第49話 市川さん

 事態は転がりはじめると次々と開けていくもので、先生とのビデオ・チャットの中で思わぬ人が姿を現した。一番見たくなかったはずの相手だった。刃物騒動から一週間が過ぎた頃だった。

「市川さん」

 混乱し、顔がこわばったのが自分でもわかったもののかろうじて落ち着きを取り戻す。市川さんの表情は攻撃的な言葉を投げかけようとしているのではなさそうに見えた。

 ――先生もいる。

 何かを言いかけて口ごもることを繰り返した市川さんが『ごめんなさい』と頭を下げた。

『やめられなかったの。あたしすごくまずいことしてるのに気づいてたけど、どうしてもやめられなくて。お教室に出てこなくなってあたしのせいなのわかってたけど、学校でも嫌がらせやめられなくて。高校の部活にそっちの学校から交流の申し込みがあって、あなたの名前を見つけて、あたし慌てた。酷いことしてたのわかってて、良くないってわかってたのに追い払おうとまた嫌がらせ始めた』

 一息にされた説明は何のためのものなのだろう。

『赦してもらえなくていい。当然だから。でも、あたしがこっちの部にいても、あなたはあたしなんて無視してこっちの部の人たちと交流して欲しいの。もうあなたの邪魔はしない。目障りなら、あたしが部をやめる』

 先生に紹介してもらい交流を始めた神奈川の乙女文楽部に彼女が在籍していたらしい。

「こないだのコンタクトは」

『謝ろうと思ったの。今日も」

「…………」

「自分勝手なのはわかってる。でも、あたし、このままだとずっとあなたを妬んで恨んでどんどん悪くなる』

「妬む?」

 思わぬ言葉だった。

『あなたが羨ましかった。あなたがするみたいな芝居をあたしもしたかった。あなたの容姿が羨ましかった。あなたになりたかった。なんであたしはあなたじゃないんだろうって』

「…………」

『勝手な話だよね。あなたの中学生活を台無しにしておいて。あたしがあんなことをしなければ今頃あなたはこっちで誰よりも輝けてた。先生の元で一番弟子になってた。償うことなんかできないのに、自分が苦しいからって謝って楽になろうなんて』

 TVドラマのような言葉が気持ち悪くてたまらなかった。心にもない言葉とも思わない。それでも私と彼女の間には大きなギャップがあった。埋める気さえしないような大きさの。

「市川さん。この世界から消えてなくなって、って言ったらあなたは消えてくれる?」

 誰に向けても放ったことのない心の冷える言葉が私の口を衝く。

『……わかんない』

 画面の向こうの顔は白い。

「そうなったら今度は私が市川さんのように苦しむのかな」

 市川さんが項垂れる。

「私はあなたを赦せない。なかったことにはできない。でも、恨み続けるのも嫌。思い出すのも嫌。縁そのものが嫌」

 私は端末のカメラに視線を据える。

「――互いに素知らぬ振りをしませんか。それでいつか本当に何も、大したことはなかったと思えればそれでいい。そうなれるかどうかわからないけれど」

 知る術は与えない、と言外に告げる。

『……うん。ありがとう』

 さらに何かを言おうとしたようだったけれど市川さんは口を噤んで画面から消えた。その後、先生からも中学時代の軋轢――いじめに対処できなかったことを謝られてしまった。たぶん、向こうの学校でも何かあって今になって先生が動かざるを得なくなったのだろう、と悲しくなる。

 会話を終えて大きく息を吐く。

 ――芸は芸だけで成り立てば良いのに。

 そう思いはしたものの一人で稽古を続けてきた「芸だけ」であったはずの時間を振り返ろうとしても何一つ思い出すことはできなかった。この学校に来てからの日々ですべて上書きされてしまったかのように。

 部屋の窓を開け、市街越しの海を見る。短い夏が終わりに近づき、漁り火は賑やかだった。

 通知音が鳴る。刀禰谷さんから写真が送られてきた。生徒会主催のイカ漁体験の現場からだった。戻ったら食べよう、というコメントに頬が緩む。

 スマートフォンには保留にしたまま放置していたコンタクト要求がひとつ残っていた。

 通知は何の感慨もなく消し去れた。

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