■前章「女子高生ネットストーカー事件」 ◆三「裁きの剣」
九地が罠を仕掛けて一日が過ぎた。光は電脳部に顔を出して、いつものように桜小路先輩を観察する。先輩はプログラムを書いている。そうしたときの眼鏡の奥の目は、いつも真剣だ。光はそっと立ち、部屋の奥にある資料棚に向かう。そして背後から、椅子に座った先輩の姿を観察する。桜小路先輩は、今日も髪を三つ編みにまとめている。うなじが露わになっており、白く優美な曲線を描いている。光は触れてみたい衝動を懸命に抑える。手を出すことは許されない。自身の欲望を必死に理性で制御する。
電脳部の女神。僕の憧れの対象。先輩は孤高の存在として部内に君臨している。あまり長いあいだ棚の前にいると、変に思われるかもしれない。自分の席に戻ろうとすると、入り口の扉が開いた。顔を向けると目つきの悪い小柄で華奢な少女が立っていた。
「平原、いる?」
高圧的な声、九天だ。彼女は険しい顔で手招きしている。
「どうしたの?」
廊下に出た光は尋ねる。
「このあと暇?」
デートの誘いでないことは表情を見れば分かる。暇といえば暇だ。桜小路先輩のようにプログラムを書いているわけではない。部室にいるときの光は、ほとんどの時間をエミペディアの更新に費やしている。エミペディアは桜小路先輩のことを記録するために作ったウィキだ。ウィキペディアと同じネット百科事典の体裁を取っており、自分だけが書いたり見たりできる。手に入れた桜小路先輩の情報は、全てエミペディアに投稿している。このページの存在を知っているのは親友の翔だけだ。
光は九天を見ながら思い出す。ナイン電脳探偵事務所を見つけたのは、ちょうどスマートフォンでエミペディアを更新しているときだった。斎藤の件で、ネットストーカーの情報を調べまくった。その行動履歴に連動して、横浜駅の近くにある電脳系探偵事務所の広告が表示されたのだ。光は、初回相談無料の言葉に惹かれて広告をタップした。専門家の意見を聞いてみたいという思いもあった。その結果知り合ったのが、今目の前にいる目つきの悪い九天という少女だ。
「いちおう暇だけど何の用?」
「私が来るように言っても、斎藤が来ないの。だから平原が、斎藤を連れて事務所まで来て欲しいの」
怒ったように九天は言う。話の筋が読めない。そうした態度で尋ねると、いらだった表情で九天がにらんできた。
「私はね、女子のあいだでは嫌われ者なの。残念ながら、私という人間には信用がないの。でも、あんたにはある。だから手を借りたいの」
信用という言葉を聞き、光は考えを巡らせる。自分にはなぜか信用がある。そのことを常々不思議に思っている。逆に九天には信用がないようだ。彼女はそのことで不自由を感じているようだ。
「分かった」
困っている人がいれば全力で助けたい。それは当たり前のことだと思う。そうした教育を両親から受けてきた。それに自分の信用が役立つなら、大いに活用して欲しかった。
「斎藤のこと任せたわよ。なるべく早く連れて来てね。大切な話があるから」
九天は背を向け、足早に去っていった。
何人かに話を聞き、学校の玄関近くの廊下で、斎藤を捕まえることができた。
「ねえ、斎藤さん」
「何だ、平原か」
帰ろうとする斎藤を引き留め、九天から聞いた話をする。
「というわけなんだ。もう一度、来栖さんのところまで同行してくれないかな」
「どうして私が、来栖なんかの家に行かないといけねえんだよ」
斎藤は心底嫌そうに言う。
「大切な話があるそうなんだ。それに後払いの五千円がまだだよね。一緒に払いに行こうよ。僕も行くからさ」
「平原に渡す。だから払っておいてくれ」
財布を出して、斎藤は五千円札を取り出す。
「そういうわけにはいかないよ。自分できちんと払ってよ。それに僕が持ち逃げするかもしれないよ」
必死に説得しようとしたら、斎藤が笑いだした。
「平原は持ち逃げなんかしないだろう。人のいいあんたが、そういうことをするとは思えねえよ」
少し斎藤の態度が軟化した。僕は人がよさそうに見えるのか。別に清廉潔白な人間ではないんだけどな。そう考えながら斎藤の説得を続ける。十分ほどかかったが同行を了解させた。不満たらたらの斎藤とともに、光は学校をあとにして九天の家を目指した。
手書きのエスポワールという看板を掲げた木造二階建ての集合住宅。二〇一号室の扉を開けると九地と九天が待っていた。九地は硬い表情をしている。九天も険しい顔つきだ。何かトラブルがあったのか。それとも重大な事実が発覚したのか。光は心の中で身構える。
斎藤と光が入ってきたところで九地が席を立った。
「犯人が分かりました。名前は下塚真司。都内で高校の教師をしています」
「げっ、学校の先生かよ」
斎藤が驚いて声を上げる。ストーカーも人間だ。寝て起きて食事をする。社会人なら仕事をする。その職業が教師ということもありうる。当たり前のことなのに想像できていなかった。ゲームのモンスターか何かのように考えていた。
「そうです、学校の先生です。しかし問題はそこではないんです。もっと深刻な事実が見つかったんです」
重大ではなく深刻。似た言葉だが指し示す方向が違う。九地はノートパソコンを操作して画像ファイルを開く。女性の裸の写真が表示される。エロ画像か。九天も斎藤もいるのにいいのかな。心配になりながら真剣に見つめる。
何かがおかしい。ネットでよく見かける、その手の画像とは違う。全体的に暗く、画質が粗い。写っている人は怯えている。そして年齢が若すぎる。
「被写体となっている女性は複数います。その中の何人かは、関東の高校の制服を着ていました」
九地の言葉を聞き、女性のはだけた服を凝視する。制服だった。人皮のランプシェードを見たような嫌悪感を覚える。
ノートパソコンに手を伸ばして、九地は画像を閉じた。そして一呼吸置き、体ごと斎藤に向き直った。
「下塚のパソコンに保存されていた写真の少女たちは、いずれも似たタイプでした。斎藤さん、あなたと同じように、派手な髪型や化粧をしてスカートを短くしていました」
「もしかしてレイプなんですか?」
斎藤の問いに九地がうなずく。光は唾を飲み込んだ。九地が説明を続ける。
「警察が犯人を特定するのは困難だと思います。リアルでの接点はないわけですから。それに被害届が出ているかも怪しいです。被害者は被害の事実を隠したいはずですからね」
斎藤の顔は青くなっている。次のターゲットは彼女自身だ。このままでは写真の少女たちと同じ運命をたどる。
「警察に相談するにしても、事件の真相までたどり着くには時間がかかります。だからといって、この情報を持っていくと、私が不正アクセスで捕まります」
そうだろう。証拠になるデータは、相手を罠にかけて違法な手段で入手したものだ。表に出せるものではない。
「どうすればいいんですか」
震える声で斎藤は尋ねる。九地は笑みを浮かべてうなずく。
「闇の世界で蠢いている者には、闇の一手で攻撃を加えるしかありません。斎藤さん、後払い分の仕事について話をしましょう。この下塚真司に制裁を加えますか? 二度と立ち直れない一撃を加えて社会から葬り去りますか? 私は遂行者でしかありません。あなたが選ぶのです。下塚を地獄に落としたければ、私が剣となり裁きをくだしましょう」
九地の声から優しげな雰囲気が消えていた。その代わりに暴虐の気配をまとっている。部屋の空気が濁ったように感じた。空気の密度が高まり、息苦しさを覚える。光は、自身の鼓動が速くなっていることに気づいた。
「さあ、斎藤さん、依頼してください。そして、敵に対して剣となる言葉を振るってください。地獄へ落ちろと!」
九地の声は昂ぶっている。笑ったような細い目が、わずかに開いていた。ぎらぎらした光が目蓋の隙間から漏れている。地獄の入り口が、この場所に出現していた。懐古趣味のアパートに潜む九地は、闇の世界の魔物に見えた。そして、その横に立つ九天の表情は氷のように冷たかった。
「地獄へ落ちろっ!」
斎藤が怒りと憎しみを込めて叫ぶ。その声を聞いた九地が、悪魔じみた笑みを浮かべる。
「九天、いいですか?」
九地は妹に尋ねる。
「許可するわ」
決意を込めて九天は言う。
「しかるべく!」
九地は笑い声を上げながらエンターキーを叩く。ノートパソコンが、カリカリと音を立てる。針山地獄の針たちが、血を求めて一斉にざわめいているようだった。
「地獄の釜が開きました。下塚真司の友人知人のもとに、彼の犯罪の証拠がばらまかれました」
九地は歓喜とともに言う。光は驚いて九地の顔を見た。
「被害者の女の子たちの保護は――」
「私の依頼者は斎藤さんです。何か問題が?」
九地の声に仰け反りそうになる。ぞっとした。この人は何かが壊れている。彼がおこなっているのは正義でも何でもない。依頼の遂行。それでしかないのだ。
「おにいちゃんの仕事は、私が決めるから」
九天がぼそりとつぶやく。光は彼女に視線を向ける。九天の目元には皺が寄っていた。苦悩が顔に浮かんでいた。ばらばらになりそうな感情を、意思の力で繋ぎ止めている。大きな力を使いこなすには多大なる精神力を要する。闇の力で他者を傷つける剣に、抜剣を決断する少女。彼女の心には大きな負荷がかかっている。九天の目つきが鋭く、病んで見えるのは兄のせいだろう。
室内に九地の笑い声が響く。部屋の温度が数度下がった気がした。冷気が背筋を震わせる。その状態がしばらく続いたあと、徐々に寒気は薄らいでいった。魔の時間は去った。懐古趣味のおもちゃ箱の中は元の姿に戻る。
「斎藤、五千円」
目元に皺を寄せたまま九天が手の平を出す。斎藤は恐る恐る立ち上がり、五千円札を財布から引き抜く。九天はそれを受け取った。
「私、帰る」
熱病にうなされたように斎藤は部屋をあとにした。ナイン電脳探偵事務所には、九地と九天と光の三人だけが残される。何か言わなければと思い、光は必死に考えを巡らせた。
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