第3話 8月6日金曜日

 暑すぎる。とため息交じりにかばんを机に置き、冷房を入れる。いつもならば、先に来ている助手の小林君の仕事だが、8月2日から発掘実習の手伝いに出かけていて、帰ってくるのは今日の夕方になるだろう。だから、冷房のスイッチを入れるのも、コーヒーを入れるのも、自分でしなければいけない。

 どうしても、コーヒーメーカーの使い方が解らない一華のために、冷蔵庫にボトルコーヒーを入れて行ってくれたが、最後、コップ一杯分しかなかった。

「まいったなぁ」

 一華はそういいながら、コップのコーヒーを飲む。すっきりとした苦みと冷たさが体に浸透していくようだ。

「さて、今日は?」

 予定板のほうを見る。夏休みなので補習以外部屋を出ることはない。ただ、論文未提出者がまだいて、やはり、テラスでの編み物待ちの一日になりそうだ。

 中庭の、食堂前のテラスは、11時から2時までは日が当たってくるが、他は南舎の影になっている。とはいえ、夏なのでそんなもの大した涼しさではない。日よけのパラソルが役に立たなくなると、部屋に上がってくる。ただそれだけだ。

 編み物を移動用のカバンに入れる。夏だから、レースを編んでいる。別にこれが何かになることはないだろう。ただ、編んでいる。出来上がったものは気に入った生徒がよく持っていく。部屋にも、一応テーブルセンターや、本棚の中に置いている一華が好きな「天河零滴茶碗あまのがわこぼれるしずくちゃわん」のレプリカなどが置かれている棚板に敷かれたりしている。たぶん、助手の小林君が敷いたのだろう。

 仰々しい展示だと思うが、それにしてもやはり、この「天河零滴茶碗」は見事だ。骨董茶わんなどには興味はないが、これが出たときには身震いがした。黒土で作られていて、外側には大小さまざまな穴のへこみがあり、それが天の川のようだと言い、そこの星がこぼれてできたのだという。だが、本当のところを言えば、これは失敗作だという。釉薬うわぐすりの調合ミスでできるらしいが、とにかくこれほど黒く、ぼこぼこしている茶碗を作る気はなかったようだ。だが、これが窯から出てきたところを、当時の統治者が気に入り名付けたという文献は以前からあった。だが、物がないのですっかり壊れてしまっているだろうと思っていたら、出てきたのだ。

 一華が准教授となって二度目の発掘の秋だった―。


 戸が叩かれて勢い良く戸が開き、ゼミの生徒である清水 卓人たくとが入ってきた。

「おばちゃん」

 自分から、「先生と呼ばれるほど偉くはないから、オバちゃんと呼んでいい」とは言ったが、最近多少そう呼ばれることにイラッとする。特に男子生徒がそう呼ぶと、明らかに馬鹿にした印象を受ける。(いかん、いかん、怒ってもしようがない)

「おはよう」

 清水を落ち着かせるために一華はいつも以上に暢気に言った。

「あ、……おはようございます。えっと……助けてください」

 清水が前屈した。お辞儀とは言わない。これはもう、二つ折りほどの頭の下げ方だ。

「なんだ、朝早くから」

 一華は嫌そうに言ってコーヒーをもってミーティング用の椅子に座り、清水も座らせた。

「何を助けろと? お前は確か、……論文もそこそこよかったし、これから全く授業にも出ず、論文も出さず、テストも受けないなどという暴挙に出なければ、進級するだろう?」

「マジで? あぁ、やっぱり、一応は受けなきゃダメかぁ。あははは、あぁ、当たり前っすね。

 いや、そうじゃなくて、そんなことじゃなくて、助けてください」

 清水は再び前屈した。

「とりあえず解るように説明しろ、何が何だかさっぱり解らん。何を、何から守るんだよ?」

「沢口 由子ゆうこを警察からです」

「はぁ?」

 一華は首を傾げた。聞き覚えがあったが―どこでだろう?

「由子が、オバちゃん先生に、困ったことがあったら相談しに来いって言ってもらったって。栄養学部の、おとなしい感じの子です。無事だったんです。でも、昨日、警察が来て、今日も帰ってなくて、おかしくないですか?」

 一華が片手をあげて制する。

「解らん。思い出せん。栄養学部の子になぜ私が困ったことがあればなどいう?」

「……外部記憶小林さんは? あぁ、校外実習ですか……、えっと、あれですよ、手紙、殺人の手紙です」

「殺人の手紙? ……あ、あぁ。殺人予告の、あぁ、沢口さん。はいはい。思い出した。それで?」

「警察に連れていかれたんですよ」

「なんで?」

「殺人があったから。由子が、第一容疑者だって」

「はい?」

 一華の声が裏返る。

 電話が鳴る。眉をしかめたままで一華が電話を取る。

「三上先生? 珍しい、なんでしょ? はい? あぁ、……解りました」

 電話を置く。

「理事長が、その話しで私を呼んだから詳しく聞いてくる。そのあとで、お前からも聞く。少し頭を冷やして、ちゃんとした説明ができるように整理していろ。

 あぁ、あと、すぐにコーヒー飲めるようにセットしといてくれ。どうにもあれの使い方が解らん」

 一華はそういって外に出た。

 清水は一華に言われ、机に置いてある「雑記メモ用」と書いた箱から、広告の裏面が白い紙を取り出して、沢口から聞いた話を順序だてて書いた。


 理事長室に入ると不機嫌そうないつもの顔の理事長と、狐顔の三上がいた。

「あなたのところに相談に行った沢口さんが重要参考人として警察に連行されました。事情を知ってますか?」

「いいえ。初めて聞きました。なぜ、彼女が重要参考人になるんでしょう? 手紙は理事長先生ももらっておいででは?」

「手紙だけのことじゃないようです。何でも、殺害が行われていたであろう時、近くに居たであろう人が沢口さんだけだったんです」

「……はい?」

「ワタクシもよく解りません。でも、どうせあなたのことでしょうから警察にならって調べているでしょ? この事件は大学に関わってくるかしら?」

 一華は首を傾げ、嫌そうに三上を見た。つまり―また新聞に取りざたされると入学希望者が減るのが困る―と言うことだろう。

「私は、警察でも探偵でも、素人探偵でもないので何もしていませんよ」

「でも沢口さんは相談に行ったでしょ?」

「立川刑事と青田刑事に連れられて話を聞きに来た……というか、あれは理事長が私の仕業だと言ったから、証言を取るために連れてきた。といったほうがいいですかね?」

 一華の言葉に理事長は顔を背ける。

「とりあえず、金田先生、警察が何か言ってきたり、大学に何かあっては困るので、対応をしてくださいね」

「対応をしてくれって、それは三上統括主任の仕事では?」

「警察の対応はあなたのほうが上手でしょう?」

 三上の言い方に一華はむっとしながら、

「と言いますがね、私は考古学者で、」

「今年、金田先生は大学留守番でしょ?」

「ええ、留守番です」

「では、対応も、大学の教員としての義務です。お願いしますね」

 理事長の言葉に一華は嫌な顔をしたが、

「では聞きますが、沢口さんは、」

「詳しいことは解りません」

 理事長はその後を三上に引き継ぐように顎をしゃくった。

「警察から、沢口 由子がこの大学の学生かどうかの照会が来たんですよ。重要事件の重要参考人として連行している。任意だとは言っていました。

 事件? なんでも、殺された時刻、そのすぐそばで目撃されたそうですよ」

「殺人? 刺殺ですか? 鈍器による頭部損傷?」

「そこまでは」

「……解りました。ほかに、警察から聞いてませんか?」

「他とは?」

「時間とか……えぇいいです。どうせ聞いても教えてはくれないでしょうから」

「大学には?」理事長が不安げに聞いてきた。

「さぁ。今の段階で問題なしとは言えないでしょう? 早期解決を願うしかないと思いますよ。では、……ここに居てもどうしようもないでしょ? お互い気まずいだけでしょうから、失礼しました」

 一華は理事長室から出た。


 一華が個室Z16号に戻ると、清水が部屋の中を徘徊していた。

「鬱陶しいなぁ」

「遅いっすよ。由子が、由子が、」

「えぇい煩い。それで、お前の方はなにを知ってる?」

「何っていうか、変な手紙もらってたって聞いたのが2日で、4日の日バイトだから送ってほしいって言われて、帰りは日付が変わるから大丈夫だろうって言ったけど、迎えに行くって言ったんだけど、夏休みに入ったから、忙しいからいつ終わるか解らないって言われて、」

「バイトって何のバイト?」

「居酒屋です。黒天商店街のところにある店です」

 ドアがノックされ、

「いますか?」

 と声をかけて拓郎が顔をのぞかせた。

「居た居た、えーっと」と鼻を掻きながら拓郎が入ってくる。

「三上先生から何かを?」

「ええ、この前の話を、」

「じゃぁ、一緒にどうぞ」

 拓郎が清水を見る。

「うちのゼミの清水です。何故だか彼が、沢口さんが任意同行されたことを伝えに来て助けを求めに来ているんです。その話を聞き始めたところです」

「なるほど」

「最初も最初ですけどね。彼女はやはり怖くなって4日の日のバイトへ送ってくれと言ってきたそうです。居酒屋だそうです」と一華が短く説明した。

「帰りは?」と拓郎

「日付が変わるから大丈夫だって。そんなこと言うからなんだって聞いたら、その変な手紙が来ているって話だして、俺、全然知らなくて、」と清水

「ほとんどの生徒は知らない話だが?」

「彼氏ですよ、俺」

 一華は眉を少し動かした。

「まったく知らなくて、なんかここ最近会っててもつまらなそうというか変だとは思ってたけど、俺も明日から発掘実習で長野へ行くからそれで寂しがってるんだって思ってて、」

「寂しいと言ってた?」

「いやー。でも、彼氏と会えなかったら寂しいでしょ? 普通」

 一華は首を傾げる。

「だから、何時になっても迎えに行くから、終わったら連絡しろって。でも連絡来なくて、朝になって、無事だったってほっとした声で話すから、よかった。ってその日、映画見て、そしたら、夜になって、警察が連れて行って、」

「夜? 一緒に居たの?」

 清水は頷き、

「この前来た刑事がいたんで、オバちゃんに助けてもらおうと思って大学に電話したら、もう帰ったって、家の連絡先なんか教えるわけないだろうって言われて、それで、朝来て、」

 清水はだんだん泣き声に近くなっていった。いろいろとツッコミどころはあったが、一華は咳ばらいをし、

「彼女から手紙を受け取った日のことから聞いた?」

「あぁ、それはオバちゃんたちに話したって言ってた。

 10日にポストに入ってて、切手も差出人もないけど、怪しいと思ったけど、ちょっと、ラブレターかと思ったって。中見てすぐに捨てようとしたんだけど、もしかしたら、名前間違いかもしれないと思って、アパートの管理会社に聞いてみたけど、同姓同名は居ないって言われたって。

 気にしないように、捨てるようにと思っていても、捨てられないし、気になって仕方なくて、それで、ゼミの講師に相談したら迷惑がられて、そこで、三上先生に相談したら、理事長室に連れて行かれて、警察に会わされて、その後で、オバちゃんに会ったって。困ったことがあったら言いに来いって言われたと言ってた。それでだいぶ安心したけど、やっぱり、4日は怖いから付き合ってくれって」

「で、バイトへ送った。別に問題は無く?」

「まったく。誰かに声を掛けられることも、逆に変に意識して周りから変な目で見られたぐらい。まったく何もなくて、バイト先の人にも話していたようだから、そっちは任せろって言われて、とにかく終わったら電話しろって、でも結局かかってこなくて、朝になって、」

 一華が手を上げて止めた。

「やっぱり、手紙の日付けやらに心当たりはないと?」

 清水は頷く。

「そう……」

「何とかしてくれるよね?」

「と言われても、私は一般人だからね」

「でも、警察と仲いいじゃん。あ、やべぇ、サークルの時間だ。じゃぁ、あと頼んだからね」

 清水が出ていこうとする。

「明日の実習、遅れるなよ」

「解ってまーす」

 戸が閉まり、二人の教師は顔を見合わせて苦笑いをした。

「あれじゃぁ、彼女は相談したくないでしょうね」

 拓郎は首をすくめ、勝手知ったる給湯室へ行きコーヒーを淹れる。

「たぶんね。そもそも彼氏のくせに心配してないじゃない。びっくりだわ」

「今の子。というんですかね?」

「いやぁ、あいつの、思いが軽いって感じかな。一応彼女が居るという感じがいいんじゃないかな? 俺、彼女もちぃ。みたいな。彼女の方は清水を彼だと思ってるのかしらね?

 まぁ、いいや。

 ところで、三上先生から話を聞いたからと言って、わざわざ来たのは?」

「動くでしょ? こうなったら?」


 先月の26日、殺人予告の手紙が送られてきたという沢口と、立川刑事、青田刑事たちとの面談を終えてから、

「それでどうしますか?」

 と聞いてきた拓郎に、一華は首をすくめ、

「どうしますって、どうもしませんよ」

 といった一華に拓郎は目を丸め、

「本当に?」

「なんですか?」

「一華先生はこういうの好きかと思ってましたが」

「好きとか嫌いで解決できないでしょ? それに、事の大きさですよ」

「殺人事件でしたよ、以前のやつ―※「ユウガオが咲く」を参照ください―は」

「当事者になりましたからね」

「今回も、関わってますよ」

「ですけどね。……警察と同じですよ。取っ掛かりがないじゃないですか? 手紙を受け取った二人が身に覚えがないというのに」

「ですが、ヒントはありますよ、五年前の8月3日です」

「調べてどうするんですか?」

「どうするって、そりゃ、手紙を出した主の意図を知りたいですし、知りたくないですか?」

「そりゃ知りたいですけどね。でもね、結局のところ、本当に、その日に何かなければどうしようもないわけですよ。

 五年前の8月3日を調べます。何を? どの事件を? 二人が関わっているような事件があるようには思えないわけですよ。

 理事長の旅行嫌いは有名です。車で一時間以上走る場所へ行くことすら嫌悪する人です。その人と、T県に住んでいた中学生の女子のどこに接点があると思いますか?

 例えば、沢口さんが旅行か何かでこの辺りに来ていたというのならば、偶然会えたでしょうが、無理でしょ? 彼女は吹奏楽の練習をしていたと覚えていたわけですから。

 そうなると、五年前のどの事件の何に関わっているか。漠然としてませんか? 万引き? ひき逃げ? 殺人? 収賄、恐喝、恫喝、置き引きなどなどなどなど、どれですか? 解らないじゃないですか?

 本人たちが、一度でも何かあったかもしれないという顔をしたならば調べる価値はあるでしょう。その時は理事長の名前だけを頼ればいい、未成年が名前を出すことはないでしょうからね。

 いい事件なら別ですが、真相を話せと命を狙われている以上、悪い事件であるわけだから、当時中学生だった沢口さんの名前は出ていないでしょう。

 でも、あの二人は一貫として身に覚えがないという。五年も経てば忘れる? 手紙を出した主同様、当事者は五年経っても忘れませんよ。よほどの「馬鹿」でない限りは、」

「馬鹿って、」

という意味での馬鹿です。という意味です。

 そういう奴なら、五年経てば忘れているでしょう。

 でも、普通の、一般的な了見を持っている人ならば、覚えているでしょう。もし忘れていた。あるいは忘れようと努力して忘れたとしても、この手紙で思い出すでしょう。

 だけど、あの二人はまるで覚えていない。どころか解らないんですよ? そのどれを結びつけますか?」

「確かに、」

「だから、警察の言うとおり、その日に気を使うことと、何かあればすぐに連絡する様に言うことしかないんですよ」

 拓郎は納得した。


 そして8月4日を終え何事も起こらないので、一安心していたところで、今日6日、沢口が任意同行されたということだ。

「だからって、」

 一華がコーヒーを口に含んでから、

「だからって、五年前のどの事件だかまだ解ってませんよ。殺人に関しても、ただの痴話げんかや、酔っ払いの喧嘩かもしれない。

 彼女と結びつけることなどできないわけですよ」

「なるほど……。確かにそうだ。青田さんに電話してみましょうか?」

「警察が、事件が起こってすぐにしゃべるとは思えませんよ」

 一華の言ったとおり、青田の携帯電話は呼び出しこそすれ、通話には至らなかった。 

 

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