邪推に仕組まれた毒は燃えて、悪巧みの的を射損じる。 2

邪推にはもともと毒がひそんでいる、そいつが始めは嫌な味がしない。しかし、ちょっとでも血の中に染み込むと、たちまち硫黄の山のごとくに燃え上がるのだ。

                     ――シェイクスピア『オセロー』



 誰かの幸せが、別の誰かにとっての不幸になる。そんなことを、つくづく身に染みて感じる。

 妖精パーマーになるかどうかは、金城甲かねきこうと決着をつけてから考えるらしい。雪花ゆきかは青いアイドル衣装を身にまとって、洗面所の鏡の前で気合を入れている。

 正直なところ、行かせたくなかった。このまま甘宮桜花あまみやおうかのことさえ諦めてくれれば、華はこれからも雪花と一緒にいられるから。

 だけどそれは、絶対に叶わない。雪花は決して、華のことを好きになってくれないから。華は、甘宮桜花になれないから。

 雪花の髪についた、紫のヘアピンを見る。前に華が謝りたくて買ったもので、今はこれが華にとっての唯一の誇りだった。この先、たとえどんな結果になっても、このヘアピンだけは雪花と華が一緒にいた証になる。たったこれだけでも、嬉しかった。

 鏡越しに、目が合う。目を逸らすと、こちらを追うように振り向いてくる。

「ごめんね」

「……な、なにが」

「さっき、ひどいこと言っちゃったから。こっちだってどう思うか分かるはずなのに、華の気持ちを踏みにじるような真似しちゃったから」

「気にしてないよ。それに、雪花が幸せになってくれさえすれば、華はそれで構わないんだから……」

 裏腹な嘘をついた。そう思わないと、強く引き止めてしまいそうだからだ。もしそんなことをしたら、本当に雪花に嫌われてしまう。

 初恋は綺麗に終わらせたい。だから、いまはただ雪花に従い続ける。

 雪花は華の顔をじっと見て、一歩あゆみ寄って肩を抱き、そのまま顔を近づける。慣れた手つきで、慣れた動作で、慣れた口づけを唇にする。

 舌を吸い付かせるようにして、雪花の中の唾液が華の口に流し込まれる。口端から唾液が漏れることもいとわず、閉じた扉に華の背を押し付けてそれを続ける。

 そういうところが最低だと思った。好きでもない相手に、平気でそういうことができることが。だけど、華はそれを拒めないし、拒むこともない。

 そんな華でも、好きなことには変わらなかったから。

 唇が離れて、少し距離が置かれる。だけど肩に回した腕は、一向に離れることがない。

 どろどろに混ざった唾液を口に含んだまま戸惑っていると、雪花は笑って言う。

「わたしが願いを叶えられるように見守っていてって、そういった前払い。ほら、全部飲んで」

 言われるままに、口の中の唾液をすべて飲み込んだ。雪花の味がする。雪花の味が、舌に粘っこく喉を通る。なにひとつ、抵抗はなかった。

 雪花が右手を上げて、華の頭を優しく撫でてくれる。

「よくできました。じゃあ、もうひとつおまけしちゃう」

 右手が右肩ではなく肘へと滑り下りる。雪花の唇が、空いた首筋へと近づいて吸い付いていく。そのあいだ、唇と鼻息のくすぐったさが首筋から全身へと突き抜けた。

 唇が離れて、吸い付いた場所をそっと撫でる。そのまま鏡に向かせられ、なにをしていたのかをその指で示してくれる。

「キスマーク、ってやつ。一度だけ、試したかったんだ。わたしと華との生活は今日で最後だけど、未練を断ち切れるその日まで、それをわたしだと思って大事にして」

 きっと、華のことを思ってこんなことをしたのだろう。だけど、華にとってこれは、殴られたり蹴られたりする時よりも、痛くてひりつく傷だった。

「あれ? ごめん……嫌だった?」

 本気で困ったような顔に向けて、涙をこらえて小さくかぶりを振る。

 こんなことをされても嬉しいと思ってしまうから、この傷はどんな悪意による傷よりもずっと痛かった。

「嬉しいよ……うん、大事にするね……」

 首筋についた小さな唇の跡を、自分の指で撫でる。きっとこの唾液の味も、唇の跡も、吐息のように儚く消えてしまう。それならいっそ、ないほうが良かった。

 なんてことも言えないまま、口端を拭って鏡の前で立ち尽くす。




 後悔なんかしていない。

 たとえ甘宮桜花の恋敵で、華にとってはまるで関係がない人間の首がおかしなくらいに飛んでいたとしても、形成された短剣でそいつの骨や肉が引き裂かれてバラバラになっていたとしても。

 これが雪花の望んだ幸せに繋がるなら、華はそれに従うまでだった。

 首の飛んだそいつにはもう、勝ち目がない。死んだも同然だ。

 よかった。これで雪花が妖精になって殺される可能性は避けられた。それだけが、華の心を落ち着かせた。そのはずだった。

 なのに、先ほどのあの言葉が離れない。

『このまま俺を殺したら、雪花ちゃんは絶対桜花さんに嫌われる。そしたら、雪花ちゃんは壊れるかもしれない!』

 そうかもしれない。実際、雪花は好きな人に拒絶されたら、どうにかなってしまうような子だ。

 華がそんな人間だから。華と雪花はどこか似ているから。

 それでも、止められない。止めてしまったら、雪花の感情を否定してしまうことになるから。雪花はいままで否定するなりに色々なものをくれたし、否定される気持ちが痛いのはよく分かってるから。

 窓の外に目をやる。その絵面が凄惨だからじゃなくて、どうにもできないものから逃げるため。これから待つものが悪い方に運びそうだと、一瞬でも考えてしまったから。

 華の無邪気な声が聞こえる。まるで恋が成就したような、そういう弾んだ声。

「やったよ、華! 案外簡単に願いが叶えられた!」

「早くやりなよ。誰かに見られるかもでしょ」

「うん! さっさと殺してどこかに埋めて、そしたらお姉ちゃんのところに帰るから!」

 帰る場所が華のところではなくなった。それだけで、見えないものが心臓を刺すような感触を覚える。それでも華は、結ばれるその瞬間までずっといる。

 そしてこれから、彼女の恋を見守り続ける。雪花のひとりの親友として。


「華ちゃん、だっけ?」


 背後からいつか聞いたような声が聞こえて、背筋が冷えた。嫌な予感がして振り返ると、そこにはてんとう虫のような円盾を提げた制服姿でポニーテールの女の人。

 甘宮桜花が、そこにいた。

「状況はよくわからないけど、止めさせてもらうよ」

 雪花が短剣を振り上げかけたところで、ぴたりと手を止める。息が詰まって、この世の終わりのように目を見開いていた。

「お姉、ちゃ――」

「レディバグ、遠隔機能リ・モード!」

 盾から放たれる暴力的な音波が、甘宮桜花以外の全ての耳をさいなめた。雪花は短剣を手から滑り落とし、その場にくずおれて間もなく、そいつによって短剣をかすめ取られる。

「どうして……? わたしはただ、お姉ちゃんが好きってだけで――」

「雪花はやってはいけないことをした。人として、やってはいけないことを。だから、こんな遊びはもう終わり」

 雪花のデバイスを操作して「TRANSFER」の投映窓エア・スクリーンを叩き出す。

 あれを知っている。あれは、華が雪花にサボテンの妖精を「譲渡」する時に使ったものだ。というより、呼び出されていきなりなかば強引に奪われたもの。

 デバイス同士を近づけて、完了の合図を示す電子音が鳴る。雪花が強引に手を離して、青ざめた顔でとっさに大鎌を拾おうと手を伸ばす。その前に、飛び上がった甘宮桜花の足によって、大鎌の柄を踏んづけられる。

「雪花の武器以外は全部奪って、もうスコーピオンの大鎌すらも使えない。ほら、早く右腕出して! デバイスを破壊するから!」

「嫌だ! なんで! お姉ちゃん、わたしのことが嫌いなの?」

「好きだよ……私のたったひとりの妹として、いまも愛してる。だからこそ、これ以上雪花に罪を重ねて欲しくないんだよ!」

「いもう、と……」

 雪花が右腕を掴まれて、引き寄せられる。その手首のデバイスに、短剣の切っ先が向かおうとしている。雪花がとっさに助けを求めるような目でこちらを見る。

 衝動のままに走り出した。巨大化したショベルアームを勢いづけてなぎ払い、甘宮桜花の腹部を狙って上に殴りつける。甘宮桜花はその身を弾き飛ばされて宙に舞う。

 雪花を見ると、泣き出しそうな顔でデバイスに指を忙しく動かしていた。投映窓に表示された文字を見てぞくりとする。

臨界機能ELIXCEED!』

 ついにやってしまった。ついに雪花が、妖精に変わる。

 雪花の身体が赤い粒子に包まれて、その身を黒く変貌させていく。粒子が定着して背や腹に甲殻を形成して、しなやかな腕や脚を黒い筋肉質に変貌させる。

 顔ががくんと跳ね上がって、顔が厚い兜に覆われた。ハサミのように変貌した腕で首を掻きむしるようにしながら、綺麗な青いドレスを纏う華奢な身体が甲殻類のようなそれに変わっていく。

 兜の闇の奥が、妖しい紫の光を放つ。それはサソリを彷彿とさせるような、本能的に忌避したくなる醜悪な怪物だった。

「雪花……」

 先ほど投げ飛ばされた甘宮桜花が、地べたに這いずって手を伸ばそうとしている。それから目をそらして、雪花だったサソリの怪物の方を見る。

 怪物は大鎌を拾って、それを肩にかけた。

「よう! 醜い茶番をご苦労さん!」

 本能的に判断を間違えたことに気づいてしまう。

 だけどそれはもう、手遅れで――。

「そういやお前ら、あの男の話を聞いただろう。妖精になって二日くらい生き残れば、人間に戻れて願いまで叶う、だとか」雪花にあった優しさの欠片もなく、怪物が鼻を鳴らす。「あれはまったくの嘘っぱちだ。残念だったな」

 近くにいた華のお腹に膝を蹴り込まれ、仰向けになったところを、紫に変貌した刺々しいヒールで踏みにじられる。深くえぐられるような感触は、華のお腹を強く圧迫していく。

「お前も可哀想なやつだな。人間の『わたし』が好きでもないのに、変に肉体関係なんか持っちゃって、それで本気で惚れてしまうなんてな」

 苦痛の声が強く漏れ出てしまう。心が張り裂けそうなのは、怪物が恐ろしいからでも、ヒールの踵が痛いからでもない。わたしが雪花を殺してしまったからだ。

 デバイスに触れようと左手を伸ばそうとして、踵の圧力が強くなる。それは衣服も肌を貫通して、お腹から内臓の内部に侵入する。

 デコイ体の内臓が踵によってぐちゃぐちゃにかき回され、枯れるほどに声を上げる。

「良かったな! 処女まで卒業できたじゃないか! まあ、相手は人間の『わたし』じゃなくて、わたしだがな!」

 ただ叫ぶことしかできなくて、苦痛で手が床にはじき出される。

 痛みで頭がおかしくなりそうになりながら、ただ傷口から赤い閃光が漏れるのを見ていた。

「華ちゃん!」

「じゃあ、本番といこうか。わたしの本当の目的は、お前だからな。再構築リ・ストラクチャリング!」

 怪物がデバイスに触れて唱える。直後、甘宮桜花と怪物がノイズを発して消滅する。

 赤く光る傷口を右手で押さえて、左手でデバイスを操作する。華のデコイ体が消滅し、元の綺麗な身体に戻る。

 もう傷なんてひとつもないはずだったのに、身体がまったく動かせなかった。

 身体を動かしたいとも思えなかった。



 朦朧とした意識の中、誰かの足音が聞こえる。

 聞き覚えのある、とても偉そうで聞くだけで腹立たしくなるような音。

「情けねえなあ。好きな女の前だったんだろ?」

 低くふてぶてしい声。俺の父親――いや、毒配人ポイズンディーラーだった。

「あいつはもう終わりだな。あの、シスコンの妹は」

 誰のせいだと思ってるんだ。すべて、お前が仕組んだことじゃないか。

 身体も動かせず、声も出せないなかで、不意に足音が止まる。不意に、全身の感覚を取り戻せたような気がした。デバイスが解除されて、元の身体に戻ったのだ。

 忌々しいカラスの面が、目の前に現れる。

「しっかし、なかなかの傑作だ。お前は俺の仕組んだ狂言によって、親友を二度失うどころか、好きになった相手まで失うわけだ。妹のことを助けられなかったお前のことなんて、あいつはさぞ幻滅するだろうなあ。最高だ。お前は最高に悲劇のヒーローだよ」

「どうしてこんなこと、やる必要があるんだよ……お前は、何がしたいんだ」

「強くなってほしいんだよ。生存者サバイバーは悲劇のシナリオを乗り越えて、どこまでも強くなれる。俺はそう、信じているんだ」

「これも、あのお方の預言、帝国軍迎撃に必要なことなのか?」

「なんだ、もう知ってるのか。まあ、そうだな……強力な戦士には、それに見合ったドラマが必要だ。だから俺も、日和ったシナリオなんかできないわけだ」

 デバイスに触れる。操作して、ひとつの投映窓を叩き出す。

 こいつは許せない。なにをしてでも、この命に代えてでも、こいつを殺してやる。こいつの仕組む悲劇のシナリオを終わらせる。

 それが、圭輔けいすけに託されたことならば。

『ELIXCEED』

 赤い粒子が俺を取り囲むとともに、全身が粟立つのが感じられる。身体が形成された装甲と融合して、腕や脚の筋肉がはちきれそうになるのを感じる。全身がだんだんと黒ずんでいき、自分が人間ではなくなっていくような感覚を覚える。

 背筋から電流が走り、頭がびくんとはね上がる。目が飛び出しそうになるほど見開かれている間、頭を兜のようなものが覆っていく。

 面頬が浮き上がり、途端に人間としての意識を失いそうになった。しかし、同時に脳に膨大な電流が身体を走り、こちらの意識がすんでのところで保たれる。

 『俺』は俺に変わる。しかし、『俺』が持っていかれたのは、意識の一部分だけだった。

 毒配人が距離を置いて、手を叩く。

「なんと! お前も妖精になってしまったか! お前には期待していたんだが、まあでも悲劇としては楽しかっ――」

「『俺』はまだ、妖精じゃない! 金城甲という、ひとりの人間だ!」

「……ほう」

 大剣がおのずと形成される。

 脳が常に電気によって刺激されて、いつ自分が壊れてもおかしくないのを悟る。

 それでも誓った。無理やり誓わされた。そしていつか、その誓いを果たさなければいけない日が来る。

 それは、いまだ。桜花さんがこれ以上こいつの悲劇に見舞われないよう、『俺』は命に代えてでも、この男を殺す。

 デバイスに触れて、『俺』は叫んだ。

再構築リ・ストラクチャリング!」

 俺の世界が形成される。それは『俺』の心象をあらわす、再構築空間インナースペースに変化していく。

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