第3話 ママの名前は花ちゃん

塾が終わって帰りに早速飲みに寄った。入って驚いた。殺風景を通り越している。前の店が撤退したコンクリートの剥き出しの中に、厨房什器と出来合いテーブル一つに不揃いの椅子が4つ置かれただけである。厨房スペースは空いているのに、客席との間の仕切りが店部分を圧迫している。これ店なるや。全くの素人。思わず『仕切りは不要、客少なしといえど、8席の空間いる』旨を言う。あくる日、前を通ると見てくれと云う。云った通りになっている。ここまで素直にされては客にならざるを得ない。

 私と同じような経緯の客がいた。冷奴とトマトとカマボコのメニューが貼られていた。夏なので、私は冷奴とトマトを注文したが、彼が他に何かないかと聞くと、女主人は「営業したてでどんなものを置いていいかわからないから教えて欲しい」と、答えた。定番的なものの名前を挙げたが、出来ないという。料理はしたことがないのだと。前の焼き鳥はタレを分けてくれる人があって、これなら出来るで始めたという。彼はしばらく通って定番の何品かを教えた。その上で、出来合いで客が喜ぶような物を教えた。例えばオクラと納豆を和えたもの(単にダシをかけて混ぜたもの)名前は「ネバネバ」。ジャコおろしのネーミングは「雪の下の小魚」客は何かと思って注文する。


 このメニューの設計者の名前は高山俊治、だのに何故か皆は「エーちゃん」と呼んだ。45才、職業不明、苦みばしったいい男の部類に入る。左小指の第一関節の先はない。これで元の職業はお分かりと思う。物知りでどんな話でも噛める。私がファションの話をしてこれなら知るまいと思ったが、ブランドの名前を次々云ってその長所短所まで喋って、それがまた適格で、勿論、ファッション関係の職業についたわけではない。女と付き合えば自然と知るとおっしゃいました。政治、経済お手のもの、毎日の日経平均株価、対ドル円価格のメモなしで云えた。何故か話が合って、「先生、先生」と懐かれ、彼は7時頃から来ているのであるが、9時半に行く私を待っていてくれた。駆けつけ3杯でピッチを上げて、出来上がっている彼に話を合わせるのは大変だった。

 そんな中にマッチャンが入って来たのだった。最初はエーちゃんと親しくなった。9時前には帰っていたので会わなかったが、土曜日だかの休みにマッチャンが遅がけに寄って3人で飲んで、それから9時半まで待ってくれて、30分ほど話して帰るようになった。私とエーちゃんは看板の12時まで。エーちゃんは実に5時間飲むことになる。ほぼ毎日、酩酊するのは私である。自転車で転んではいけないと、ついて自宅マンションまで何回か送って貰ったことがある。


 この店を愛してやまないのは只々、安いことと(毎日飲むにはこれが一番である)話が合う飲み友達である。あるとき「料理は、まずいわ、店は殺風景だわ、おまけに色気はないわ、それでもこの店にくるのは・・・」と喋って、「悪かったわね、色気なしで!」と花ちゃんを怒らしてしまったことがあった。

 何時しか遠慮のいらない関係になっていったのだった。花ちゃんの偉いのは、音楽の道に進みたいという長女をアメリカにやり、今回長男をアメリカの神学校にやる。二人ともアメリカを活躍の場と決めている。離婚して淋しい筈なのに子供たちに好きな道を行かせてやろうとしているところだ。


 客は、同性の客は花子さん、年配客は女将であり、若い男性で「おばはん」と呼ぶ奴もいる。もっとも親しくなっての上だが・・。一般的にはママと呼ばれている。わたしは「花ちゃん」である。話の聞き上手で、人の分け隔てもなく、愛される存在である。同姓客も多く、それが又、中年客を呼ぶのか、何時しか8席は満席になり、臨時椅子2脚は休んでいる暇はなくなった。

えらいものである。店は客が作るものだと、婦人服であるが店を長年やって来た私は改めて感心した次第である。来る客も色々個性的で知り合ったメンバーのことを書けばこれまた楽しい話になるのだが、『アニヨン酒場物語』はいずれまた。今日はマッチャンの話である。

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