第10話  耳を澄ませば

雲一つない真っ青な空、梅雨明け宣言が出されて最初の日曜日、今浦の町では朝から沢山の人達が通りを海岸へと向かって歩いていた。

港では、いかだ競争に参加するいかだがズラリと並べられ、スタートの合図の時を待ち構えていた。

絢子は、叔母から譲ってもらったウェットスーツに救命胴衣をまとい、栄一とともに、いかだを倉庫から運び出した。


「勝と慎太郎が毎日手入れしていたから、まだまだ十分使えると思います。でも、俺ら2人だけじゃ、やっぱり心もとないっスよね。」


「何、弱音言ってんのよ!私たちは、あいつらに、美玲に勝つために、今日までトレーニングやって、オールの漕ぎ方をエアで練習して、大好きなたばこも控えめにして、備えてきたんだよ!たとえ2人でも、やれるだけのことはやろうよ!」


強気な言葉を連発する絢子であったが、内心では勝てるかどうか、不安が募っていた。

勝と慎太郎は、直前まで出場できるか様子を伺ったが、結果的に医者に止められ、参加を見送ることになった。

そんな時、港の一角に沢山の人だかりができていた。

目を凝らすと、人だかりに囲まれているのは、黒生地に黄色の差し色が入ったカラフルなウェットスーツを着込んだ、男女4人組である。


「あのショートカットの子、美玲だな、あれは。」


「そして、スラっとした長い髪の女の子は・・・多田麻里奈ちゃん。やっぱり来てくれたんだ、超嬉しいっス!」


美玲と麻里奈の隣に立つ2人の男性は、筋骨隆々で、微笑堂の一般社員ではない雰囲気を感じた。


「あの男達・・さては、微笑堂で支援している水泳の選手だな。オリンピックの候補にもなっている、近藤と飯田かな?」


「え、絢子さん、マジっスか?オリンピック候補って、そんなすごい奴らを連れてきたんスか?こんな田舎の、地元民中心の、いかだ競争に?」


「あいつら・・本気で、勝ちにきているな。専属モデルの多田麻里奈に恥をかかせられない、というのもあるんだろうけど・・。」

絢子は、睨みつけるように微笑堂チームの面々を見ていた。


「ええ?本気モード?やだなあ・・素人だらけの、町民交流のためのイベントなんだから、お手柔らかに漕ぐようにお願いできないんスかね?絢子さん。」


「わ、私に言わないでよ!もう微笑堂の社員じゃないんだから。それに、美玲を前に、そんな弱音吐けるわけないじゃん。一生、舐められるわよ。」


絢子はいつものように強気な態度を見せたが、相当な焦りを感じていた。

今のままでは、大差をつけられて負ける姿しか、想像できなかった。


大きな花火が打ちあがり、みこしを担いだ若い衆が掛け声をかけながら沿道を練り歩き、いかだ競争の開会式会場に姿を見せた。

すると、港に停留中の漁船が一斉に大漁旗をはためかせ、汽笛を鳴らした。

港町ならではの、豪快で勇壮な祭りが始まろうとしていた。

会場のボルテージが一気に高まった中、開会式が始まった。


絢子と栄一の二人がいかだを海に浮かべようとしていた時、スラリとした髪の長い女性が、ピンクのウエットスーツを身にまとい、手を振って二人の元に近づいてきた。

そして、その隣には、松葉杖をついた勝が姿を見せた。

重傷を負い、近くの市の総合病院に転院している慎太郎は、姿を見せなかった。


「あれ?勝、それに・・ちひろママ・・さん?」


「そうよ。久しぶりね。」

ちひろはニッコリと優しく微笑んだ。


「あらら、ちひろさん、どうしたんスか、ウェットスーツなんて着込んじゃって。どっかのチームに参加するンスか?」

栄一は、スナックのママであるちひろが、突然ウェットスーツで出現したので、驚いた様子であった。


「ううん。勝・・マー君にお願いされてね。自分は出るつもりなかったんだけど、旦那の無念を晴らすため、そして、一生懸命いかだ作りに参加し、ライバル打倒に向けて練習していた絢子ちゃんの気持ちを無駄にしたくないから・・今日、マー君と慎ちゃんの代役として、出ることになったの。」


「え?じゃあ、いかだ競争出場の経験は無いんですか?」


「うん、ないわ。」

ちひろはあっさりと返事し、二人は拍子抜けした。


代役として一緒に漕いでくれるのは嬉しいが、まったくの初心者では、勝と慎太郎の代役としては心細いと感じた。


「絢ネエ、今回は出られなくって、本当にごめんなさい!俺、ここで待ってますから・・。たとえビリでゴールしようが、ずっとここで、応援しながら待っていますから!今日ここに来ることができない慎太郎の分も合わせて、めいっぱい応援しますから!」


そう言いながら、勝は頭を何度も下げた。

絢子は、勝に歩み寄り、頭を下げる勝を掌でそっと撫でた。


「・・ありがとう。」

そういうと、勝の目を見つめながら、親指を立ててニコッと笑った。


「絢ネエ。がんばってください。悩んだ時は、落ち着いて、海を眺めて下さい。そして「海の声」を聞いて下さい。ただひたすら目をそらさないで、ずっと海を眺めていたら、ある時突然、聞こえてくると思います。そしたら、その声を信じて、オールを動かしてください。」


絢子はうなずき、

「ありがとう。海の声、大事にするよ。あ、そうそう、慎太郎にも、私たち、がんばって、優勝するからねって伝えてて。」


「ゆ、優勝?」


絢子の口から発せられた「優勝」の2文字に、勝も、そして栄一もちひろも驚いた。

しかし絢子は、笑顔でウインクし、


「さあ、そろそろスタートの時間だし、行くわよ!」

と言って、足早にスタート地点へ向かった。


スタート地点には、今回出場する25隻のいかだが、ずらりと並べられていた。

ほとんどが地元今浦の人達のチームだが、中には東京や大阪などからも参加するチームもある。

子ども会やスポーツ少年団のチームもあれば、青年会や消防団、そして漁師仲間などのチームもある。

優勝候補は、力自慢が揃う消防団チームだが、今回は、オリンピック候補の競泳選手を連れてきた微笑堂チームがダークホースの様相を呈してきた。


コースは、入り江の砂浜をスタート地点に、2km離れた神楽島まで進み、そこで神主からお札を頂いて、再びスタート地点に戻るまでの、計4㎞にわたる。

スタート地点に着くと、ほとんどのチームが準備を済ませ、出発の号砲の時を待っていた。

絢子たちも、いかだを海岸から波の上に少しずつ動かし始めた。

その時、後ろから、聞き覚えのある女性の声が聞こえた。


「あら、弓野さん?弓野さんも、このレースに出るんですね?」


「・・・美玲?」


絢子の後ろには、微笑堂チームのサインが入ったウェットスーツを着た、美玲と、モデルの多田麻里奈、そして競泳選手の近藤と飯田が立っていた。


「美玲・・・あんたたちのチームには、絶対負けないわよ。仕事ではあんたに負けたけど、今日は、その無念を晴らしてやるから!」

絢子は、美玲を指さしながら、鬼のような形相で睨みつけた。


すると、美玲はフフッと笑い、にこやかに話し始めた。


「・・さっきから見てて思ったんですけど、弓野さんのウエットスーツ、パッツンパッツンですね。それ、サイズ、合ってないんじゃないですか?そういう半端な所、何というか、弓野さんらしいなあって‥フフフ。」


「な・・何ですって!?」


絢子と美玲の間に不穏な空気を感じ取った栄一とちひろは、慌てて絢子を止めに入った。


「二人とも、いいのよ!私、別にケンカするつもりはないから。」


「え?」

栄一は、絢子の言葉に思わずたじろいた。


絢子は深呼吸し、ニコッと笑って美玲に笑いかけた。


「確かに・・私らしい、かもね。」


そういうと、美玲に背を向けて、


「ほらほら、もうすぐ出発だから、準備しないと間に合わないよ。」

と、栄一とちひろの背中を叩いて、いかだを波に浮かせる作業を続けた。


麻里奈は、絢子の言動を聞いて、首をかしげて美玲に問いかけた。


「西村さん・・・誰あの人?知り合いなの?すごくおっかない顔してたけど。」


「うちの会社に昔いた人なの。私の先輩だけど、仕事できなくて左遷されて、そこで悩みすぎて辞めちゃったの。まあ、中途半端な仕事しかしてないんだから、左遷されて当然なんだけどね。」


「ふーん・・・。」



『さあ、今回で第26回となる、今浦いかだ競争大会、スタートします。』


スターターである実行委員長が大声で叫び、青空に向け、号砲を放つと、今回エントリーした25隻のいかだが一斉に島へ向かって漕ぎだした。

真上から照り付ける太陽、オールにはじかれ、光る波しぶき。

心地よい海風、そしてカモメの鳴き声・・。

ヘルメットをかぶり、救命用具をつけて、必死にオールを漕ぐ絢子、栄一、ちひろの三人はスタートから島までの中間地点にいるが、既に先頭集団は、島のすぐ近くまで進んでいるようである。


「そろそろ、気合入れようか。栄一。」


「え?スパートはまだまだ先ッスよ。ここは力を貯めておかないと、復路もあるんスからね。」


絢子は、斜め前10m先の所にいる四人組を指さした。


「あ・・あれは、麻里奈ちゃんのいる微笑堂チームっスね。ああ、そういうことか。じゃあ、少しスピードを上げますか!」


「私が号令だすね。いくよみんな!そーりゃ!」


「そーりゃ!」


三人が力一杯オールを漕ぐと、いかだはみるみるうちにスピードが上がった。

しかし、美玲のいる微笑堂チームのいかだとはなかなか距離が縮まらなかった。


「ちひろママ!もっと力を入れて!オールをただ水面の上で動かすだけじゃなくて、斜めから水の中に突っ込んで、思い切り後ろへぐーっと掻きだすように漕いで!」


「わ、わかってるわよ、でも、力が入らなくて・・」

ちひろは、オールを力いっぱい動かしても、いかだが前に進まず、困惑した表情であった。


「ちひろママ、旦那さんの無念、そして勝や慎太郎の無念を果たすのは、今しかないのよ!ここで力を出さないで、いつ出すのよ!今でしょ!」


「・・そ、そうよね。どこかで聞いたことあるセリフだけど、よしっ、そーりゃ!」


ちひろは、歯をくいしばって、オールを水の中に突っ込み、後ろへ水しぶきを上げて掻きだした。


「す、すごい!さっきよりずっと動いてる。」


「その調子だよ、ちひろママ!よーし、私も負けないわよ!」

絢子は力を入れて、オールを後ろへと掻きだそうとした。


その時、絢子のオールが、ちひろのオールとぶつかり、そのはずみで、絢子はバランスを崩し、海の中に転げ落ちてしまった。


「え?ええ??絢子ちゃん!大丈夫?」


「絢子さん、絢子さ~ん!やばい、このままじゃ溺れてしまうっス。どうしよう?」


海の中、絢子は真っ逆さまに底へと沈んでいった。

しかし、ある程度の深さまで沈んだところで、絢子の体は救命胴衣のおかげもあって、ふわりと浮き上がった。

その時、絢子は不意に目を開いた。


『・・・・つよーい南風が吹いてきてるよ。ぼくたちも、風に合わせて、流れて行こうかな。』


『そうそう、風に逆らわなくていい。風にまかせて、流れて行こう。』


「え?南・・風?」

その時、絢子は息が苦しくなり、あわてて手をバタつかせながら水面へと這い上がった。


「絢子さん!絢子さん!早くこの手に捕まって!溺れちゃいますよ!」


栄一が必死に叫んだ。

絢子は栄一の手を掴むと、栄一は力いっぱい絢子の手をひっぱり、いかだの上に引き上げた。

海水を飲んでしまい、激しく咳き込みながらも、絢子は何とか正気を取り戻した。


「ああ・・良かった。絢子ちゃん、無事だったのね。」

ちひろは涙ぐみながら、絢子の髪や体を撫でた。


「本当に・・絢子さん・・死んじゃうかと思ったっス。」

栄一も、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。


「あはは・・心配かけてごめん。ドジだよね、私って・・昔から肝心な所が甘いんだよなあ。」


何とか起き上がり、再びオールを持った時、微笑堂チームのいかだは、すでに島にたどり着いたようで、絢子たちのチームは大きく引き離されてしまった。

しかも、先頭の消防団チームは、すでに復路に入り、絢子たちのいかだの傍をかなりの速度で駆け抜け、ゴールに向かっていた。


「ああ・・先頭にはとても追い付けないし、微笑堂チームにも差を付けられちゃったし・・・俺ら、今、ひょっとしたらビリの方っスよね?」


栄一は、すっかり戦意を失っていた。

ちひろも、まったくの未経験な上、スパートをかけた時に普段使わない筋肉を使って疲れ果てたようで、肩を落とし、ため息をついていた。


「・・・南風が吹くから、それに合わせて、流れて行こう・・か。」


「ん?どうしたんスか、絢子さん。急に独り言を言い出して。」


「いや、ちょっとね。ひょっとしたら、勝機があるかなあ、と思って。」


「ええ?ま、まさか、本気で言ってるんスか?」

栄一は、何寝言言ってるんだと言いたげな顔で、絢子を見つめた。


スタートから今までは、ほぼ無風で、水面も波立つことなく、潮も島の方向へ向かって穏やかに流れていたが、確かに、風向きが南から北へ押し寄せるように吹き始めていた。

絢子が海に沈んだ時に聞こえた「声」・・それが、勝や慎太郎の話していた「海の声」かどうかは分からないが、絢子は聞こえた「声」を信じ、その言葉に賭けてみようと思った。

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