第10話 ラブコメは降って沸いてこない
この世界に来て一カ月。生活のほとんどのことには慣れた。この家族の関係性も大体わかったと思う。しかし、姉については謎がまだまだある。あれほどのブラコンにも関わらず声優としての兄は好きではないという姉。ファンサを見た姉のただの嫉妬なのだろう、そう思っている。
今日も今日とて姉はラブコメ展開を繰り広げようと奮闘する。それは私もなのですが。だって、目の前に好きな人がいるんですよ? そんなの勿論、好きになってほしいじゃないですか。
兄は今日も帰宅が遅い。兄の帰宅が遅くなると姉妹は個々人で風呂に入る。兄がいる時のみ一緒に入浴するため、今日は既に姉妹とも入浴済みだ。
「にぃーやん、おかえり。おつかれさま」
「あぁ、ただいま。今まで起きてたのか?」
「そりゃそうよ。にぃーやんのこと迎えたいし」
「そっか、ありがとう」
「いいんだよー」
イケボと猫なで声の会話が聞こえてくる。しかし、今日の私は出迎えに遅れる。拓央君のラジオが今終わったんだよ! ラジオアプリを閉じ、部屋を飛び出す。夜中にも関わらず階段を駆け下りる。
「お兄ちゃーん! おかえりなさい。遅れてごめんね」
「色乃も起きてたのか。ただいま。色乃もありがとう」
「えへへ~、お兄ちゃんのラジオ聴いてて」
ラジオを聴いていた話をすると姉は長い髪の毛先をくるくると指先で弄ぶ。本当に興味ないんだろうな、という印象を受ける。少しは興味あるのかな、と思っていたのに。自分の仕事についてそっけない態度をとる姉を見ても一切表情を変えず、微笑む兄。
「そっか、でも二人とも早く寝ないと明日に響くぞ」
「はーい。にぃーやん、おやすみ」
「そうだね、おやすみ」
おやすみと言われる兄は姉妹の頬にキスをする。この風景には慣れたが、拓央君ガチ恋勢なのでやはりドキドキする。でも、初期ほど赤面することはなくなったと思う。
キスタイムが終わると姉妹二人して階段を上がり、それぞれの自室へ戻る。自室へ戻るとフカフカお布団が私を待っている。フカフカお布団にダイブし、掛布団の中へ潜る。掛布団の中には拓央君が声を当てるキャラのクッションや拓央君……、お兄ちゃんが買ってきてくれた(らしい)夢のお国のお土産であるぬいぐるみがある。ちなみに、転生前に買ってきてくれたらしいので記憶にない。少し寂しい。
先ほどの姉の態度を目の当たりにした兄は特に何も感じていなさそうだ。この一カ月間姉が兄にあんな態度をとる状況に遭遇していなかったので、兄がどう感じているか、とか考えたこともなかった。
兄だってたくさんのファンに恵まれている一方でアンチも多いのが現状である。人気声優とはそういうことだ。
百人いて百人に愛されるなんて不可能だ。なんなら一人いて一人に嫌われるまである私は自分で言っていて辛い。
百人には愛されない世界であることを理解しているであろう兄からすると姉のように声優としての自分を好いてくれていない人なんてたくさん目の当たりにしてきたのだと思う。だから、そんなことはいちいち気にしていないだろうし、そんな姉のこともきっと理解しているのだと思う。みんながみんなオタクではない。そういうことだと思っているつもりだが、なんだかモヤモヤしてしまう自分がいる。それは自己の価値観のおしつけであり、みっともないことだと思う。ぷくーと頬を膨らませながら、キャラクッションを抱きしめる。
あまり考えてもどうしようもないことだ。姉の価値観を変えるとかそんなことではない。それよりラブコメ展開に自ら持っていく姉のほうが姉らしい。 そのまま目を瞑り眠りにつく。
朝はスマホから『目覚まし彼氏』というアプリで拓央君が起こしてくれる。しかし、この日は違った。拓央君はいつも通り起こしてくれていたが、なかなか目が覚めなかった。なかなか起きてこない私に兄が心配したのか部屋まで起こしに来てくれる。『目覚まし彼氏』と同じ声と温かい手で私を揺さぶる振動でやっと目が覚める。
「色乃! 早く起きろ。もう朝だ」
「う、お、お兄ちゃん……?」
「色乃がなかなか起きないから心配で」
そこには少し焦り気味の兄がいて、体に触れられている。
姉はおらず、私の部屋で二人きり。その事実に気づいてラブコメ展開、いや、コメディ要素すらも除いてしまう展開へ進展させようとする。この世界に来た日に試みたがダメだったことを。
兄のふっくら艶やかな唇に自分の唇を近づける。兄は想定外だったのか前回のようにガードは固くない。兄の唇と私の唇が重なり合う。兄は驚いたような表情と赤面でそっぽむく。しばらく沈黙が流れる。この沈黙が我に返れと言っているようだ。
「ご、ごめん……」
「いや、うん。いいんだ。それより早く朝飯」
自分でも寝ぼけていたのか故意なのか判断つかない。いや、故意だけれども故意だとは気づきたくないだけだ。なんだか最低な気分だ。誰の男になるわけでもない、どちらかの兄になるつもりもない。みんなの拓央君なのに私があの一瞬を独占したことへの罪悪感に苛まれる。あの一瞬は少しでも幸せと感じたのに。そんな感情になるくらいならするなって話なのに、自分のことしか考えていなかったから。
パジャマから洋服に着替えて新鮮な気持ちになれるはずもなく、なんだか気まずいかもと思いながら食卓へ向かう。
食卓では何も知らないいつも通りの姉がコーヒーをすすりながら新聞を読んでいる。兄は記憶を抹殺でもしたかのようにいつも通りの微笑みを見せてくれる。なんだかいつも通りすぎて頭抱えている自分がバカらしくなってくる。「本当は何を思っているの?」そんな疑問と勝手にフラれたような感情に襲われる。思わず口にしてしまう。ただ、誰にも気づかれたくないので小声で。
「ホント、私バカ……」
「あんた、何か言った?」
姉はいつもと変わらない威嚇するようなトーンで言う。それに怯え、動揺しながらも答える。精一杯の笑顔を作りながら。
「な、何もないよ。全然」
「あ、そう」
一言だけ姉は呟く。「あ、何かあったんだな」と言いたげな表情であるが何も問うてこない。その時兄は分が悪そうに食卓を出る。その姿は姉から何か聞かれると困るって感じに見えた。考えすぎか。
姉は私と比べて愛されやすい人間なのだと思う。愛情表現がきっと得意なのだろう。私は独占欲にまみれ、愛情表現が下手だ。姉は決して独占しようとしない。嫉妬はしても自分が優位な立場に立とうとはしない。マウント取りのくせに。
自己嫌悪しかない。そんな時に姉も兄も身支度を済ませ一緒に家を出る。
「いってくる」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
二人ともいつも通りだ。しかし、私はぎくしゃくしながら見送る。小さく手を振りながら。今日のような私が最後に家を出る日は二人を見送る。いつもならば二人の姿が見えていてもすぐ家に入るのに、今日は二人の姿が見えなくなるまで見送る。姉は一切兄の手に触れることもしない。兄と二人きりなのに。案外そういうところがあるのも正々堂々としていてかっこいい。それとも敵の前であえて傷めつけようとする女王様なのか。
私にはまだ分からない。分かろうともしなかった。
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