◆その794 深紅の瞳

「月夜にまずい出会いですね、高慢なシギュンさん」


 牢に響き渡る通った声、天井から吊るされたシギュンの朧げな視界に映る一人の男。コツコツと革靴の音が耳に届く。


「だ、誰っ!」


 シギュンがそう言うも、男は何も答えない。

 知らない籠ったような加工された声。低下した視力ではその正確な姿を捉える事が出来ない。

 肝心の魔力もゲバンによって抑えられ、シギュンはゲバン私邸において完全に行動を制限されていた。

 革靴の音は周囲を回り、一周するとシギュンの前でピタリと止まった。


「あれー、シギュンさんともあろう方がそんな事もわからないんですかー?」


 煽るように言う声に苛立ちを覚えつつも、どこかその口調に聞き覚えがある。シギュンはおぼつかない視界ながらも男を睨み、足搔くように手に絡む鎖を鳴らす。


「まぁ、それだけ追い込まれれば思考も定まりませんよね。だけど、本当にまずいタイミングで来ちゃったなー」


 飄々とした様子と、歯に衣着せぬ軽口。


「凄い顔してますよ。いつもの二倍くらいあるんじゃないですか?」


 追い込まれていたシギュンには、どんな拷問や凌辱よりも、このからかうような言葉が効いた。

 ギリと歯を鳴らし、唸るように鎖を揺らす。


「血と小便と脂汗と……色々交ざってもう大変ですね、これ」


 その状況下で尚も煽る男の言葉を受け、シギュンがピタリと止まる。震える瞳で焦点を合わせ、何とかその男の輪郭を捉える。


「……っ!」


 そしてようやく気付くのだ。

 ゲバン私邸に忍び込める能力を持ち、尚且つ、シギュンの目を欺ける存在。そんな存在は一人しかいないのにもかかわらず、それでもシギュンは気付けなかった。


「思った以上に追い込まれていらっしゃるようですね」


 それが答えであり、それが全てだった。

 その言葉が届いた時、ハッとした様子でシギュンが顔をそらす。


「み、見ないでっ!」


 敵意も殺意もない、明らかな羞恥心。

 身も心もボロボロとなったシギュンが見せた、明確なる拒絶。


「おかしいですねぇ。いつものシギュンさんなら、不遜に、気高く、それでいて対等に私を見てくれたはずなんですけどね」


 苦笑する男がそう言うと、シギュンはまたも唸り、鎖から逃れるように、この場から逃れるように暴れた。


「ま、その姿なら仕方ないかもしれないですけどね」


 淡々と言う男を睨みもせず、ただ逃げたい一心で顔をそらす。今のシギュンにはそれしか出来なかったのだ。


「何の用よ……」


 ボソりと呟くようにシギュンが言うと、男がその顔に向かって指を突き出しだ。


「【ヒール】」


 行使された回復魔法は、シギュンの身体を瞬く間に癒した。


「【クリーンウォッシュ】」


 次に施された魔法は、身体の清潔化。

 傷を治し、清潔にし、目的の見えない男をようやく睨むシギュン。


「【ルーク・ダルマ・ランナー】……何の用なの? 私をあざ笑いにでも来たの?」

「やだなぁ、それはもうしたじゃないですか」


 ミケラルド・オード・ミナジリの分裂体、ルーク・ダルマ・ランナー。そう、ゲバンという強者にすら気付かせず、シギュンにバレずに近付ける存在――それがミケラルドという男の実力である。

 かつて、自分を追いつめたルークのそんな態度に嫌気がさしたのか、シギュンは一瞬顔を歪める。


「おや、いつもより表情豊かですね? 外に出て気分転換でも出来たんです?」

「相変わらず嫌な男ね」

「男の子ですよ」


 これまで幾度となく行われた二人のやり取り。

 それを思い出し、シギュンが諦めたように小さく笑みを漏らす。


「……わかったわ」

「何がおわかりになられたので?」

ほどいてちょうだい」

「えー、解くと私に何のメリットがあるんです?」

「あなたがここに来た理由に、私が気付かないとでも?」

「さっきまで私が私だと気付けなかったくせに?」

「性格がより一層歪んだのかしら?」

「いやいや、脱走してから多くの人を殺されているようで、流石に同情の余地がなくてですね。今回ばかりは私も非情になっているだけですよ」


 そう告げると、シギュンはばつが悪そうに言う。


「それは……」

「言い訳は見苦しいですよ。事実、痛みに負けて動いた訳ですし」

「……そうね」


 後悔したように項垂れるシギュンに、ルークは目を丸くする。


「……そ、そうですね」

「何焦ってるのよ」

「いえ、ちょっと意外だっただけです」

「はぁ?」

「ま、時代において罪なんてものは右に左に揺れるものですし、今回の件については、あなたより主犯格の方がむかつきますので、あなたの協力次第では私が助け舟を出してもいいですよ?」


 近くにあった椅子を【サイコキネシス】で寄せ、吊るされるシギュンの前で足を組むルーク。


「だから、さっき言ったでしょう」

「はい?」

「『わかったわ』って……言ったでしょう」

「おや、珍しくもご協力頂けるようで何よりです」


 ニコリと笑うルーク。

 シギュンはそれを見ながら、呆れと嫌気と、どこか嬉しそうに零す。


「……にくたらしい顔」

「生来こういう顔なもので」

「ところで――」

「はい?」

「いつになったら解いてくれるのかしら?」

「そんなの決まってるじゃないですか」


 ぐいと顔を近付け、ルークが意気揚々と言う。


「私へのご褒美を約束してくれてからですよ」

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