第24話 髪と口づけ

 翌日の授業は起きているのがやっとで、先にはじめた部活も身が入らず机で仮眠を取ることにした。ラジエター・ヒーターの温もりをすぐ横で受けながら微睡んでいたところに人の気配が現れた。

 ――刀禰谷さん。

 足音だけで彼女とわかった。近づいてくる気配が途中で密やかなものになり、静かに隣に腰掛けたようだった。

 ――起きなきゃ。

 覚醒の努力は空回りする。

 ――昨日の、相談を……。

 暖房と午後の日差しが私の意思を挫く。再び微睡みをたゆたう中でふと間近に気配を感じ意識が浮き上がった。ぼんやりしたままの頭でゆっくりと目を開く。

 ――えっ?

 最初に目に入ったのは顔の横に投げ出していた髪だった。刀禰谷さんがその一束を手にし、口元に寄せているかに見えた。

 すう、と眠気が退く。視線が合い、彼女が表情をこわばらせたのが見て取れた。

「刀禰谷……さん?」

「わわわっ。ごっ、ごめんっ」

 髪を放して身を引いた刀禰谷さんの顔が赤く染まる。思考が回転を取り戻すにつれ表情の意味が染みてきた。

 ――髪に? 口づけを?

 頭の中でぱたぱたとパズルが組み上がった。

 過剰な献身。無償の好意。ハグをはじめとするスキンシップの控えめな、けれど、強い求め。

 ――ああ……。

 腑に落ちた。

 二次性徴を迎え気づくようになった顔や胸元やスカートの裾を追う異性の無意識の視線。刀禰谷さんの私に対する態度はそんな男の子のものと似ていた。

 好意というには強い感情。

 憧れというには滲み出る後ろめたさ。

 刀禰谷さんの「舞台を作りたい」という言葉を理解はできても実感には至らずにいた。その答えを得たように思った。

 とはいえ。

 ――同性が好きなのだろうか。

 新たな疑問にも首を捻ってしまう。女子校という環境もあってそういう子もいるのだろうとは思っていたけれど自分が当事者になるとは思ってもみず、どう受け止めて良いのかもわからない。

 ――相手が男子でも同じか。

 耳まで赤くして「ごめん」と繰り返す刀禰谷さんは微笑ましく思えた。心の中を探ってみても、相思相愛でした、なんて都合の良い感情は見当たらなかったけれど火照らせている耳には触れてみたくなったし、顎のラインで切り揃えられた髪には彼女がしたのと同じように唇を寄せてみたくなった。

 安堵――安心だろうか。

 簡単には離れて行かないだろう理由に、私はほっとしているらしい。

 ――入学以来、刀禰谷さん一色だ。

 人形師の月華さんも三味線弾きの松里さんも印象的な人物だったけれど、それ以上に私は刀禰谷さんとの小さな出来事の数々を記憶に刻んでいた。生徒会室でぶつかったこと。並んで観た布袋劇番組。照れながらハグを求めてきた表情。この二週間、私は彼女と過ごすはずの明日を楽しみにしながら眠りに就いていた。昨日、月華さんにおびやかされたことさえ刀禰谷さんにどう相談しよう、どんな風に応じてもらえるのだろうと頭をいっぱいにして眠りに就くことができた。

 ――とりあえず。

 頭を過った妄想のひとつ――髪への口づけを返すこと――を試してみようと刀禰谷さんに向かい手を伸ばす。彼女は髪に手櫛を入れただけでびくりと身を震わせた。

 ――ああ。

 いつの間にか刀禰谷さんの呼吸は私のものと重なっていた。舞台の魔法はこんな日常にも訪れるものらしい。

 ――私の舞台。私だけの観客。

 眼鏡の向こうの瞳孔は開ききり、私を透かした背後で焦点を結んでいるかのようだった。顎の高さで切り揃えられた一房を指に絡め、顔を寄せる。

「あら? あらぁ?」

 高く明るく微妙に調子のずれた声が響く。空き教室の入口に月華さんが立っていた。

 内心で溜息を吐きながら刀禰谷さんの髪を放す。魔法の時間は終わってしまっていた。

「お邪魔だった?」

 刀禰谷さんが弾かれたように立ち上がる。安堵の窺える表情が微妙に腹立たしい。

「ええ、とても。何かご用ですか?」

 言葉を返したのは私だ。

「素敵な反応。ううん。昨日、南畝を脅し過ぎちゃったかしらと言い訳――じゃない、謝りに来たのだけど、平気そうね?」

 平気ではない、と言おうとしたけれど刀禰谷さんが強く反応した。

「月華さん。何かしたんですか?」

「別にぃ。部屋まで荷物を運んでもらうの手伝ってもらって、試作のヘッドを見てもらっただけ」

「ほんと?」

 刀禰谷さんがちょっと驚くような剣幕とともに私の腕を掴む。

「はい。人形の頭が私に似ていて、怖くなって逃げてきてしまいました」

「駄目だよ、南畝さん。月華さんはまずい人なんだ。他人を人形の材料としか思わない人なんだよ。この人と二人きりになっちゃ、いけない」

「本人の前でよく言うわよね。高い評価は光栄だわ」

 日差しに溢れる教室での月華さんは言葉がきついだけで愛らしい少女そのものだ。

「特に彼女のにはできるだけ近づかないで」

 刀禰谷さんの反応は過剰な気もしたけれど、昨晩を思い出せばわからないでもない。

「心配してくださるんですね」

「え……。うん。その、南畝さんが退学してった人たちみたいになったら悲しいもん」

「謝りに来たのがばかばかしくなってきたわ」

 月華さんの言葉に対し刀禰谷さんが柳眉を逆立てる。

「らしくないくらい良心的ですね。追い打ちをかけにきたのでは」

「まさか。でも合ってるかも。今日はあんたの方にも用があったの」

「なんです?」

「昨夜決めたの。今度の人形はあんたたち」

?」

「刀禰谷、近いうちに工房においでなさい。一人でとは言わないわ」

 月華さんは気配だけの笑いを残しながら西日の射す場所から影に入る。輝いていた金の髪が残像となって焼き付いた。小柄なコーカソイドの少女は機嫌良く鼻歌を歌いながら廊下を遠ざかり、私たちは小さく息を吐く。

「工房に来いって何を企んでいるんだか」

「昨日も刀禰谷さんの頭を作るようなことを」

「南畝さんなら人形映えもするだろうけど、私じゃ面白くないだろうに」

「私は、怖かったけど、ちょっと面白そうだと思ってしまいました」

「えぇ?」

「月華さんの工房、今度ご一緒しましょう」

「大丈夫?」

「ですから、ご一緒に。刀禰谷さんを一人で行かせるのは私が心配です」

「うぅ。南畝さんに心配してもらえるなんて嬉しいな」

「ところで」

「うん?」

「刀禰谷さんは髪がお好きなのでしょうか」

「えっ」

「いえ。私の髪を気に入られていたようなので」

「うわぁ。ごめん。忘れて」

「ちょっと忘れられそうにありません」

「机の上に広がってるの見たら、触ってみたくなっちゃったんだよぅ。手に取ったらいつの間にか口元に運んでて」

 しばらくは髪のことで困らせることができるのかもしれない。

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