第5話 火花
3年前の早春、東京・新橋の高層ビルに入居する大手化粧会社「微笑堂」では、朝早くから緊張が漂っていた。
この日は、年に1度の定期人事異動発表の日。
絢子は既に入社して10年が経過し、そろそろ昇任の時期。
すでに同期の中では、課長や営業所長になった者もいる。
別室で会議を終えた課長が戻り、何人かの名前を呼び出した。
絢子は聞き耳を立ててみると、「経理へ行くように。」とか、「系列会社に出向だな。」など、おそらく人事異動関係の話をしているようである。
「弓野絢子さん、ちょっといいかい?」
課長が絢子の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「はい、課長。」
「・・・盛岡営業所、どうだ?行けるか?」
「え?盛岡?それは・・所長ということですか?」
「いや、統括主任だ。」
「え?それじゃ、今と立場がそんなに変わらないですよね?」
「そうかもしれんが、北東北では重要な拠点の、営業所長に次ぐ位置だよ。やりがいがあるんじゃないのか?」
「・・・」
「どうした?行くのか?行かないのか?・・あ、返事は、週明けまでに僕に返して欲しい。よろしくな。」
そういうと、課長は次々と異動対象者を呼び出し、淡々と異動先を告げていた。
絢子は、肩から力がスッと抜けていくような錯覚を覚えた。
昼休み、絢子はいつものように社内のカフェで食事をしていると、1年後輩で、かつて同じ部署に所属していた西村美玲が、数人の仲間とともに絢子の近くのテーブルに座り、異動発表の話をしていた。
「西村さん、異動になったんだって?どこに行くの?」
「メディア部門の広告・宣伝課長だよ。やりたかった仕事で、凄く嬉しかった。」
「え~!じゃあCM作りや雑誌・新聞の広告とかも手掛けるんでしょ?スゴいね。私も行きたかったなあ。」
「でも、早織もヘルスケア部門の課長でしょ?すごいじゃん。」
「そうかなあ・・ヘルスケアなんて、もう少し歳とってからでもいいと思うけど。あ、そうそう、祥子なんて、香港の関連会社のマネージャーとして出向ですって。うらやましいなあ・・海外だよ~。私が行きたいくらいだよ。」
「置かれた場所で咲けばいいのよ。とりあえず、みんな昇任したからいいじゃん。」
最後の言葉・・昇任することもなく、地方の営業所に行くことになった絢子には、突き刺さる言葉だった。
美玲本人は、何気なしに言った言葉であるが・・。
今回の人事は、絢子にとっては無情ともいえる仕打ちであるが、実は思い当たる節が無いわけではなかった。
絢子と美玲は、その4年前、総務部門で1年ほど同じ部署で働いていたが、その部署で、2人は大きな「仕事」を任されていた。
その「仕事」とは、国内工場の再編であった。
当時、海外への展開を進めるため、国内に7か所ある工場を4か所に再編し、海外特にアジア圏への工場設立に力を入れ始めた。
まずは、閉鎖し他の工場と統合する工場を選び、続いて、工場に働く人たちに統合の話をしなければならなかった。
西村は西日本、そして絢子は東日本の工場再編に向け、現地での説明会を繰り返した。
絢子が、再編対象となった山形県の工場で説明会を行った帰り、1人の男性に呼び止められた。
「さっき説明した人だね?」
「はい。」
「俺は、工場長じゃねえけど、この工場で一番長く働いてる石井っていうんだ。あんたの話をずっと聞いてたけど・・これからしようとすることって、この工場を閉鎖して、俺の仕事と、仕事場と、家族の安らぎを奪おうとすることなんだよ、ね?」
「え?皆さんの仕事と仕事場は、宮城県の工場に集約するだけですから、その心配はありませんよ。」
「馬鹿いうな。俺はこの工場が出来た当時から25年、ここでずっと働かせてもらった。ここが好きだし、ここに家も建てたし、この地域の役員もやっている。子供も地元の学校に通ってる。今更よそなんか行けるかよ。」
「お気持ちや事情は十分わかります、けど・・・」
「ふざけんなよ!お前らは、自分の仕事が上手くいけばいいのか?その結果、おたくが出世すればそれでいいのか?俺たちはお前らの踏み台じゃねえんだぞ。」
石井は、絢子の胸ぐらに手をかけ、掴みかかった。
そして鬼の形相で絢子を睨みつけ、スーツの生地を掴んだ手を何度も上下にゆすった。石井の睨みつける鬼のような目には、うっすら涙が浮かんでいるのが見えた。
「すみません、お気持ちはわかりますが、本社の決定事項なんで、ごめんなさい・・・。」
「今すぐ本社に掛け合え!この工場は俺が死んでも守るからな。組合とも手を組んで、本社の好きなようにさせないよう徹底的に戦うぞ!覚悟しろ。」
そういうと、男は絢子のスーツから手を放し、そそくさと去っていった。
あまりの衝撃に、絢子はしばらく呆然とした。
その後絢子は、東京に戻り、課長に、石井から言われたことをそのまま伝えた。
「・・・で、どうしたいの?弓野さんは。」
「この計画を、一度見直すことはできないのでしょうか?」
「はあ?この話は部長会議まで行って了承された話だ。今更後には引けないんだよ。それに、他の工場はそれなりに業績が十分確保されて新機材も入って、閉鎖する理由が少ない。悪いけど、もう一度山形工場に行って、説明してきてくれないか?」
「でも、働いている人達は既に工場周辺に生活拠点が出来上がっていて、今更他に移れないと言っています。」
「そんなのどこの工場だってそうだよ。大体、うちの会社の工場従業員として雇用してもらってる以上は、転勤の命令に従うのは当然だろう?」
課長は、お前は何を言ってるんだ、と言いたげな顔で、せせら笑った。
「とにかく、さっき言った通り、もう後には引けないんだ。タイムリミットも決め
られている。さ、悪いけどまた説明に行ってきたまえ。」
「・・・はい。」
絢子は重い気持ちで再び山形に向かい、再度工場での説明会を開いた。
工場を統合することによるメリットと、このまま存続させることによるデメリットを十分説明し、その上で、宮城の工場への異動について協力を求めた。
会場では、仕方ない、という声や、宮城での住宅確保を要望する声、そして、家族がいるから異動は受け入れられない、という声もあった。
絢子は説明会を終え、工場を出ようとすると、突然4、5人の男たちにとり囲まれた。
その中には、先日絢子の胸ぐらを掴んだ石井という男もいた。
「おい、こないだ俺、言っただろ?ちゃんと本社に掛け合ったのかよ?俺たちの言葉、全然届いてねえんじゃないか。それどころか、こないだと同じ説明しやがって。」
そういうと、石井は隣にいた3人の男たちに
「皆さん、本社の考え方、よくわかりましたよね?本社は全然俺たちの話など聞こうとしねえ。こないだ話し合った通り、ストライキしましょう。」
「しょうがないですね。出来れば避けたいところなんですけどね。しかし、本社当局の考え方は、相も変わらず現場無視ですなあ・・。許せないですね。」
石井と一緒にいる男たちは、組合の執行役員のようである。
「俺たちは宮城への工場統合は断固反対だ。これは何があっても変わらねえ。もし三日経っても本社が方向転換しなければ、ストライキに入る、いいな?」
石井は、絢子の目の前まで近寄り、宣戦布告するかのように、人差し指で絢子を指さしながら言い寄った。
絢子は、肩を落としつつ、本社へと戻り、課長に「三日以内に山形工場閉鎖に対する方向転換がないとストライキに入る。」という石井の伝言を伝えた。
すると課長は両手を顔に当て、何やら色々考えた上で、
「わかった。この件については、弓野さんはもういい。色々ややこしくなってきたからね。」
課長は絢子の伝言を聞いて、ようやく考え直してくれたのかな?と思ったが、次の瞬間、絢子より先に、西日本の工場整理の話をまとめ、出張から戻った美玲に声をかけた。
「西村さん、戻ったばかりで悪いけどさ、明後日、山形工場に行ってくれるかい?ちょっとやっかいなことになってきたんだわ。」
「え?西村・・美玲が?」絢子は仰天した。
「はい。わかりました。」美玲はにこやかに返事した。
「工場閉鎖の方向を変えなければ、ストライキ起こすってさ。だから、まずは相手の意見を聞きつつ、こっちの事情も伝え、説得に努めてほしい。任せたよ。」
「はい。じゃあ行ってきますね。弓野さん、後でいいから、山形工場に関する資料をもらえますか?」
「う、うん。まあ・・いいけど・・。」
絢子はぶぜんとした表情で、美玲に資料を手渡した。
数日後、山形への出張から帰った美玲は、ニッコリ微笑みながら、課長に報告していた。
「課長、宮城への統合の件、了承いただきました。ストライキも回避しましたよ。」
「え?本当?じゃあ弓野さんが行った時の騒ぎは、一体?」
「山形工場に残ることのデメリット、宮城工場に行くことによるメリットを詳しく伝えきれてなかったんだと思います。ちゃんと1つ1つ、分かりやすいよう噛み砕いて話せば、彼らは理解してくれましたよ。あ、そうそう、ストライキするとか言ってた人達には、その行為が、結果として自分たちの首を絞めることになるって、やんわりと警告しておきましたよ。そしたらあっさり引き下がりましたけど。」
絢子は、口をあんぐりと開けたまま、その報告を聞き入っていた。
「さすがだ西村さん。西日本の工場の件も、しっかりまとめ上げただけはあるね。」課長は微笑みながら美玲の肩を叩き、結果を上層部へ報告に行った。
「ど・・どういうこと?私が行っても、まったく話がかみ合わなかったし、ストライキもやる気十分だったわよ。」
「言い方次第ですよ。」
「わ、私だって、統合の理由はメリットとデメリットを含めて、ちゃんと説明したわよ。それなのに、何で・・?」
「さあ・・私が説明したら、何も言わなかったから・・本当に言い方次第だと思いますけどね。あ、私、別な仕事があるんで、後の整理は進めて下さいね。」
そういうと、美玲は山形工場関係の書類を絢子に手渡し、スタスタと去っていった。
その後、美玲はその年の人事異動で総務部に残り、ついに花形であるメディア部門に異動となった。
一方で絢子は現場指導が主な仕事の営業推進部に異動になり、さらに地方の営業所へと、出世コースから少しずつ外されていった。
会社の命令を遂行しなかったことが悪い、ということは重々分かってはいた。けど、どこか腑に落ちなかった。
組合に関わっている同僚から聞いた話では、美玲が話をまとめた後、山形工場はすぐ閉鎖され、最後まで抵抗した石井は会社を辞め、地元の小さな縫製会社に転職したとのこと。
すべて解決したように見えるものの、果たして、山形工場に勤めていた人たちはみんな納得したのだろうか?幸せなんだろうか?そんな自問自答がずっと絢子の頭の中で続いていた。
盛岡営業所に転勤後、モチベーションが落ちてしまった絢子は、ほとんど仕事には手が付かなくなってしまった。
アパートから職場に行く足も、日を追うごとに重くなってきてしまった。
季節が冬になり、雪が降り積もり晴れる日も少なくなると、絢子は仕事に行く気持ちが失せて、一人アパートで何もすることもなく過ごすようになった。
そして、春を迎えた時、絢子は久しぶりに職場に姿を現した。
片手には、「退職願」と書いた文書を握りしめて・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~絢子さん、絢子さん、大丈夫っすか?もう、晩御飯っすよ。食べましょうよ!」
栄一が耳もとで叫ぶ声が聞こえた。
「う~ん・・私、寝ちゃった?」
「まあ・・昼間帰ってきてから、ずっと寝てましたかね。」
「やだ!もう真っ暗じゃん。なんで早く起こさなかったのよ。」
絢子は、窓の外がすでに夜の闇に包まれているのを見て、驚いてしまった。
「それより、今、町中大騒ぎッスよ。あの人気モデルがこの街に来てるンすよ。多田麻里奈って知ってます?あ、美容業界にいたから、知ってますよね、絢子さんなら。」
「・・・あ、そ、そうなんだ。今日はこの街に泊まるんだね?」
「たぶんそうだと思います、街で一番の旅館に泊まってるってウワサもあります・・っていうか、絢子さん、もう知ってるんスか?多田麻里奈が来てるの。」
「まあ、さっきブラブラ街を歩いてたら、そんな感じの人が居たから・・。」
「たぶん前の会社でお付き合いあったんでしょ?サイン貰ってきてくださいよ、サ・イ・ン。」
「ば、バカ言うんじゃないわよ!私はもう美容業界の人間じゃないんだから。サイン欲しけりゃ自分で声掛けたら?」
そういうと、絢子は布団を飛び出し、頭を掻きむしりながら部屋を飛び出した。
「あ、絢子さん・・ちょっとお。本当はお知り合いなんスよね。サイン貰ってきてくださいよ~・・俺、超ファンなんスよお。こんなガタイいいオヤジが直接サイン欲しいって言っても、怪しまれて断られるじゃないッスかあ。」
栄一は泣きすがるように絢子を追いかけたが、絢子はそれを振り切り、ベランダに出て、ポケットからたばこを取り出し、火をつけた。
外には、珍しく沢山の人達が沢山出歩いている。そして、口々に話すのは、多田麻里奈の話ばかり。
絢子は、ベランダでたばこをふかしながら、欄干に腕を押し当て、そこに顔をうずめた。
もう思い出したくもない、あの頃のこと・・
そして、二度と逢いたくないあの女・・・
心の中で、多田麻里奈の撮影一行が早くこの街を去ってくれることを、ただひたすら祈っていた。
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