第46話 小指の赤い糸

 刀禰谷さんが戻ったのは真夜中になってからだった。寮監からは迎えに出た私を咎める言葉もなく、刀禰谷さんは本当にこのまま自分一人の事故ということにしてしまうつもりらしい。怪我人を部屋へ送り届けてから養護教諭に事情を打ち明けてみたもののただ黙って頷くばかりで最後に「刀禰谷さんとの絆をこれからも大切に」という一言があっただけ。教会で告解でもしている気分になった。

 翌朝、様子を見に行くと制服姿の刀禰谷さんが当たり前のように笑顔で私を迎えた。

「行こう」

 訳がわからないまま傷ついた手に導かれ訪れた先は隣の教会だった。学校の運営母体で寮生には馴染みのぼそぼそのビスケットや石鹸はここの修道院で作られていたはずだ。ちょうど朝のミサが始まるところで賛美歌――宗派的には聖歌と呼ぶべきかもしれない――を歌い説教を聞いた。心が洗われたり、神様の赦しの声が聞こえてきたりすることはなかったけれど。

 人の姿の消えた教会のベンチに私たちは二人だけで残り、地味な十字架を見上げる。刀禰谷さんが怪我をした小指でとんとんと触れてきて私の左手を取り膝の上の聖書に置いた。

「南畝さんも小指に傷があるよね。左手」

 彼女の指が私の古傷をなぞる。もう存在さえ滅多に思い出すことはなかったけれど、挫折を引き金に家庭に荒波が立った結果だ。

「中学で引き籠もっていた頃に」

「この糸さ、きっと南畝さんの古傷に繋がってるんだ」

 刀禰谷さんがテーピングに透ける縫合糸を示す。

「運命の赤い糸、ですか」

「そう。互いの痛みに繋がっている」

「ロマンチックですね」

 柄じゃないよね、と刀禰谷さんが笑う。

「いいえ」

 私は彼女の右手を取り、被覆テープの上から傷に口づけする。縫い目の数だけ。

「逃げ出してきた私の心の傷を綴じてくれたのは刀禰谷さんでした」

「新しい傷もつけちゃった」

「私もこの手に」

 結果はどうあれ、刃物を持ちだし、振り回し、刀禰谷さんが怪我をしたことは事実だ。この先も私は刀禰谷さんに引け目を覚えずにはいられないだろう。相応の非難や罰がないことさえ心苦しい。

「この傷、見るのだけでもつらい?」

 私の心を読んだかのような言葉が刀禰谷さんの口から出る。

「……はい」

「私も。南畝さんから逃げちゃったこと、なしにできないのは苦しい」

「そんなこと」

「うん。私にとってもこの傷は『そんなこと』なんだ。でも、互いに消せない引け目になってしまうかも」

「そう、ですね」

 別れの言葉が続くことを想像する。刀禰谷さんは私から離れ、私は刀禰谷さんの姿のある学校に耐えられず再び新天地を探す。中学の頃のように。月華さんに関わり退学していった二人もそうに違いなかった。

「私は南畝さんを諦めたくない」

 思いも寄らない言葉が告げられた。

「南畝さんがいい」

「辛くはないのですか?」

「辛いけど、南畝さんを諦めるのはもっと辛い」

 月華工房のジオラマを思い出す。串を打たれた二本の指には透ける糸で編まれたレースの架け橋がかかり、間にはルビィ色のティアドロップが下がっていた。

 養護教諭の言葉を思い出す。

 ――――大切、か。

 刀禰谷さんと私の間に架かる糸にはきっとこれからも血の滴が下がり続けるのだろう。

「刀禰谷さんは私のひとりきりの観客なんです」

「うん?」

 説明はせずに私はただ笑む。

 初めて呼吸を掴んだあの舞台からずっと私の乙女文楽は刀禰谷さんひとりに向けて演じてきた。彼女のいない夜のロビーでも、放課後の教室でも。たとえ彼女が世界から消えてしまったとしても代わりのいないただ一人に捧げられる舞台。

 ――きっと伝わらない。

 言葉を尽くせば理解はしてもらえる。けれど刀禰谷さんが実感することはない。決して。

「……神楽かぐらってあるじゃない?」

 刀禰谷さんがそう言い出したことで泣きたくなる。私の足りない言葉を理解しようと努めてくれていた。きっと痛むだろう、と思いながら傷ついた指を絡め、引き寄せる。もたせかけた頭に彼女の頭が寄り添ってきた。

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