■前章「女子高生ネットストーカー事件」 ◆一「来栖兄妹」

 横浜駅がいつも工事をしていることはSF小説のネタになるぐらい有名だ。あるいは市外の人間は、この辺りにはモンスターでも住んでいるのではと思っているのかもしれない。しかし、そんなことはない。近くに住んでいる人間は、サラリーマンだったり、老夫婦だったり、僕のような普通の男子高校生だったりする。

 駅を出た光は、左手に持ったスマートフォンをながめながら歩いていく。ファーストフード店やドン・キホーテ、雑貨店や洋服屋のあいだを抜け、三車線の大きな道路を渡る。周囲の賑やかさが一気に引けた。住宅街が始まり細道に入る。こんな場所に、本当に探偵事務所があるのだろうか? 住所は合っている。地図アプリのナビを見ているから、GPSが狂いでもしなければ迷うことはないはずだ。

「ここだよな?」

 思わず声を漏らして、画面と目の前の建物を見比べる。木造二階建ての古びた集合住宅。建物名はエスポワール。名前から、鉄筋コンクリートの立派なビルを想像していたが、このアパートが目的の場所らしい。白い板の看板には、カタカナの筆文字でエスポワールと書いてあった。

 ウェブサイトで見た事務所の場所は二〇一号室だ。鉄製の階段をのぼり、建物の外にある共用の通路に立つ。各部屋の扉には小さいプレートがあり部屋番号が書いてある。その番号を確かめながら、二〇一号室の前で足を止めた。

 ナイン電脳探偵事務所。

 来栖くるすという表札の横に、事務所の看板が出ている。紙に印刷してラミネート加工したものだ。さすがにこれは貧乏くさいんじゃないか、大丈夫だろうかと不安になる。帰った方がいいかなと思いながらインターホンを探した。どこにもない。仕方なく、警戒しながらノックする。

「どうぞ、扉は開いていますから」

 中から男の声が聞こえてきた。優しげな声だ。少しほっとしながらノブを回す。扉が開き、部屋の様子が目に飛び込んできた。その光景に困惑する。六畳の狭い空間に、青羅紗のビリヤード台が押し込まれている。そのせいで人が動ける場所はごくわずかしか残されていなかった。

 部屋の奥には、小さな木製の机がありノートパソコンが載っている。机の前には、目が細く、口元に笑みをたたえた男性が座っていた。男は立ち上がり、ビリヤード台と壁のあいだを歩いてくる。身長は百八十センチメートルを超えている。白いシャツに栗色のズボン。緋色のサスペンダーが一際目を引いた。年齢は二十代半ばから後半に見えた。

「先ほどメールをいただいたLightさんですね。ナイン探偵事務所の所長、来栖九地きゅうちです」

 ポケットから名刺を出して渡してきた。古風な字体で、名前と事務所名が書いてある。光は軽く頭を下げて名刺を受け取る。そして部屋を占拠しているビリヤード台に目を向けた。

「あっ、これですか。この仕事、待ち時間が長いんですよね。暇つぶしに買ったはいいんですけど、思ったよりも場所を取りまして。正直、持て余しているんです」

 九地と名乗った青年は、恥ずかしそうに頭を掻いた。どうも地に足が着いていない人に見える。よくよく部屋を見渡してみれば、何の役に立つのか分からないガラクタがたくさんある。小型の子午儀。卓上サイズの活版印刷機。二号自動式卓上電話機。部屋にあるもののほとんどは使えるか怪しい骨董品。その中で唯一生きた道具と呼べるのは、奥の机に載ったノートパソコンだ。

「初回相談無料と書いてあったので来たのですが」

 スマートフォンに飛び込んで来た広告。その内容を思い出しながら言う。

「ええ、そうです無料です。それで、お茶にしますか、それともコーヒー、紅茶の方がいいですか?」

 九地は部屋の一角に顔を向ける。申し訳程度の炊事場がある。コンロのガス口は一つ。料理を作るのは大変そうだ。大きめの冷蔵庫もあるので、自宅兼職場なのだろう。部屋の奥には扉が見える。そこが生活スペースになっているようだ。男の一人暮らしなのか。それにしては炊事場がきれいに片付いている。家族がいるのかもしれないと思った。

「水でいいです」

 長居しなくて済むように、すぐに出せるものを頼む。

「お茶や、コーヒー、紅茶も用意しているんですが、なぜかみんな、水って言うんですよね」

 九地は残念そうに、棚からグラスを出す。切り子の高級そうなものだ。冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を注ぐ。壁に立てかけた板を持ち上げ、ビリヤード台の上に載せて、即席の机にした。

「どうぞ水です」

 エベレストの万年雪から作った水のように、うやうやしくグラスを差し出す。

「椅子は壁際にありますから、好きなものを選んでください」

 促された先を見る。木製の折り畳み椅子が複数ある。どれもデザインが違っており、統一感がない。その中から一つを手に取り、広げて座る。九地も同じように腰を下ろした。

「どういったことがあったんですか?」

「僕に直接起きたことではないんです」

 一週間前に、同級生から相談を受けた内容を告げる。そしてこの一週間、解決のために知恵を絞ったが、何もできなかったと説明する。

「女子高生へのネットストーカーですか――。うちで請けている仕事の中心は、サイバーDVやサイバーハラスメントなんです。スマートフォンやパソコンといった情報機器を使い、恋人や家族、会社の人間を監視したり脅迫したりする。そうしたトラブルを解決することが多いんです。もちろんストーカー案件も手掛けています。ただし依頼の数は少ないです。今回のケースで一番よいのは、ご友人の女性がSNSをやめることです。でも、わざわざ解決を依頼されたということは、やめるつもりはないんですよね?」

「ええ」

 九地の言葉は丁寧で、態度は一貫している。服装も清潔で、身なりもきちんとしている。部屋はガラクタだらけだが、掃除は行き届いており、きちんと整理されている。部屋の第一印象で警戒したが問題はなさそうだ。信用できる人物だと光は判断する。九地は光に、依頼主のSNSのアカウントを聞き、ノートパソコンで確認し始めた。

「その脅迫している人物を仮にSさんとします。ストーカーの最初の文字から命名しました。ブロックされるたびにアカウントを変えているようですから、特定の名前では呼びにくいですしね。それで、そのSさんは、あなたのご友人の学校も家の住所も知っていると書き込んでいたんですよね?」

 そうですと光が答えたあと、九地はエディタを起動した。プログラムを読み込み、数ヶ所書き換えたあと実行する。

「何をしているんですか?」

「画像を全てダウンロードしているんです」

 九地は顎に手を当て、画面を見つめる。ダウンロードが終わったようだ。彼は、画像を確認し始める。

「一昔前までは、大手のSNSの写真から、GPSの位置情報を直接入手できたんです。今はできなくなっています。サーバー側で削除するようになったんです。プライバシーを保護するためにです。だから撮影場所を簡単に知ることはできません。

 しかし被写体から直接情報を得れば、場所を特定することは可能です。写真自体は改変されていないですからね。たとえば、この写真。彼女は自分の顔が入らないように撮影しています。でも通っている学校が容易に推測できます」

 光は写真をじっと見る。

「制服ですか?」

 九地はうなずく。学校の制服のまま写真に収まっている。

「ネットの情報を使って調べてもいいですし、匿名掲示板で、どこの制服か尋ねてもよいです。一日もかからずに答えが得られます。次は、この写真です」

 さらにもう一枚の写真を示す。下校途中のものだ。

「ここを見てください。お店の看板があります。学校は判明しているので、地名と店名で検索すれば位置を特定できます。ここまで絞り込めば、あとは芋づる式です。看板などが写っていない写真でも、ストリートビューを使って時間をかければ、どこで撮影したのか分かります。そうした写真が数枚あれば、登校経路を明らかにして、家の場所を推定できます。あとは現地に行き、登校時間に家から出る瞬間を目撃すればチェックメイトです。

 学校を知っている。家の住所も押さえている。そうしたSさんの書き込みは本当でしょう。普段から彼女を追っていない私でも、短い時間で調べられましたから」

 喉が渇き、グラスに手を伸ばして水を飲んだ。ネットストーカーということで軽く考えていたが、リアルの世界で被害に遭う可能性があるということだ。グラスを板の上に戻すと、クリップボードを渡された。顧客カードと書いた、連絡先を記入する用紙が挟んである。光はどうしようと悩む。友人からの依頼のヒントを得ようと思って来ただけで、お金は用意していない。しかし相手も商売だ。話だけして返すつもりはない。

「大丈夫ですよ。取って食おうというわけではありません。それに、仕事を請けるかどうかは、私ではなく妹が決めることなんです。その妹も、そろそろ帰ってくるはずです。実は長々と話していたのは、彼女が戻ってくるのを待っていたんです」

 九地は笑みを浮かべたあと、玄関に視線を向けた。

「ただいま」

 扉が開き、ブレザー姿の女の子が入ってきた。光と同じ高校の制服。タイの色を見て、同学年だと気づく。

 知らない子だ。少なくとも同じクラスではない。小柄で華奢で、日本人形みたいな髪型をしており、目つきが悪い。飢えた狼のような目をしており、殺気立った空気をまとっている。彼女は両手にスーパーのレジ袋を提げていた。夕食の食材の買い出しのようだ。そういえば、男の一人暮らしにしては炊事場が片付きすぎていると思った。

「おにいちゃん、お客さん?」

「本人のトラブルではなく、友人のトラブルで来たそうだよ。九天きゅうてんと同じ学校の生徒さん。彼のことは知っている?」

 九天と呼ばれた少女は、視力が悪いのか目を細くして光をにらむ。

「平原よね」

「知っているの?」

 僕は、そんなに有名人だったかなと思う。

「須崎翔の金魚の糞でしょ」

 翔のおまけか。あんまりな記憶のされ方だ。もう少し、ましな覚えられ方もあるだろうにと思い、涙目になる。

「それで、おにいちゃん、依頼の内容は?」

「ネットストーカー。個人情報を解析して、卑猥な言葉を投げ続けている」

 九地は妹に、ノートパソコンを向けて説明する。九天は荷物をビリヤード台の下に置いて、SNSを確認し始める。

「平原。住所と名前、さっさと書いてね」

 画面を見ながら九天はクリップボードを指差す。有無を言わせぬ声に気圧され、個人情報を記入する。

「平原。あんたが、トラブルシューター紛いのことをしているのは聞いたことがあるわ。そのあんたが、ここに来たということは、素人が事件に手を出して、手に負えなくなって泣きついてきたというわけね」

 容赦のない言葉に、光はため息を吐いてうなずく。

「社会人なら十万円。学生なら一万円。それがうちの料金よ」

「学生は九割引きだね」

「高校生には、それでも高いでしょうけどね」

 九天の言葉は、鉈を振るうようだ。目つきの悪さと相まって、罵倒されている気分になる。

 さて、どうするか。今の状況を頭の中で整理する。自分のトラブルではない。だから自分でお金を払うのはおかしい。それに、そんなに貯金があるわけではない。だからといって依頼主にお金の話をするのも避けたい。本人に許可なく他人に相談内容を話している。料金のことを告げれば、そのことがばれて怒られる可能性がある。

「あんた、依頼主に相談なく、ここに来たんじゃない? そして、べらべらと彼女のことをしゃべった。だから困っているんでしょう?」

 意地悪そうに九天は言う。どうやら頭の回転が速いらしい。きっと成績もいいのだろう。さて本当にどうしたものか。自分の無能さに呆れてしまう。

「平原、依頼主に電話をかけなさい」

 驚いて九天の顔を見る。

「私が、あんたから無理やり話を聞き出した。そういうことにしてあげる。あんたは私の被害者ということになり顔が立つ。私は仕事をゲットできる。まあ、ウィンウィンね」

 無愛想な顔のまま九天は言う。

「でも、それだと来栖さんが悪者になってしまうよね」

「いいのよ、どうせいまさら、学校では嫌われ者で通っているし。さっさとスマホを貸しなさい」

 光はロックを解除して、アドレス帳から斎藤という名前を選んで九天に渡す。九天は画面の名前を見たあと、スマートフォンを耳に運んだ。

「斎藤? 私よ、来栖。あんた、平原にトラブルの解決を依頼したでしょう。無理やり聞き出したわ。私の家が電脳探偵事務所なのに、わざわざ素人に依頼をするとはどういうつもり?」

 いきなり喧嘩腰だ。光は、はらはらしながら会話を聞く。

「料金は一万円よ。何? カツアゲじゃないわよ。正規の料金よ。いつもSNSに投稿しているスマホを持って明日来なさい。来ないと平原も含めて、地獄へ叩き落としてやるから」

 九天は電話を切り、スマートフォンを返してきた。

「いい、平原。明日、斎藤を連れてくること。分かった?」

 光は仕方なくうなずく。

「おにいちゃん、仕事請けるわよ」

「ああ。彼は、信用できる人間なんだね?」

 九地は嬉しそうに言う。

「そうよ。――今のところはね」

 九天は、仇敵を見るような目を光に向ける。彼女の鋭い視線に、光は思わず身をすくめた。そして、九地と九天は、どうやってこの問題を解決するのだろうと思った。

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