第伍話 現なる 愛しき我が家 帰還する


(わかる。わかっている!)


 星喰い星には、あらゆる手段を講じても、潜入は不可能だった。

 行けるはずのない星喰い星の地に、もしも知らぬ間に立っていたら、自分はさぞかし動揺するだろう。以前、こんなふうに思っていた。

 しかし、今の深雪ときたら、あまり動揺している様子がない。灰色一色の世界に慣れない代わりに、子供や街並には、もう慣れてしまったようだ。

 一切の恐怖も感じない。それどころか、なぜか子供には親近感を抱いてしまったほどだ。今いる場所の周辺だけでなく、街全体を知っているような気もしてきた。


(私は、この子供を知っている?)


 魂が、問いかけてきた。


(うん、何故だかわからないけれど、私は、この子を知っている)


 深雪は自分の魂に、答えた。見覚えのある広場。見覚えのあるバイパス。見覚えのある道路。見覚えのある街並み。


(あなたは、この街を知っている?)


 魂が再び問いかけてきた。深雪はその問にも迷わず答えた。


(うん、何故だかわからないけれど、私は、この街を知っている)


 深雪が知っている少女とこの子供は、少し違う。深雪が知っている少女は、灰色ではなく、色素の薄い綺麗な肌をしていた。エメラルド・グリーンの髪ではなく、優しい栗色の髪だった。瞳は深い黒色だった。顔も全く違う

 しかし、深雪が知る少女も、ピンク色のパーカーを好んで着て、広場でよく遊んでいた。

 深雪が知っている街とこの街は、少し違う。建物の形や配置、色が違う。道路の色も違う。看板に書かれた文字も違う。けれど、深雪は確かに、この子供を、この街を知っていた。


 子供に連れられて歩くこと数十分。深雪の頭は、ついに全てのネジを失って空回りを始めたようだ。頭の中には、常識ではとても考えられない、一つの強い疑問が生まれていた。

 この街は、十二年前の空襲で燃えた深雪の故郷に、とてもよく似ている。この街は、自分の故郷なのではないだろうか。今、深雪が手を繋いで共に歩いている子供は、火だるまになって死んだ、妹の奈々なのではないだろうか。


(まさか、そんな。ありえないよ)


 深雪は強く頭を振った。ここは地球ではない、星喰い星のはずだ。


(私の故郷なんかじゃない。この子は、奈々なんかじゃない……!)


 突然、深雪の手から子供の手が離れた。子供が深雪の腕を、ぎゅっと掴んだ感触が伝わってきた。視線を落とすと、子供が自分の顔を深雪の腕にくっつけていた。


「お姉ちゃんの体、あったかいね。私ね、この温かさを、よくわかんないけど、知っているような気がするの」


 子供は立ち止まり、深雪の腰に腕を回して、身体にぎゅっと顔を埋めてきた。


「お姉ちゃんのこの匂い、この雰囲気、私、知っているような気がする」


 深雪の両腕が小刻みに震え、宙に浮いた。そのまま、子供をそっと抱きしめた。


(奈々、なの?)


 鼻の奥がツンと痛んだ。目頭が熱くなっていくのを感じる。乾いた瞳が、急激に潤っていく。子供の体が、深雪の腕の中で、そっと動いた。


「着いたよ、お姉ちゃん。ここが、私の家」


 子供の視線を追う。深雪は、目を見開いた。食い入るように建物を見つめる。

 ぽろりと涙が零れた。視線の先に見えた家は、十二年前の空襲に遭った夜、時生と奈々を飲み込みながら燃え崩れた、深雪たちの自宅だった。

 深雪の家は、クリーム色の外壁にオレンジ色の屋根を持つ、二階建ての小さな家だ。玄関ドアは赤色で、インターホンの下には、黄緑色の木製のポストが置かれていた。花壇にはオレンジ色のバラと、青いユリが美しく咲いていた。

 自家用車は紺色で、奈々の所持品である子供用の自転車は、ピンク色。籠の塗装が剥げて錆びついていた。

 目の前に立つ家は、他の建物と同じく、灰色一色だった。車や自転車も、同じように灰色だ。家の形も少し違う。しかし、焼け落ちた大切な自宅だと、深雪は直感した。


「お父さん、燃料!」


 子供は深雪から離れ、家の中へ元気に駆けていった。

 深雪は涙を拭いながら、周囲を見渡した。見覚えのある家々が並んでいる。

 そのうちの一軒の玄関ドアが開き、灰色の肌と透明感のない緑色の瞳を持つ老婆が、姿を現した。カールされた老婆の水色の髪が、風に乗ってふわりとそよいだ。老婆は玄関先に干していた布団を取りこみに来たようだった。

 老婆と視線が合った。老婆は深雪の姿を見ても少しも驚くことなく、静かに頭を下げた。深雪は、この老婆の存在も知っている気がした。


 ダークグレーの空に、ライトグレー雲が流れてゆく。色こそ違えど、空の雰囲気や雲の流れる様は、地球と全く同じだった。

 ここが、星喰い星。地球上から失われた平和が、星喰い星には存在していた。


(……どうしてだろう。私たちの街を破壊した星喰い人が暮らす世界が、こんなに平和で穏やかなのに、少しの怒りも感じない)


 ふいに、なにかが軋む音が聞こえた。音が聞こえた方向を見ると、玄関ドアが、ゆっくりと開いていく。家の中から、先ほどの子供が笑顔で飛び出してきた。さらに、見覚えのない、一人の若い男性が姿を現した。

 灰色の肌と、透明感のないオレンジ色の瞳。ハワイアン・ブルーの短い髪。彼もまた、星喰い人だった。


「人間のお客さんなんて珍しいでしょ。私ね、今日、初めて人間とお話したの!」


 男性の腕にしがみつきながら嬉しそうに話す、子供の声が耳に届いた。


「そうだね。この家に人間が来たのは、初めてだね」


 男性の柔らかな声が、深雪の耳を撫でた。温かみのある、心地よい声だった。


「人間のお嬢さん。我が家へ、ようこそ」


 笑顔で話す男性の瞳は慈愛に満ちていた。亡くなった父親の時生に、とてもよく似ていた。深雪は一言も言葉を発することができなかった。


「さあ、お姉ちゃん。入って! 家の中を案内してあげる!」


 子供に促されるまま、深雪は玄関に入った。子供が深雪の右手を取ると、男性が静かに唇を開いた。


「それでは僕は、歓迎の紅茶を淹れるとしようか。君は紅茶が大好きだから」


 男性は優しく微笑みながら、言葉を続けた。


「君は子供の頃から、水代わりに紅茶を飲んでいたよね?」


 男性と視線が交差した。男性は真剣な面持ちで深雪を見つめている。深雪は思った。男性は何故、深雪が幼い頃から紅茶が大好きで、水代わりに紅茶を飲んでいた事実を知っているのだろう。


(身体に悪いって、お母さんにはよく叱られたけど、お父さんには止められたことも怒られたことも、一度もなかったっけ)


 昔の記憶を掘り返してしていると、男性が「おっと、そうだ」と言葉を紡いだ。


「紅茶の前に、燃料を補給しておこうか。燃料はJP-5でいいのかな?」


 男性の口からJP-5という言葉が飛び出して、深雪は激しく驚いた。JP-5とは戦闘機用の燃料だ。どうして男性が戦闘機用の燃料を持っているのだろう。

 深雪は口を閉ざしたまま、しばらく考えた。メタモルフォーシスが使用している燃料は、JP-8だ。JP-5はJP-8と同じケロシン系燃料だ。JP-5でも、おそらく問題なく動くだろう。


「黙っているということは、当たりのようだね。いいよ、補給してあげるよ」

「あの……!」


 深雪の声が聞こえなかったのか、男性は行ってしまった。


「お姉ちゃん、こっちだよ。早くはやくー!」


 子供にぐいと手を引っ張られて、深雪は靴を脱いだ。家の中に入った瞬間、頭が光を放ったように冴えた。家の中も、やはり、見覚えがある。ありすぎるほどだ。


「ここが客室で、隣が私の部屋ね。廊下を挟んで向かいにある小さな部屋が、物置部屋で、物置部屋の隣がトイレなの。その隣が、お風呂場!」


 子供は、むせるような勢いで説明した。


「廊下の奥にはリビング・ダイニングと、お父さんの部屋があるの!」


 深雪は無言で頷いた。


「ダイニングには裏口があるんだよ。そこから、家の裏の空き地に出られるの! もちろん外からでも行けるけどね。でも、裏口があったほうが便利でしょ」


 部屋の配置は、焼け落ちた深雪の自宅に、非常によく似ていた。トイレと風呂場の位置だけ逆になっているが、他の部屋の位置は一緒だ。調度品や照明に関しては、全く同じと言ってもいいほどに、そっくりだ。


(──懐かしい!)


 あまりの懐かしさと、愛しさに、胸が熱くなった。目頭が小刻みに震えた。頬を伝う涙を、子供に気づかれないように、そっと手の甲で拭った。

 この家は、深雪たちが暮らしていた家に、あまりにも似すぎている。

 少し古いけれど、深雪は自分の家が大好きだった。家にいると、心がとても落ち着いた。

 家の中を回りながら、深雪は、リリィを含めて、家族六人、とても楽しく暮らしていた頃の記憶を思い出していた。


 時生は優しくて、とても温かな心を持った人だった。

 翠は厳しいけれど、そこに愛情を感じた。尊敬しているし大好きだ。

 由香里は乱暴で、深雪にだけ意地悪だ。愉快な性格でもあり、家族のムード・メーカ。

 奈々は甘えん坊で、いつも誰かにくっ付いていた。おねだりするのが得意だった。

 深雪は、奈々が可愛くて堪らなかった。小遣いで、翠に内緒で菓子やおもちゃを買ってあげていた。由香里を甘いとは責められないほどに、深雪も奈々には甘かった。

 リリィは、いつも元気がよく、散歩コースを外れて寄り道をするのが大好きだった。散歩コースの土手へ連れて行くのに、随分と苦労した記憶がある。ふんわりとした毛並みが大好きで、いつもグリグリと撫でたり、抱っこをした。


「ねえ、ねえってば!」


 深雪は、はっと我に返った。思い出に浸っていたせいで、子供の幾度もの呼びかけに気づかなかったようだ。


「階段を上がると、部屋が三つあるの。二階にある部屋はね、どれも空き部屋なんだ」

「三部屋、全て空き部屋なの?」


 不審に思って尋ねると、子供は「うん、そうなの」と答えた。子供の声は沈んでいた。子供は階段を指差し、唇を開いた。


「二階へ行こうよ。部屋を、見に行こう」


 二階へ行くと聞いて、深雪の心臓は、ゴトリ、と聞いたこともないような大きな音を立てた。鼓動が激しくなっていくのがわかる。

 焼け落ちた自宅の二階には、深雪の部屋があった。この家の二階にも、もしかして、深雪の部屋があるのだろうか。


 心臓を激しく動かしながら、深雪は階段をゆっくりと上がった。

 二階の踊り場まで上がると、部屋が三つ見えた。深雪は、迷わず一つの部屋の前まで行き、ドアをそっと引いた。

 ドアを開けた先には、一番、見覚えのある部屋が待っていた。

 そこは、深雪の部屋だった。


 懐かしい。配置は少し違うが、全く同じ家具が置かれていた。照明やカーテンの模様まで同じだ。違うのは、灰色一色という点だけだ。

 忘れたことなど一度もない、大好きな自室。目の前に、二度と足を踏み入れることのできない部屋が広がっていた。


(なんということなの……本当に、私の部屋なのね)


 頬に涙が伝った。背中を丸めて静かに泣いていると、足元から「ワン!」と元気な声が聞こえた。視線を落とすと、紫色の毛に包まれたトイプードルがいた。


「リリィ! もう、今までどこに行っていたのよ!」


 子供がトイプードルを抱き上げながら微笑んだ。


「お姉ちゃん、私のことは、奈々って呼んで! この子の名前は、リリィね!」


(奈々、リリィ──)


 深雪は涙を拭い、満面の笑みで頷いた。

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