第45話 危地
喉を突いたはずの刃は、途中で止まっていた。刀禰谷さんの手が阻んでいた。彼女の手がどこに隠していたのだろうという力で切っ先を捻り下げていく。せめぎ合う力に震える刃物はゆっくりと床に達し、体重をかけて押し込まれた。フローリングに食い込んだ凶器が動かなくなったところで私の指が一本ずつ引き剥がされていく。肋骨が軋みを上げそうなほど固く抱きしめられ、壁際へ、刃物の届かない場所へと引き摺られた。
「南畝さん、大丈夫。もう大丈夫だから」
刀禰谷さん、と返したつもりの言葉は喉で止まってしまった。抱きすくめられたまま幾度、大丈夫、大丈夫、と聞かされたことだろう。私の身体から硬直が解けるまで彼女は腕を緩めなかった。
力一杯の抱擁はいつ以来のことだろう。
「刀禰谷さん……」
口の端には泡になった涎がこぼれ呂律も回らず涙と洟で私は酷い顔をしていたはずだ。
「ごめん。大ばかだ、私」
「私、取り返しのつかないことを」
「そんなことない。私こそ、本当に取り返しがつかなくなるところだった」
「でも」
「南畝さんが無事なだけで、それ以上のことはないよ」
私の愚かさが招き、私自身が私を追い詰めた結果だった。刀禰谷さんに無事を喜んでもらえる資格が今の私にあるとは思えない。
「逃げちゃった」
「え?」
「南畝さんを親友ごっこに巻き込んでおいて、私が向けていたのは劣情だったよね。キスで気づいたのに、友情じゃないことなんてとっくにわかってたのに、まだ親友ごっこを続けようとしてた。ほんと、ばか」
「私は刀禰谷さんの感情を試して――おもちゃにしてしまいした」
「お互い十五歳だもんね。ボタンの掛け違えひとつでこんなにこじれさせちゃう」
「……私、夏休みの間に十六です」
「嘘っ。誕生日、お祝いできなかった」
些細な、高校生らしい言葉に笑いを誘われたけれど視界の隅で刀禰谷さんのルームメイトが鍵のかかる引き出しにナイフを放り込んだのを見て現実に引き戻された。
「私、私の失敗は取り戻せるでしょうか。こんな恐ろしいことを。少しタイミングが違っていただけで大変なことになっていました」
「わかんない。でも、お互いに失敗に気づけた」
もう何も声にならなかった。私はただ刀禰谷さんにしがみつき、しゃくり上げる。彼女は私の背を撫でながら緩やかに息を吐く。
「月華さんの人形作りに関わるとこういうことが起こるんだ」
「?」
「たぶん人は流されやすい生き物で、月華さんは激しく反応する人間関係を見つけるのが上手なんだ。『あたしとぶつかって壊れても知らない』とか言ってたけどあの人と直接ぶつかって壊れた人なんていないんだよ。衝突はいつだってあの人の周りで起きる。明かりに誘われる蛾みたいに、出会った私たちは月華さんの人形に吸い寄せられた。運命とは言いたくないけど、巡り合わせではあるかも。月華さんは要所要所でスパイスを利かせていただけ。なのにイメージ・スケッチの通りになっちゃった」
途切れた言葉の合間に、ぱた、と何か小さなものが落ちる音が聞こえて気がした。わずかに時間をおいてもう一度。何の音だろう、と周囲を窺って床にできた緋色の小さな水溜まりに気づく。
「えっ? あっ」
刀禰谷さんの右手の袖が肘まで赤く滴を含んでいた。
「刀禰谷さんっ!」
「ん。ちょっと失敗した」
「なんですぐに言わないんですかっ!」
あたりを見回すとさっきのルームメイトさんがガーゼの束を投げて寄越した。小指を包んでテープできつく巻く。骨は見えてはいなかったけれど結構な深さと長さの傷口が小指の外側に血を溢れさせていた。
「警察? 救急車? お医者?」
おろおろしながらスマートフォンを探し、月華さんの工房に残してきたことを思い出したところで刀禰谷さんに宥められる。
「ありがとう。落ち着いて。大丈夫。そんなに深い傷じゃないし出血も痛みも大したことない。とりあえず寮監に診てもらってくる。今週は養護の先生のはずだから」
「わ、私もっ」
「ううん。南畝さんは部屋に戻って。私は工作をしていて、うっかりカッターに触っちゃったの。いい?」
「駄目に決まってますっ!」
「うちの学校だったら本当のことを言ってもまったく問題ないんだ。内申書なんてない。シスターがしょっちゅう寄ってきてにこにこ話しかけてくるようになるのが関の山で。そうじゃなかったら月華さんなんてとっくに退学」
ハンカチにはもう赤い色が滲み始めていた。押し問答をしている時間が惜しい。
駄目?と首を傾げて訊ねる刀禰谷さんに私はとりあえず妥協する。
「わかりました。とにかく早く寮監のところに。あと、私は訊ねられたら本当のことを話します」
「うん。見透かされちゃう気はするんだけどね。月華さんが関わってる活動で怪我人が出たんじゃあ、ね」
寮監室へ向かった刀禰谷さんはそのまま近くの病院へ運ばれていった。
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