■前章「女子高生ネットストーカー事件」 ◆四「物語の始まり」

 結局、何も言えなかった。光は反省の念を抱きながら帰宅した。

 五階建て、築二十年の賃貸マンション。天井は低く、部屋は狭い。それでも3LDKあり、自分の部屋を持つことができているので不満はない。

「ただいま」

 誰もいない空間に挨拶だけが響く。共働きの家は、どこもこんなものだ。両親が帰ってくるのは大抵九時過ぎ。二人とも外食をしてくるから一人だけの食事になる。お金を渡すと違うことに使うから。中学生のときに言われて以来、冷蔵庫には冷凍食品がいつも常備されている。

 パック詰めのご飯をレンジに入れて解凍する。おかずを皿に並べてレンジに放り込む。食卓に一人分の料理を用意した。いただきますと言って夕食を始める。わびしい食事だ。小学校の頃までは、母親が一生懸命早く帰ってきていたが、今はそういうこともない。だからといって寂しさはない。スマートフォンでSNSをチェックする。食事中と投稿する。いつも誰かと繋がっている。ネットの友人のおすすめ動画を見て、笑いながら食事の時間を過ごした。

 食器を洗い、部屋に干してある洗濯物を取り込む。風呂に入り終えた頃に、母親が帰ってきた。

「光、宿題した?」

「これから」

「進学校に入ったんだから、ちゃんと勉強しなさいよ」

「はーい」

「宿題、さっさと片付けるのよ。このあと家族でゲームをやるんだから」

「はいはい、分かりましたよ」

 光は仕方がないといった調子で返事をする。

「あんたがいないと回復要員がいないんだからね」

「僕はいつものように、ウィキペディアを読みながら回復だけするからね」

「はあっ、あんた、もっと真面目にやりなさいよ」

 母親は腰に手を添えて文句を言う。光の両親は重度のゲーマーだ。知り合った切っ掛けはMMORPG。母親は戦士系、父親は魔法使い系、二人は回復要員が欲しいということで生まれた子供に光と名づけた。光属性の子供に育つことを期待したからだ。

 家にいるときは大抵ゲーム。小さい頃は、何の疑問も持たなかったが、小学生の半ば頃からおかしいと思うようになった。他の家は、自分の家ほどゲームをしないと聞いて卒倒しそうになった。そうした家だからコンピュータだけは自由に使わせてもらえる。

「ああ、もう、早くお父さん帰ってこないかな。昔はね、こう言ったものよ。ねえ、あなた。お風呂にする、ご飯にする、それともロ・グ・イ・ン? そして、あなたが生まれたの」

「やめてよね。親のそんな話、聞きたくないよ」

「あら、ゲームの話よ、ゲームの話」

 母親は笑いながら言う。

「さあ、さっさと宿題をするのよ」

「えー、お母さんも手伝ってよ」

「自分でやらないと意味がないでしょう。急いでやって家族で一緒に遊ぶわよ!」

 本当に面倒くさい母親だ。光は食卓にノートを広げて宿題を始める。しばらく問題を解き続けたあと、ふと顔を上げた。

「ねえ、お母さんは、どういう人を信用する?」

 唐突な質問に、母親はきょとんとした。光はこの数日、信用ではなく実力でしか解決できない問題に直面していた。そして中身のない自分を痛感した。

「信用ねえ。パーティーを組めるかかなあ。あんたのことは信用しているよ。きちんとしたタイミングで、適切な回復魔法をかけてくれるからね」

 笑いながら母親は言う。いや、ゲームの話をしているんじゃないんだけど。そう思いながら、もう一つ質問した。

「じゃあ、信用されているけど、実力が足りない状態のときはどうするの?」

 母親は光のことをじっと見る。そして真剣な顔をして答えた。

「経験を積んで実力を上げるしかないんじゃない。あとはマンガみたいに師匠に弟子入りするとか。実力を伴うからこそ本当に信用されるわけだしさ。今やっているゲームにしたって、あんたのキャラのレベルが低かったら、やっぱり信用できないしね」

 そうだねと光は言う。自分には信用に見合う実力がない。中身のある人間になるには、経験値や師匠が必要だと思った。


 斎藤の事件から、一週間が経った。光は学校から帰る道すがら、スマートフォンでネットのニュースをチェックする。下塚真司。その名前がニュースサイトで出ている。ネットのまとめサイトやツイッターでも、大きな話題になっている。

 報道が始まるまでは、児童福祉法違反などの容疑で逮捕されると思っていた。しかし、実際の事件はもっと衝撃的なものだった。連続殺人事件。何人かの高校生が、行為ののちに殺されていた。今回の事件は、高校教師による犯行としてワイドショーでも盛んに報道されている。

 斎藤には九天が釘を刺した。警察が来ても、知らぬ存ぜぬで通すようにと。斎藤は九天に弱みを握られたのか絶対に口外しないと約束した。彼女自身も積極的にこの件に関わりたくないのだろう。

 ネットのニュースのチェックを終え、スマートフォンを鞄に仕舞う。信用だけあり、実力のない状態が、いかに危ういかということを光は知った。もしプロに頼っていなかったら、斎藤は殺されていた可能性がある。中身のないまま頼られると、自分を信用した人を傷つけることがあるのだ。

 今後どうするかの選択肢は二つあった。全ての依頼を断ること。あるいは信用に値する実力を身につけること。前者を選ぶのは簡単だ。人間関係にひびが入るかもしれないが、努力は必要ない。しかしソロプレイの人生になる。誰にも頼られない孤独な生涯が待っている。光は桜小路先輩のことを思う。彼女は信用と実力を兼ね備えた人物だ。中身のない者は彼女の横には立てない。困難を克服してこそ桜小路先輩に相応しい人間になれる。

 光は今、ナイン電脳探偵事務所を目指している。実力を持った相手。力の振るい方はともかくとして、その知識と技術は本物だ。その力を学んで自分のものにしたい。信用と実力の両立する人間になりたい。

 駅前の繁華街を抜けて住宅街を進んでいく。エスポワール――希望――と書かれたアパートの前に立ち、階段をのぼる。二〇一号室の前に立った。扉をノックして反応を待つ。

「どうぞ、扉は開いていますから」

 中から男の声が聞こえてくる。優しげな声だ。その響きとは裏腹に、男は心に闇を抱えている。

 光は扉を開ける。茶色を基調とした骨董品が、部屋を覆っている。そのため室内は、外よりも暗い。事務所に入り、扉を閉めた。ビリヤード台の向こうには、ノートパソコンを開いて作業している九地がいる。二人を隔てる青色の羅紗。その青い広がりは、此岸と彼岸を分かつ大きな川のようだった。

「どうしたんですか。また、ご依頼ですか?」

 九地は顔を上げて、にこやかに尋ねてくる。

「僕をアルバイトとして雇ってください」

 決意を込めて言うと、九地は困った顔をした。

「すみませんね。うちはこのとおり儲けはそんなにないんです。今回の報酬も一万円でしたしね」

 九地は、決まり悪そうに肩をすくめる。

「それに私の行動は、自分では決められないんです。妹の九天に決めてもらうことにしているんです。約束ですからね」

 すまなそうに九地は言った。

 光は一呼吸置く。ここで退くつもりはない。今日は首を縦に振ってもらうまで、帰るつもりはない。信用だけの中身のない男とは決別する。九地から知識や技術を盗む。ゲームと同じだ。求められる役割をこなすためにレベルアップする。光は懸命に、バイトとして雇ってくれるよう頼んだ。

 背後で気配がしたので振り返る。開いた扉の向こうに、背の低い九天が立っていた。

「どうして、ここに来栖さんが?」

 彼女が現れたことに驚いて尋ねる。

「どうしてもこうしても、ここは私の家よ。学校帰りに歩いていたら、あんたの背中が見えて何だろうと思ったのよ。そうしたらバイトにしてくれと頼み込んでいる」

 九天は光の横を通り、室内に入る。彼女は学校の荷物をビリヤード台の下に押し込み、冷蔵庫を開けた。ペットボトルの水を出して、切り子のグラスに注いで飲む。立ち尽くしている光を品定めするように見たあと、ペットボトルを冷蔵庫に戻した。

「あんた、ここで働きたいの?」

「うん」

「お金は払えないわよ。うちも火の車でね。だからアルバイトはなし。ただ働きでいいなら、こき使ってあげるけど」

「それでいいよ。来栖さん、弟子にしてください」

 九地に体を向けて、再びお願いする。

「だって、おにいちゃん」

 九天は、九地の顔を見る。

「決めるのは私ではない。九天だよ」

 九地の答えに、九天は兄と同じように肩をすくめた。

「いいわ、平原。弟子入りさせてあげる。でも、仕事は普段何もないのよ。何かあったときに召集するから。あとは、そうね。必要に応じて雑用をしてもらうわ。ちょうど冷蔵庫に食材がないから、買ってきてもらおうかしら。メモ用紙に欲しいものと値段を書くから、その金額以内で購入してきてちょうだい」

「それ、仕事と関係ないんじゃ?」

 馬鹿にされた気がして、思わず突っ込みを入れる。

「弟子なんでしょう。それぐらいやっても罰は当たらないわよ。あと、これを近くのマンションのポストに投函してきて。こっちは探偵事務所のちゃんとした仕事よ」

 九天は、棚から紙の束を出して、ビリヤード台の上に置く。ナイン電脳探偵事務所のチラシだ。

「この仕事のついでに買い物もしてもらう。それでいいでしょう」

「分かったよ来栖さん」

 仕方がない。そう思いながら手を伸ばしてメモとチラシを取る。

「それと私たちの呼び方、兄妹だから来栖さんだと区別がつかないでしょう。おにいちゃんのことは九地さん、私のことは九天と呼んでちょうだい」

「じゃあ、僕のことは光で」

「あら、もっと可愛い名前があるんじゃないの。小学校の頃は、ぴかりんと呼ばれていたんでしょう」

 驚いて九天を見る。どうやらこの少女は、光のことを調べたようだ。小学校時代の封印したい記憶。光がその名前を恥ずかしがることも把握しているのだろう。不満を顔に浮かべる光を見て、目つきの悪い九天は意地悪そうに口の端を上げた。

「よろしくね、ぴかりん」

 こうして最初の事件が終わった。それから僕は、この兄妹と多くの事件に遭遇することになる。

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