第8話 海の声
気持ち良い真っ青な空が広がる下、絢子は栄一と共に、ウエットスーツに着替え、漁港に向かった。
都会育ちの絢子は、今でこそ海辺の町に住んでいるものの、サーフィンも釣りもやらないので、自前のウェットスーツは持っていない。
そのため、叔母の藤江が若い時に海女の仕事で着ていたものを借り、早速試着してみたが、叔母は身長が低いので、やや長身の絢子が着ると、腕も足も丈が短く、陸上選手の競技用ユニフォームのような感じになってしまった。
漁港で待ち構えていた勝と慎太郎は、絢子を見て思わず笑いだしてしまった。
「絢ネエ、何なんですかそのウェットスーツ。これから短距離競争でもやるんですか?」
と、勝はクラウチング・スタートのポーズをとりながら笑った。
「う、うるさいわね。これしかなかったんだもん。叔母さんの着てたお古なんだけど・・あ~恥ずかしい。」
「いや、俺は絢子さんのウェットスーツ、凄く似合ってると思うっスよ。」
栄一は絢子を見るに見かねてか、彼なりにフォローしようとした。
「栄一!あまりにも見え透いたお世辞はやめてよ。」
絢子は逆に、栄一をたしなめた。
「お、俺は絢子さんのことを思って・・だって、かわいそうじゃないっスか。短距離競争だなんて。」
栄一は顔を赤らめながら否定したが、慎太郎はニヤニヤ笑っていた。
「まあ、二人で色々言い合ってるのを聞いてると面白いけど、時間がないんで、出発しますか。じゃあ、いかだを軽トラックから降ろすんで、栄一さんと絢ネエは、いかだを海に降ろす時に手伝ってくださいね。」
そういうと、勝と慎太郎は、乗ってきた軽トラックに掛けられたロープをほどいて、いかだを砂浜に降ろした。ここから、栄一と絢子も加わって、4人で息を合わせながら、いかだをそっと少しずつ海へと進めた。
「うまく浮かんだな。よし、まず俺が乗るんで、その後、1人ずつ乗ってね。」
そういうと慎太郎が最初にいかだに乗り、その後に勝、栄一、そして最後に絢子が飛び乗った。
「おお、4人乗っても転覆しないな!今年のいかだも上出来だ。さ、みんな、オールを持ったか?じゃあ、掛け声かけるから、声に合わせてオールを前から後ろへと押し出すように動かせよ。最初はなかなか進まないかもしれないけど、焦らないで、しっかり息を合わせてオールを動かすんだぞ。」
慎太郎は大きな声で他の3人に声をかけると、
「おうよ慎太郎!今年は素人1人が一緒に組み立てて正直不安だったけど、それにしては上出来じゃないか!俺は準備オーケーだぜ!」と、勝がそれに応えた。
「おう、勝!慎太郎!作業ありがとうな。俺、数年ぶりにいかだを漕ぐけど、絢子さんのためにもがんばって漕ぐからな!下手なマネして、絢子さんに迷惑かけたら俺が許さねえからな!」と、栄一も野太い声で叫んだ。
「はーい!「素人」でーす。ここまでみんなには色々迷惑かけたけど、大会に向けて毎日体を鍛えてるから大丈夫!みんなに負けないように漕ぐからね!」と、絢子も男3人に負けない大きな声で、空に向かって吼えるように叫んだ。
「よーし!じゃあ、いくぞー!そーりゃ!」慎太郎が声を上げ、オールを力強く前から後ろへと押し出した。
「そーりゃ!」
他の3人も、慎太郎に続いて、かけ声を合わせてオールを動かした。
しかし、全員の息の合った力強い動きにも関わらず、いかだは、ほんの少ししか前に進まない。
「ダメだダメだ!もっと力入れないと!もっと後ろへグッと水を掻きださないと!」慎太郎は、甲高い声を上げて他の3人に注意を促した。
「もういっちょいくぞ!そーりゃ!」
「そーりゃ!」
すると、いかだが徐々に、前の方に押し出されるように進んでいった。
「やった~!進んでる!すごーい!」
絢子は思わず歓声を上げてしまった。
「絢ネエ、まだまだですよ!ここから折り返し地点の神楽島まで2㎞もあるんですから!さ、気合入れていきましょ!そーりゃ!」
「そーりゃ!」
いかだは、徐々に前に進み、やがて入り江から離れて沖に出ると、潮の流れに乗って、入り江にいた時よりも少ない力でも前に進むようになった。
「え?え?そんなに力を入れなくても前に進んでるんだけど。」
絢子は潮の流れに乗ってスイスイと進むいかだに、このまま遠くに流されてしまうんじゃないか?と、却って少し焦りを感じ始めた。
「絢ネエ、力を抜かないで!オールを潮の流れに逆らうように押し出すんですよ!」
慎太郎の声を聞き、絢子は言われたとおりにオールを動かしたが、潮の流れが速く、まったく効果がない。
「ダメだよ、方向が変わらない!このままじゃ流されちゃう!」
「焦らないで!おい勝!それから栄一さんも!もっと力を入れて!」
慎太郎は、さすがにちょっと焦ったのか、男性陣2人に対し、大声でまくしたてた。
「おうよ!」
男2人のパワフルなオールの動きで、しだいにいかだは方向を変え、すぐ目の前に迫る神楽島へと向かい始めた。
島が近くなると、潮の流れも、次第に穏やかになり始めた。
「あ~・・ホッとした。流されちゃうのかと思った・・・。」
「大丈夫ですよ!俺たちを信じて、一緒に同じ方向へオールを動かしてください!さ、もうすぐゴールですよ!」
勝は絢子の背中をトントン叩きながら、絢子を力づけた。
いかだは徐々に、神楽島をぐるりと囲む白い砂浜に近づいてきた。
そして、いかだの先端が砂浜に乗り上げると、慎太郎はいかだから飛び降り、ロープでいかだを陸地へと引っ張った。
「すごい!着いちゃった。やった~!」
絢子は手を叩いて、無事いかだが到着したことへの喜びを露わにした。
「しばらく休憩して、昼近くになったらまた漕いで、今浦の漁港に戻りますよ。あ、そうそう、絢ネエ、この島には初めて来たんですよね?」
「う、うん・・・・」
「この島の裏側に、俺ら漁師にとって、ちょっとした穴場があるんですよ。俺らは、たまにさぼりにくるんですけどね。今日は特別に、案内します!」
慎太郎は笑いながら言うと、
「ただ、ウチの親方には内緒ですよ。ばれたら二度とここが使えなくなっちゃうから。」
勝がおどけながら、絢子に口止めしようとした。
いかだを降りて、砂浜を10分ほど歩き、さらに草むらの中を歩いて小高い丘を越えると、その眼下に、透き通った真っ青な海と、白く長い砂浜が広がっていた。
「すごい!海外のビーチリゾートみたい!こんな場所があったんだ・・。水着を持ってくれば良かったかな?」
絢子は、眼下に広がる光景に、しばし目を奪われた。
「さ、ここから急な崖を駆け下りていくんですが、足を滑らせないように。」
勝がそういうと、真っ先に全速力で崖を駆け下りて行った。
「気が早いな、もっとゆっくり走れよ!」
慎太郎も、足を伸ばして腰を地面につけて、まるでソリすべりでもするかのように、スピードを上げて滑り落ちて行った。
「絢子さん、俺の手を握って、一緒に降りましょう!俺の後をゆっくり降りてきてくださいね。」
栄一は絢子の手を握り、少しずつ慎重に崖を降りて行った。
「さあ、いきますよっ・・あ、ありゃりゃ・・!?」
案の定、栄一は木の枝に足をひっかけ、途中で転んでしまった。絢子もそのはずみで、体のバランスを崩してしまったが、何とか手を地面につけて、そのまま這いつくばるように歩き、砂浜にたどり着いた。
「んも~栄一!何やってんのよ!」
「す、すんませんっス。」
目の前には、透き通った青い海。
聞こえてくるのは、さざ波の音。
そして真上には、真っ青な空に、下から湧き出すように広がる白い雲・・。
「絢ネエ・・聞こえますか?」
慎太郎は、海を眺め、たばこを吸い、目を細めながら絢子に問いかけた。
「何が?」
「「海の声」・・聞こえますか?」
慎太郎は、じっと海に目を凝らしながら、つぶやくように絢子に問いかけた。
「え??「海の声」?何言ってんの?波の音しか聞こえないわよ。」
「まあ・・そうでしょうねえ。」
勝は笑いだした。
「何よ、そんなことも分からないのか?とでも言わんばかりの態度は。」
「いや、普通の人じゃ分からないですよ。海の仕事をずーっとしてるとね、ある日突然、聞こえるようになるんですよ。」
慎太郎は、立ち上がると、咳払いして、「海の声」について、講釈を始めた。
「海にも機嫌の良し悪しっていうのがあってね、それを見抜くには、ただ海の様子をボケーっと見てたり、インターネットで海上予報を検索してるだけじゃあダメなんですよ。「海の声」を、よーく聞き取ることで、あ、今日は機嫌良いな、とか、ああ今日は何だか機嫌悪そうだなあ・・って、分かるんですよね。まあ、このあたりは、同じ町で育っていても、干物工場の仕事しかしてない栄一さんじゃわからないでしょうね。」
「やかましわい!ぶっ殺すぞお前ら。」
栄一は顔を真っ赤にして、大きな腕を振り上げた。
「ねえ、それってさ、いつ、どうやったら聞き取れるようになったの?何かのきっかけがあったんでしょ?」
絢子は、海の声という言葉が頭の中にこだまし、その正体を知りたくて尋ねた。
「さあ・・それが分からないんですよ。本当に、ある日突然、分かるようになったんですよね。」
「理屈で説明できないの?」
「そうなんですよ。これが分かれば、一端の海の男だって、先輩には言われたんですけどね。あ、そうそう、「海の声」を俺たちに教えてくれたのは、こないだ話した、ちひろママの旦那なんですよ。」
「え・・だってその人、海が荒れる中、漁に出て死んじゃったんじゃ。「海の声」が分かる人なのに、わざわざ荒れた海に行くなんて。」
「まあね。もちろん旦那はあの時、海の機嫌が悪いことは分かってたと思いますよ。でもね・・」
「でも?」
「俺らの仕事は稼ぎがいいわけじゃないから。たとえ海が機嫌が悪くても、漁に出なくちゃいけない時もあるんですよ。たとえ海が、今日のオレは機嫌悪いから、来るんじゃねえよ!って叫んでるのに、漁にわざわざ出て行くのはおかしいと思ってるけどさ。」
「・・・。」
「さ、暗い話はここでおしまい!そろそろ帰らないとね。今日はまだ波が凪いでいるけど、海の声を聞くとね、これからちょっとひと暴れしてやるか~って言ってるのが、聞こえてくるから。」
「は・・ははは・・そうなんだ。」
4人は再びいかだを波に浮かせ、漁港を目指してオールを動かし始めた。
「さあ気合入れて、あと一息で到着だ!そーりゃ!」
「そーりゃ!」
次第に南西方向に傾き始めた太陽に照らされた波が、黄金色に輝いていた。
しかし、沖を見ると、次第に白波のようなものが立ってくるのが見えた。
こんなに晴れて天気がいいのに・・。
そんな思いを巡らすうちに、いかだは今浦の漁港に到着した。
漁港までの往復は、いくらトレーニングをしているとはいえ、絢子の腕には相当な負担となった。ただでさえ、トレーニングで筋肉痛に悩まされているのに。
「お疲れさん!無事壊れずに往復できたから、今回のいかだも上出来だな。」
慎太郎はニコっと笑って、ロープを使っていかだを陸地へと引き上げた。
「あとは、海がご機嫌であることを祈るだけかな。それから、絢ネエ・・なんで腕を押さえてるんですか?」
「だ・・だって、凄く痛いんだもん。筋肉痛で。」
「ええ?あれだけの距離で?毎回、高校生とかも参加してるけど、筋肉痛になるようなヤワな子はいなかったなあ。」
「ち、違うわよ!だいたい栄一、あんたが過酷なトレーニングをやらせてるのがいけないんだよ。」
「だ、だって絢子さん、やるからには徹底的に鍛えたいって言うから・・。」
「栄一さん、何考えてるんですか?これで絢ネエが本番に出られなくなったら、栄一さんの会社に、干物用の魚を卸しませんからね。」
「う・・・そ・・それだけは!」
いつもの栄一なら、若い漁師たちをその豪快な腕で締め上げてたしなめるものの、唯一の弱点を突かれて、何も言い返せなくなった。
朝方、まるで鏡のように波の無かった海は、いつの間にか漁港の近くまで白波が押し寄せてきていた。
「海の声・・か。どうやったら、私でも分かるんだろう?」
絢子は、勝と慎太郎の言う「海の声」とは何なのか、どうやったら聞き取ることができるのか、気になって仕方がなかった。
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