第12話 蝉しぐれ

―五年前―

*林田 鈴

 その日も、早朝から、今日も暑くなるだろう。と解るほど、暑かった。


 林田 すずは5:30に家を出た。もうすっかり日は出ていて、暑かった。高校時代に使っていた自転車は県外大学と一緒に連れて行ったので、バイト先の駅前のコンビニまで歩かなくてはいけなくなったが、この通勤の十分は好きだった。

 少しだけ涼しい風が吹いてきて、少しだけTシャツを揺らす。

 もうすっかり明るいのに、誰かに会うなどめったになくて、たまにウォーキングをしている夫婦に会うくらいだ。

 今週はすべて遅出だったが、主婦パートが夏休み中の子供の自由研究の宿題を手伝いたいというので、交代した。夏休みだけの短期アルバイトなので、入れるぎりぎりまで入ってお金を稼ぎたかった鈴にとってはありがたい申し出だった。

 県道を渡り、線路わきの道を歩く。駅前に従って細くなるこの道に車などほとんど来ない。たまに来ても、この先がどれほど細く、そして変な道か知っているので最徐行してくる。決して、あんなスピードでやってはこない―。


*相田 良平

 昼間のスーパーのバイトを終えてから徹夜の工事現場の旗振りを終えた。

 さすがに疲れたので、帰るのが億劫だった。

 相田 良平は体を引きずるようにして車に乗り込んだ。乗り込んですぐの窓を叩かれた。

「気をつけないと、事故するぞ」

 現場で仲良くなった現場監督に首をすくめ、気合を入れ、エンジンをかけた。

 朝5:00のこの番組を頭から聞いたのは初めてだった。このアナウンサーは須藤さんと言うのか、いつも優しくて、透き通った声をしている。

 ウィンカーをつける。この奥は駅前の通じていて細くなる。その手前には変則に曲がった道があり、知った人間でなければあまり入りたいと思わない道だ。

「5時40分を少し回ったところですね。今日も暑くなりそうですが、天気はどうでしょうか?」

 という声に、いつもならこの時間に現場を出るので、今日はずいぶんと早い。と思いながら、あの細く変則な道に入る。うまくハンドルを切れないと、壁にこすれる。何とかそこを通り過ぎ、自宅近くの駐車場に停める。

「5時55分です、ここで全国のニュース、」

 エンジンを切る。母親はまだ寝ているので静かに家に入る。そのまま静かに、静かにベッドにうつ伏せになり、そのまま眠っていた。


*佐藤 由子

(あー、イライラする。金がない。金がない)

 佐藤 由子ゆいこは親指の爪を噛んでいた。子供のころから一度も治らない癖だ。だから、由子の親指の爪はいつもボロボロだった。

 大人が爪を噛むのはストレスが原因だと言われている。由子の場合は、三日前に見つかったことだった。

 派遣の家政婦だが、どこの家でも金を盗んだり―すぐに金をどこかに落として、ここにあるじゃないか! と知らん顔をしてきたけれど―、そこの雇い主とけんかをしては辞めさせられる家政婦で、今度同じようなことがあれば、クビだと言われていた。それが、市議会議員の粟田 桜子の家の掃除を、三人で任された。その時は人手不足で、由子のような家政婦でもいないと仕方なかったのだ。

 他の二人はまじめに掃除をしていたが、由子は隠している金を探す方が忙しかった。

 三日前、やっと、リビングに隠している金を見つけた。

 由子の経験上、金を持っているものは、寝室に一割、書斎に一割、トイレ、ふろ、箪笥に一割と画している。そしてほとんどが、金に無関係そうな場所で、その筆頭が台所だったが、そもそも料理をしない粟田 桜子はそんな場所に隠さなかった。

 リビングの、大きな伊万里の花瓶。の横にある小さな小さなでも見栄えのいいバラをあしらったガラスでできた時計の後ろに背景の黒に隠れて黒い風呂敷に包んである金を見つけた。

(どうせ、税金逃れの金だろうから、盗まれたとは言えまい)

 とそれを手にして、掃除道具入れに入れたところを、この家の一人息子に見つかった。

 いやな男だった。最初から人を馬鹿にしてじゃないと生きていけないようなアホ面していて、いつも命令口調だった。

 だけど、今はそれに文句を言っていられない。どうにかしないと、刑務所行きだ。


 携帯電話が鳴った。相手は粟田 和樹だった。

「そこなら、ええ、解りますよ。変な道でしょ?」

 そういって、呼び出された。

 由子の家は当時、県道よりも北西にあった。自転車で向かうと、女の子が倒れていた。

「救急車、」

 と言ったが、粟田はそれを止めさせ、

「お前、金が要るだろう? 家もほしくないか? 何なら、スナックを開かないか?」

 と言った。

 目の前のつぶれた居酒屋があった。たぶん、二階は住居なのだろう。

「これ、俺の家の物件だから、お前、あそこの階段から音がして、誰かが逃げていったと言え、

 粟田の言葉に眉をひそめた。

「お前が盗んだこと黙っておいてやる。この家のリフォーム代、名義変更などは俺がしてやる。それから、5百万出す。お前がくすねようとしていた金だ。

 今ここでお前は聞いたから、お前がいくら警察へ行っても、お前は窃盗と、殺人隠蔽罪で捕まるからな」

 粟田の言葉にそういうことに疎い由子は唾をのみ、だが、物欲が強いので、金が手に入り、そして、念願のスナックが開けて、そして当面の生活費が手に入る。一石二鳥、いや、三鳥でも、四鳥でもおいしい話だ。と交渉してしまった。

 由子は誰も見ていない。粟田の車以外の特徴を説明するよりも、もっといい方法を思いついた。

 あたしが毎日通い、毎日話しかけ、毎日何かしらのものを差し入れしているのに振り向かない男。相田 良平を犯人にでっち上げよう。まぁ、少し事情聴取を受けるだろうが、やっていないのだからすぐに釈放されるだろう。そこで警察署の前で待ち、無実を信じていたわ。と言えば、彼は振り向くだろう。

 由子は、携帯電話を取り出した。

「はい、こちら110番です。事故ですか? 事件ですか?」


*粟田 和樹

「まったく、人を馬鹿にしやがって」

 市議会議員をしている母親が、遊びまわっては無駄金を使ったり、素行品性の悪い息子を嘆き金の融資をしないと言ってきた。おかげで恥をかいた。

 取り巻きを引き連れて行った先でカードが使えなかったのだ。

 激怒して店のものを壊し、店の者からの電話で、母親の事務所が金を支払った。

 だが、そのしりぬぐいに来た秘書のあの蔑んだ目。馬鹿にしたような取り巻き連中。

(むしゃくしゃする)

 缶チューハイを取ろうとして、手が滑ったので、助手席の床まで手を伸ばす。

 体を突き抜けるような衝撃が―。





 救急車の音

 パトカーの音

 蝉の声


 泣き叫ぶ女の人の声


 線香の匂い


「今日、午前十時ごろ、ひき逃げの容疑で任意同行されていた相田 良平容疑者が、取り調べ中、持病の発作により呼吸停止、その後死亡が確認されました」


 線香の匂い

 蝉の声


 女の泣き叫ぶ声




―現在―

*林田 冬美

 すごいクレーマーが居るという噂を聞いた。何でもかんでも文句を言うのだそうだ。それだけ元気ならば、よかったじゃないか。

 林田 冬美はため息をついた。あれから五年が過ぎた。

 食べているのかどうか解らない食事をとり、何とか生きているけれど、本当はどうでもいいのだ。

 結婚してそうそうに夫は愛人のもとへと行った。できちゃった婚だった冬美のお腹の中には鈴が居た。そもそもその行為も、冬美を酔わせた挙句襲った結果だが、夫の両親が世間体を考え結婚したのだ。そもそも愛情はない。

 だが、鈴には目いっぱいの愛情を注いだ。片親だからということにくじけないいい子に育ったのに、ある日命を奪われた。

 相田 良平。勝手に鈴を殺し、勝手に死んだ男。その男の母親が、また3日にやってくる。毎月やってきては、良平は無実ですと訴える。冗談じゃない。警察に連れて行かれたのは、お前の息子だけだ。と何度も言ったが、あの母親は毎月やってくる。

 はぁ、今日もまた死ねなかった。死んでいなかった。いや、実は死んでいるが、鈴に会えないだけじゃないのだろうか?

「触んなー。いいかぁ? お前ら、あたしは、どんなことだってできるんだぞ。警察に信頼されてるんだ。以前、無実の男をひき逃げ犯として死刑にしてやったぞ」

 電気が走った。クレーマーはすごく詳しく話すことはなく、ただただ、五年前、えん罪で容疑者は死刑だ。を連呼していた。

 冬美は手を力いっぱい握っていた。自分の爪で掌が切れてもまだ握っていたし、クレーマーもまた叫んでいた。だから、思わずその手でクレーマーの口をふさぎ、

「うるさい、ババア」

 と言っていた。自分にそんなことができる力も、勇気も、ましてやそんなことを口走れるなど思ってもみなかった。

 たぶん、クレーマーの口に、冬美の手の中の血が流れたのかもしれない。鉄さびた味にクレーマーは黙り、逃げて行った。そしてそれを追いかけるように、やじ馬が言った。

「やっといなくなった。佐藤のババア。あぁ、あなたありがとうね、助かったわ」

 と言われた。

 冬美の中にごろっと音を立てて何かが動いた。石でできたパズルのピースだ。それは重く、動かしたくないのだけど、勝手に動く。そして、

 == が結びついてしまった。

 ああ、今まで憎み、その母親にさえ憎んできたことが、崩れていくのは嫌だ。犯人が見つかるまで、また苦痛を強いられるのは嫌だ。もう、いやだ。


*相田 元子

 毎月、林田 鈴さんの命日に、林田さんを訪ねる。息子は無実なんですと。警察にも行き、どうか捜査を。と頼む。あと何回すれば、良平は無実で帰ってくるのだろう?

 いつもと同じく林田さんの勤めているスーパーの社員入り口で待つ。彼女はこの五年シフトを変えていない。私に罵倒を浴びせることで生きながらえているような人だ。でもいつかそれが間違っていたと言ってもらえる日が来るよう、元子は林田のもとを訪ねる。

「もう、いい加減にして」

 いつになくイライラしていて、いつもの林田ではなかった。強く元子を睨むと、「目撃者が偽証していたそうよ。聞いてくれば? 事故現場の目の前のスナックにいるわ」


 それから、二人で佐藤の元へ行った。佐藤に詰め寄るのはもっぱら元子だった。その必死さに冬美は臆していた。

 佐藤は最初知らないと言い、解らない。忘れた。昔のことだと、毎日毎日来る二人にストレスを抱えるようになった。


「なぜ? なぜ、相田さんに佐藤が偽証していたのを教えたか? 解らない。ただ、もうその時はひどくしんどくて、もう、何もかも終わってほしかった。わずらわしいことから抜け出したかった。その日の夜、服毒自殺をしようと、痛み止めとか、胃薬とか、たくさん買ったけど、どれも、ふたまで開けて、それを飲む気にはなれなかった。

 相田さんはそれ以来来なくなって、そしたら、電話がかかってきて、店の電話です。呼び出されて事務所へ行ったら、

「あの女、偽証を自白したわ。携帯に録音したし、それと、犯人も解ったのよ。今からそっちへ行くから」

 と言って、電話は切れ、来なかった。……死んだなんて知らなかった。

 人に行くからと言いながら来ないなんて無責任な。と思ったけれど、あの人、心臓が弱っていたから、体調不良なのかも。という気もあって、

 でも、やっぱり、裏切られたというか、殺人者の親はうそつきなんだ。とか思うようになっていたら、佐藤が、店に来て、私を見て逃げ出して、その時に、ああ、この人は偽証して、犯人を知っている。と解ったら、もう、血が上って、逃げようと自転車に乗るのを、引きずり落として聞こうとしたけど、力がなくて、代わりに腕を持っていかれて、腱鞘炎で。

 力で勝てないのなら、警察に言おう。でも証拠がない。相田さんは犯人が解ったといったけれど、誰とは言わなかった。警察が動く方法を考えていたら、ドラマで、殺人予告が届いて、警察が、逆探知気なんかを用意しているのを見て、殺人予告を送ろうと思った。

 三人に送ったのは、そのうちの一人でも警察に行けばいいと思った。

 三人を選んだのは偶然「由子」だったから。もし、あの日、沢口 由子ゆうこが母の日のプレゼントをうちで注文せず、その受付を私が担当しなければ、殺人予告は出さなかった。

 出したところで、佐藤の性格上破り捨てると解っていたから。何も怖がるでもなく、気にもしないと解っていたから。

 佐藤さんには申し訳なかったけれど、解決したら謝りに行けるし、大学の先生にも謝りに行ける。どこの誰かに出して怖い思いをさせるわけじゃないから。と思った。


*粟田 和樹

 あの女からの電話に出たのがそもそもの間違いだったのだ。今まで無視していたのに、母親が死んで、その遺産で立ち上げた投資ファンドが、詐欺だとばれて、どうしようと思っていた時で、仲間と電話のやり取りをしていた癖でつい出てしまった。

 佐藤は相変わらずブスな要件を、汚い声で話したが、結局言いたいことは、五年前のことを知っている奴が脅してきたから、逃げる資金を寄越せという。

 一応、佐藤が後々金を要求してこないように、経営状態を見ていたが、店を開けて一か月は物珍しさに客が居たが、二か月目にはもう客はいなかった。そう言う状態を知っているから、殺人予告なんてものを信じなかった。

 だけど、佐藤は執拗に恐怖を訴えてきた。あの女のずぶとさを知らなければ騙されただろう。だが、粟田はあの女のずぶとさを知っている。だから、無視し続けた。


 警察が捕まえに来るかもしれない―。仲間がそう言って逮捕された。一応任意同行らしいが、すぐに自分も捕まるだろう。手を打たなければいけない。

 そんな時に、あのひどい声からの電話を受け取ってしまったのだ―。それは、粟田にとっての不幸であり、佐藤にとっても不幸でもあった。 


 昼間は買い物ができない。警察に見張られているからだ。夜に紛れてなら、コンビニに買い物に行ける―だが、犯人が隠れやすい闇は、刑事にとっても身をひそめやすいものなのだが―。

 実家を売却して買ったマンションから出ると、教えてもいないのに佐藤が立っていた。佐藤を振り切るようにしながら歩いた。だが、佐藤はどこまでもついてきた。

 結局どのあたりまで来ていたのか、公園のような、変な空間にいた。

 公営の団地があるようだが、こちらに面している側はすべて玄関のようで薄暗く、人気がない。

 そばを走っている県道にも車もない。

 それもそのはず。夜中の三時近い。こんな時間に公園にいる奴なんてろくでもない。その公園に粟田は佐藤と対峙した。

 五年間から比べると無駄に太り締まりの無くなった佐藤に嫌悪しかない。卑屈そうな顔に、ひどい声だ。

「殺人予告が来てるんだって、ほら。だから、金をちょうだいよ」

 佐藤が見せる紙をひったくればただのチラシ広告で、そんな文字一つも書かれていない。酒の匂いがしている佐藤を無視して歩き去ろうとする。

「いいよ、あそこにあるの、交番だね、あそこへ行って、ぶちまけてやる。あたしはさぁ。金がないんだ。刑務所入ってりゃ飯にありつけるしね。怖かねぇよ」

 佐藤が踵を返して交番に向いて歩いていくので、思わず手が出た。


 あの女が悪いんだ。振り返ったから―。

 あの女が金の無心に来なければ、俺は殺さなかったんだー。


 あの女さえ、そこに居なければ―。



*林田 冬美

 呆然とした顔をしてたまま警察署の取調室の椅子にいた。

 外は真夏で、ひどい汗を流しながら警察署に連れて来られ、冷房が効いているとはいえ、先ほどまでまだ暑かった。

 なのに、今、相田さんが亡くなっていたことを聞いた途端寒気を感じた。

 それと同様に、佐藤 由子が偽証し、犯人は、粟田 和樹という投資詐欺を働いていた男だとも知らされた。

「確かに、あなたが送った殺人予告によって、事件の解決が早かったのはある。だが、無関係の、いくら大学生だからと言っても、まだ19歳の、地方出身者で、心細い未成年に送りつけ、恐怖を与えていいかと言われたら、俺は感心せん。

 あんたの娘さんと同じ年の子じゃないか。娘にできないことをよその子にするのは人の親としてしちゃいけないよ。

 沢田さんは、あんたのことをこっちでの母親のような人と慕い、あなたのいるレジに並び、声をかけてもらうことを喜びに感じていた。それを裏切ったんだ」

 冬美は「たぶん、1年の懲役か、罰金で済むだろう」という言葉に項垂れた。

「それから」と、出て行こうとした立川が「沢口さん、田舎に帰ってしまうそうだ。大学を中退するそうだ」と言った。

 冬美は顔を上げた。

「私の、所為、です、ね?」

 の問いに立川は答えなかった。


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