冷めたものになる。

「ふんっ、最低最悪の糞ストーカー男ね」

 吐き捨てるように言ったあと、九天は怒った様子で背を向けて、廊下を歩き始めた。ううっ、どうして僕は殴られたのだろう。納得がいかない。そんなひどいことを言っただろうか。光は痛みが治まるまで、廊下で涙を流しながら丸くなり続けた。

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