◆その793 紅の私兵

 闇夜に紛れる影。

 灯に照らされ地に映し出される華奢な体躯。

 屋根伝いに弧を描いて跳び、忍び込むはホーリーキャッスルの内部。眼下に歩く身なりの良い男たちを見下ろす。感情のなく色もない瞳が捉えた男は四人。

 歩きながら会話をする四人の声が小さく響く。


「今回は法王陛下も抗いようがないかもしれんな」

「しかし、我々が最初に諦める訳にもいくまい」

「陛下に拾い上げて頂いた身だ、受けた恩には報いるだけよ」

「その恩を仇で返す輩もいるようだがな、まったく嘆かわしい」


 シギュン、クインの逃亡の追及により、法王クルスに属していた貴族や高官が次々とゲバン側に付いた。

 しかしそれでも法王クルスを信頼する者が多いのも事実だった。華奢な影は糸となり、縫うようにイソイソと動く四人の首をなぞる。首の影が舞い、鮮血と共に大地に降り落ちる。

 四人の身体が音を立てて倒れる時には、もうすでに影は消え去っていた。

 この日より、幾人もの人間が暗殺されていった。

 法王クルスに近い者、正義感の強い騎士、発言力を持つ聖騎士など、無差別殺人にすら見える程の多くの死者に対し、クルスは決断に迫られた。

 シギュンたちの脱走により手が空いた元神聖騎士オルグ、更には冒険者ギルドに対し依頼をかけ、剣神イヅナがホーリーキャッスルの護衛に付いた。

 後手に回り、対処する事しか出来なかったクルスは歯痒い思いを殺し、犯人捜索へと動き出した。

 暗殺者は周到で法王クルスに利がある者だけではなく、他の王子に利のある者すらも殺害していた。当然それには第一王子ゲバンも含まれていた。

 ホーリーキャッスルの威厳を失墜させるようなこの事件は、風の噂となり町にも広がった。


 しんと静まる夜中、ゲバンの私邸に現れる影。

 それは先日四人の男を暗殺した人間だった。

 薄暗い中、灯に照らされるゲバンの顔。

 その眼前には、シギュンの姿があった。

 紅の軽鎧をまとい、沈んだ瞳でゲバンを見るシギュン。


「ふん、相変わらず生意気な女だ」

「その言葉、そっくりそのまま返すわ」


 不快感を露わにするシギュンを睨むゲバン。


「どれだけ痛めつけ、なぶろうとも、その態度を崩さぬのは見上げた精神力だ。流石は元神聖騎士、といったところか」

「わかってないわね」

「何?」

「利用価値があるから私を生かしているんでしょう。あなたがあの牢に来た時から、暴力や凌辱で言う事をきかせる段階はとっくに過ぎてるのよ。躾と称して私を拷問する? あなたの目的のため、肉体的、精神的であれ、私にダメージを残すのは得策じゃないの。たとえ奴隷契約で私を縛ろうとも、全てが私の気分次第って事を理解してないって事よ」


 怒り露わにシギュンの頬をはたくゲバン。

 口内を切ったシギュンが口を拭いながらゲバンを見る。

 それが気に障ったのか、ゲバンは更にシギュンを殴った。

 大きな拳が顔を捉え、鈍い音と共にシギュンが床に倒れる。

 ゲバンは続けて、シギュンの腹部を蹴った。何度も、何度も。やがて息が切れ、ゴミのようにシギュンを見下すゲバン。


「……短気ね」


 どれだけ怪我が増えようとも、シギュンは口を閉じなかった。遂にはゲバンがシギュンの顔を思い切り蹴った。

 ドアを突き破る程の衝撃。廊下に蹲るシギュンの笑みは消えない。


「……気味の悪い女だ」


 俯きながらシギュンが言う。


「ふ、ふふ……自己紹介かしら?」

「っ! おいっ!」


 荒れた声でゲバンが私兵を呼ぶ。

 すぐに招集された二人の私兵にゲバンが命令を下す。


「また可愛がってやれ。泣いて許しを乞うまで手を緩めるな」

「「はっ!」」


 連れて行かれるシギュン。

 しかし、ゲバンの横目には、最後までシギュンの笑みが映っていた。去り際に言ったシギュンの言葉が、ゲバンを更に苛立たせる。


「小さい男。でもよかったわ……私、嘘泣きは得意なの」


 ゲバンは吸っていた葉巻を握り潰し、怒鳴り声を上げる。


「動きに支障が出なければどれだけ痛めつけても構わんっ!」


 その怒気と魔力に当てられ私兵の二人は、ゾクリと肩を震わせながらシギュンを拷問部屋に連れて行ったのだった。


 ◇◆◇ ◆◇◆


 殴る、蹴るは当たり前。


「おらぁ!」


 爪を剥がれ、四肢には幾度もナイフを突き立てられ、血が流れ、止む事はない。


「お前も馬鹿だよな、ゲバン様に逆らうなんてよ」


 回復の処置を施されてまた最初から。

 そんな拷問が朝から晩まで続く。

 汚物に塗れた食事を食べさせられ、それでもシギュンの瞳が死ぬ事はなかった。

 シギュンは悲鳴を押し殺し、常に笑っていた。

 甲高い笑い声に私兵が苛立ちを覚え、幾度も幾度も繰り返される暴行と凌辱。

 拷問が始まって三日目の晩、食事を終えた私兵がまたシギュンの下へやって来た。

 異臭を放つシギュンに顔をしかめる二人の私兵。

 見れば、シギュンの足下には水たまりが出来ていた。

 下卑た笑みを浮かべる私兵がシギュンに近付く。

 腫れ上がった顔を私兵二人に向け、シギュンは蔑むような目をしていた。それがこの場で出来る、シギュン最大の反抗だったから。

 だが、たとえシギュンといえどもそれには限界があった。

 これから起こる出来事に正気を保つ自信はなかったのだ。

 私兵たちもそれに気付いていた。

 シギュンの瞳が一瞬震え、私兵たちがニヤリと笑った瞬間、拷問部屋の時が止まった。

 否、シギュンには止まったように見えたのだ。

 何故なら私兵たちの足がピタリと止まったのだから。

 直後、私兵の二人がバタリと倒れる。

 背後に見える深紅の瞳。

 瞳の主が言う。


「月夜にまずい出会いですね、高慢なシギュンさん」

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