第40話 外れた思惑

 翌朝。


 登校も毎日のように一緒で、昼休みにも顔を見せていた刀禰谷さんが今日に限って現れず、重い予感とともに放課後を迎えた。空き教室で三面鏡を広げ、ストレッチをしているところに現れた刀禰谷さんはいつものように明るく挨拶した。本当にいつものままだった。

 違和感の拭えないままはじめた稽古のさなか、仕草を直そうと伸ばした私の手が空を切った。

 ――避けられた。

 血の気が引いた。

 もう一度。

 緊張とともに試みた再度のスキンシップは、やはりさりげなく、注意深く先を読まれ逃げられてしまった。対象を捉えることのできなかった指が震える。

 刀禰谷さんが恋愛感情を自覚していないだろうことは察していた。昨日の、ただ触れさせ啄んだだけの口づけにしても、私の心臓は壊れてしまいそうなくらい暴れていたし、制服越しに伝わる彼女の鼓動もまた同じように激しく打っていた。荒く熱い息づかいも、二度三度と啄み応えた口づけも、互いの想いを明白あからさまにしたのだと私は思っていた。

 友人という建前を壊し、新たな関係に踏み込むことができたはずだった。好意を、恋情を互いに露わにできたはずだと。なのに――。

 ――拒絶。

 刀禰谷さんに見ていた好意は私の錯覚だったのだろうか。

 ――私、また……。

 中学の頃、同門の子に嫌われた理由は未だにわからない。仲が良かったはずの相手からある日、芸の批判がはじまり、あっという間にエスカレートした。

 理由を知ることもないまま、私は逃げだし、何一つ学ばずにこの新天地でも失敗してしまった、らしい。今回は原因が明らかだった。

 その日、部活で何をしたのかはまったく記憶に残らなかった。活動後、刀禰谷さんは生徒会の仕事があるといつもの笑顔を見せて去り、私は夕日の射す空き教室に一人残ることになった。

 刀禰谷さんは本当に生徒会の用事で居残っていた。その日も、次の日も、休日も。

 先生との連絡は密になり、他校との交流は私たちの乙女文楽部をより部活らしく充実させてくれた。指導者を迎えての稽古も順調だ。学校図書室にも話が通り、文楽教会や白鴎高校の資料に触れられるよう手配が為された。文楽の出前公演も生徒会に提案され、学校側も前向きに検討してくれているという。刀禰谷さんの仕事ぶりは八面六臂という言葉そのままだ。部活も以前に増して熱が入れられ、出来の悪いロボットのような足運びをしていた彼女の面影は消えた。渋っていた座学にも取り組んでいた。コラボの調整役としても飛び回る。

 刀禰谷さんは変わらず親切だった。これまでと変わったのは縮め続けてきた互いの距離が友人の距離へと改められたことくらい。ハグは軽く短く気さくなものになり、隣り合って腰掛けることはあっても寄り添い温もりを伝え合うことはなくなった。私たちは和やかに笑い合い、時に意見を対立させつつも五分後には仲直りをし、熱心に部活に打ち込む描いたように爽やかな青春の日々を過ごしている。

 半年前の私が知れば夢のようだと目を輝かせるだろう日々が訪れていた。


 刀禰谷さんの視線は注意深く上手に逸らされるようにはなっていたけれど、背に注がれる視線は以前にも増して焼け付くようだった。着替えの際に「落ちた」と言ってすり替え渡した私のスカーフタイは今もそのまま彼女のセーラーの襟を飾っている。結び癖の違いに気づかないはずもないのに。部活中に不意に姿を消した彼女が目尻を腫らして戻ってくることもあった。

 「本当の友達」であろうとする刀禰谷さんにどう応じるべきなのかわからなかった。わからないまま私は彼女に合わせ続けてしまっている。かつてのような表面的な衝突がなければ私は淡々と過ごせることができてしまうようだった。

 稽古と同じだ。慎重に、細心の注意を払い、自らの動きを顧みながら、繰り返し演じる。演じているのは〝まこと〟の感情ではないけれど偽りを演じているわけでもない。俳優が舞台で泣き、笑い、怒るのと同じリアルな感情だ。

 ――これを演じ続ければあの口づけはいつか本当に「なかったこと」になるのだろうか。

 そんな明日へは向かいたくない、と思う。

 ――でも、どうすれば。

 堂々巡りの演技は音もなく軋みを上げはじめていた。

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