第3話 文章の上手下手をわけるもの

 自由に小説を書くといったときに思い出すのは、はじめて小説らしきものを書いたときのことです。忘れもしない高校生の時のことでした。


 当時、アニメ好きだった私は、あるアニメ映画をノベライズしたものを買って読んだことがありました。いまでもアニメ好きならだれもが知っている有名なアニメです。ところがこの小説、原作と比べてあまり面白くありませんでした。

 これを読んだ生意気盛りの私は不遜にも「へったくそな小説! この程度のものやったらオレでも書けるで」と思ってしまったのでした。今思えば勘違い以外のなにものでもありません。

 しかし、思いついたら行動に移すのが早いところが若者の特権です。私は早速、ノートに自分の空想世界を書き始めたのですが、書き上がったものはひどい出来栄えで、我ながら愕然としたものでした。


 ――だめ。全然、小説になってない。


 子供のころから本を読むのが好きで、「オレは結構本が読める」と自惚れていた私でしたが、文章を書くのは文章を読むのとは別の能力を使うのだと気付かされました。


 高校生の私はまったくの素人で、書き手としてはまっさらの状態といってよかったと思います。そんな彼は、それこそ自分の思うがままの小説を書いたのですが、書いた本人ですら即座にだめだと判断できるほど、小説としては面白くなかったのです。


 なぜ面白くなかったのか。


 一番の理由は文章の稚拙さでした。たとえばこんな風な文章です――


>高校生のころ、私はアニメが好きだった。あるとき、あるアニメをノベライズした小説を買って読んだ。有名なアニメ監督の作った今でも有名なアニメである。しかし、この小説はあまり面白くなかったので、私は「へったくそな小説! この程度のものやったらオレでも書けるで」と思った。そう思った私は、すぐにノートに自分の考えた小説を書き始めた。しかし、その小説は全然面白くなかったので私は愕然としてしまった。


 ――とこんな感じ。上の「当時、アニメ好きだった私は……」以下を書き直してみたのですがどうでしょう。論旨は同じ、文法が間違っているわけでもないのですが、『板についていない感』が伝わってくると思います。


 ――板についているってなんやねん。


 まったく主観的で要領を得ない部分はあるのですが、文章の上手い下手というものは、この『板についている』というのが肝心です。


 ところがこう書いている私自身『板についた文章とはなにか』と聞かれると途端に言葉を失ってしまうのです。そして、「それはたくさん読み、書く中で見つかるものです」とどこかで目にしたようなことを書かざるを得なくなる。


 具体的には、自分がいいなと思える表現の真似をする。とにかく自分の文章の中に取り入れてみる。読む、座りが悪いと感じたら手直しする、読む、手直しする、読む、手直し……。延々これを続けるしかない。


 これが「作業」に堕してしまうなら苦痛以外のなにものでもないのですが、作家と呼ばれるようになる人たちは、これこそを「創作」と呼んでいるのです――と思います(笑


 そもそも私の文章は板についているんでしょうか?

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