私的零地点

幸村 燕

『私的零地点』


幸村 燕


―私は回帰する―

 本は戦いに負けた。情報伝達の媒体として、物語の消費形態として、本は敗北した。次多種多様なライバルたちによって、彼は何百年もの間君臨していた王座を奪われたのだ。だから、彼は諦めなければならない。かつて己が独占していた地位を諦めること、それこそ彼が生き残る唯一の道なのである。では、情報伝達媒体と物語消費体型の地位を失った今、彼には何が残されているのだろうか。

 文字である。本は情報を伝えるのではない。本は物語を伝えるのでもない。本はただ文字を伝えるのである。本を通して、私達はテクストに出会う。テクストを読むことは快感だ。テクストを書くことも快感だ。この快感こそが本に与えられた永遠の地位なのである。

 私達は今こそ回帰せねばならない。テクストの快楽へ。

 それ故、これから続くテクストの真の目的は情報伝達でもなければ、物語の消費でもない。私が書くことによって感じる快楽を読者に与えること。それこそが私の目的である。それはいわば虫歯の痛みを他者に伝えることと同様に、ある種不可能性を孕んだ行為である。その不可能性への挑戦こそがこのテクストの目的である。そのため、私は私のテクストに情報伝達や物語の消費としての解釈が与えられることを望まない。これから続く文章は、小説であり論説であり随筆であり詩でありうるし、それらのうちのどれでもないものである。よってこれらのテクストには意味など何もない。しかし、意味など何もないということは、決して無意味だということを意味しないだろう。

私達は回帰せねばならない。もう一度立ち返らねばならない。

テクストの可能性へ。

テクストの音楽を奏でること、それこそが私の願いなのだ。












―矛盾―

この文章は嘘である。

このような文章は、人々を喜ばせる。この文章が含む矛盾は人々を刺激し、言語に立ち返らせる。

言葉は、あきらかに現実を超えている。言葉の世界の中では、相反する要素が同一でありうる。「私は非私である。」このような文章は決して矛盾していない。私は踊っていると書いている私は踊っていない。私はただ文字を書いている。言葉を連ねている。私の紡いだ言葉が意味をなすのか、なさないのか、或いはその両方なのか私は知らない。私は踊る。私は踊らない。どこからともなく流れてくる音楽に乗せて私は踊る。両手を天に向け、両手を地につけて、そして踊る。踊り踊らず、歌い歌わず、書いて書かない。

言葉は私を超えていく。言葉の可能性は私の可能性に拘束されずに広がっていく。平行世界に存在する複数の私達は、言葉によって集約される。言葉は平行世界をいくつも構成することができ、なおかつ平行世界をなだらかに横滑りしていく。さらに言葉は時間軸にも縛られない。異なる時間に属する複数の私たちは一緒くたに縫い合わされている。言葉は縦軸も横軸も全てを一つの直線に統一する。この点で、言葉は暴力的だ。言葉には力がある。言葉の牢獄に囚われた私達は常に言葉に囚われている。常に言葉の暴力性に晒されている。

嗚呼、私は嘆く。

言葉からの開放を待ちかねて嘆く。いや、私は笑っている。


―証明―

言葉は何も証明できない。言葉は真実を語ることはできない。

言葉を書くことの不幸は、言葉によってしか己の存在を確立できないことにある。

いかなる実話でさえ、実話であるということを証明できない。なぜならば、実話であると示すためには、実話であると語らねばならないからだ。

「本当なんだよ、信じてくれ!」と私が叫べば、すぐさま君はこう言うだろう。

「証拠を示してくれ」と。

証拠だって!なんて忌まわしいんだろうか。我々の住む世界において証拠なんてものはどこにも存在しない。写真や映像さえも虚構を孕んでいる。そもそも本当であることになんの意味があるのか。永らく西洋社会は真実を求めることに固執していた。しかし、真実なんてものは誰も救いはしない。

救済とは常に真実の外側にある。

我々が真実を求めず、証拠に立脚しない時、真に救済が行われるのだ。




―『言葉=私』からの開放―

私は踊る。私は歌う。私は走る。これらの行為をしている時、私は私を忘れる。踊ることや歌うことや走ることの最高潮に達した時、思考は全て捨て去られ、神秘性だけが私の身体を包み込む。無我夢中とは、まさにこの状態を示している。

無我になった私、私を捨て去った私は言葉からも開放されている。なぜなら私とは思考であり、思考とは言葉であるからだ。

無我夢中な私は、私=思考=言葉を脱ぎ捨てる。そうすることによって初めて、身体としての私は精神としての私から開放され、純粋な魂と合一することができるのだ。

私は踊り続ける。精神(わたし)が、思考が、言葉が身体(わたし)に追いつかないように。

私は歌い続ける。純粋な魂以外の全てが身体(わたし)から流出するように。

私は走り続ける。

追いつかないで。身体(わたし)は精神(わたし)から逃げ去りたいの。


―溺れていくー

私は溺れている。

そこから抜け出すために、私はあがき、もがいている。しかし、この海から抜け出すのは困難だ。なぜなら、私は水の中でしか存在できないから。だが、それでも私はこの海からの開放を望む。どうすれば、この支配から逃れることができるのだろうか。

ある種の神秘が、私をこの海から救済する。

優れた文章とは、まさに言葉の支配から免れているものにほかならない。

言葉の支配から逸脱した言葉、それこそが真の救済であり、神秘である。

私は救済を待ち望む。


―私は愛する―

愛とは、我々に訪れる唯一の物語である。反復し、円環する現実に抗う唯一の道である。それゆえに我々は愛を欲する。それゆえに私は愛する。

愛において自我を忘れ、融解していく時、我々は真に現実を免れていると言える。

愛とは溶け入るような吐き気であり、痙攣であり、恩寵である。だが決して救いではない。愛は何者をも救いはしない。

救済が昇華であるならば、愛とは偏に堕落である。

私はどこまでも堕ちていく。愛を抱えて。だが、私は同時に救済をも待ち望む。愛したい、愛されたい。でも救われたい。私はなんとわがままなのか。


―私的零地点の文学―

私的零地点の文学とは、神秘へ向かう意志である。それ自身の深層部へ降りていく言葉である。

文学の最大の目的とは、まさに語り得ぬものを語ることであり、語り得ぬものを語ることによってのみ神秘へ到達する。その神秘へ到達した時、真に文学は救済される。

私的零地点の文学において、全ての言葉は音楽を希求する。音楽を求め、言葉たちは踊りだす。結局、舞踏とは人類が発明した最も優れた詩なのである。いまこそ私は言葉とともに踊ろうではないか。それが、私的零地点への道ならば。

長く果てしない舞踏の後、私はついに私的零地点へ到達するだろう。

私的零地点の世界においては、遍く私は汎神的だ。全ての諸事物は私となり、私は全ての諸事物と化す。全ての星座は私によって紡がれ、全ての天体は私を中心として回る。(その天体さえも私なのだが!)

世界が私で満たされる。同時に、私はあらゆる言葉からも開放される。

ついに私は愛を手に入れ、救済をも手中に収める。ここでは墜ちていくことも、昇っていくことも同義だからである。

全てが溶け合い私になる。私はやっと音楽になれたのだ。

私は踊り続ける。

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私的零地点 幸村 燕 @kurenaiduki

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