高いビルの屋上で、ガラス細工の夢を見る。 1

 いつからだろう。お姉ちゃんのことを意識するようになったのは。

 元からわたしは人見知りのたちがあって、できる限りお母さんかお姉ちゃんの後ろについて回って生きてきた。あいつはあまり家族のことには興味がなくて、昔から好きになれなかった。

 中学に上がってから、あいつとお母さんの仲が険悪になってきて、なにかあったらすぐ喧嘩ばかりしていた。わたしはついにお母さんのことも怖くなって、その頃からお姉ちゃんの温もりばかりにしがみつくようになった。

 それからひと月くらいして、お母さんは家を出た。わたしたちを置いて、出ていってしまった。それからだ、あいつがお姉ちゃんをいやらしい目で見るようになったのは。

 あいつが脱衣所の洗濯かごから下着を漁ってるところを偶然見て、わたしはそれを問い詰めた。わたしがお姉ちゃんに告げ口すると言うと、あいつは逆ギレして、果てはお姉ちゃんのことをダシにして正当化しようとした。このままではお姉ちゃんがいつかあいつに穢されると思って、代わりにわたしがあいつの性欲のはけ口になった。

 痛かった。初めては痛くて血が出て、それ以降もお姉ちゃんの代わりに心を傷つけられていった。あいつの「父親」という、わたしにはきわめて小さく厄介な権力の前で、なにもできない自分が悔しかった。

 身体のどこもかしこも、あいつの粘っこい穢れた身体に汚染されていき、「わたしはあいつに似ている」ということを散々聞かされた。認めたくないのに、あいつとの夜のたびに、お姉ちゃんのことをいやらしい目で見るようになっていく自分に困惑していた。

 お姉ちゃんを無理やりベッドに押し倒して、無理やり脱がして、あのなめらかな生肌とわたしの生肌をすり合わせたい。唾液を混ぜ合わせたい。敏感なところに触れたりなぞったりしたら、どんな声を上げるのか見たい。

 夜中のシャワールームで初めて自分を慰んで、わたしは罪悪感で泣いた。だんだんわたしは、あいつと同じになっている。そして、それを許してしまう自分がいる。それが気持ち悪くて、死んでしまおうと思ったりもした。

 結局、お姉ちゃんの優しい笑顔を見て死ぬのを踏みとどまり、わたしも次第に自分の想いを正当化した。わたしはお姉ちゃんのために頑張ってるんだ。最終的にそれだけの見返りがあってもいいじゃないかと。

 あいつがいつか死んで、お姉ちゃんとわたしだけのふたりぼっちになった時、わたしはお姉ちゃんに想いを伝えようと思っていた。せめてあいつのようにならないためにも、わたしはお姉ちゃんにもわたしを好きになってくれた上で、その見返りを享受しようと。

 そう思っていた。いつか、そんな未来がくると思っていた。

 だけど、あの日をさかいに、お姉ちゃんはわたしじゃない誰かの方を見るようになっていった。




 粘液を指でかき混ぜる音とともに、重ね合わせた唇との間で舌が絡む。あいた手で首筋をなぞると、目の前の身体がぶるりと震えるのを感じる。

 ベッドのスプリングがゆるやかにキイキイと音を立てて、散々学校で強気を装っていたはなの小刻みの嬌声も混ざると、なにかシュールな音楽のようだと思った。

 ああ、だめだ。これはお姉ちゃんとするための練習台なんだ。華だと思ったら、途端にモチベーションが下がってしまう。

 わたしは自分に暗示をかけるためにも、絡めた舌も唇も離して言う。

「お姉ちゃん……大好きだよ……」

 だけど目の前の華は口端から垂れた涎を指で拭って、ただ眉尻を下げるだけ。

 こいつ、わたしのことを見てほしいだか嫌わないでほしいだとか言ってたくせに。練習台に付き合うと嬉しそうに言っておきながら、なんて顔しているんだ。

「お姉ちゃん……どうしてそんなに泣きそうなの……? わたしのことを愛してるんだよね?」

「……愛してるよ。……うん。愛してるん、だけどね」

「じゃあなんで、そんな顔してるの? もっと、嬉しそうにしてよ」

「……ごめん。分かって、るんだけど……分かってる、けど……」

 あー、萎えた。

 何度も何度も続いたあの夜の自分のことを思い出して、気分が悪くなってきた。こいつとすると、いつも萎えてしまう。昨日のことは喜ばしいのに、そのたかぶりが一気に冷めていくのを感じる。

 あいつもこんな気分だったんだろうか。毎日こんな思いを抱えながら、それでもわたしで慰めていたんだろうか。分かりたくもないが、あいつのなかでそうだったのかもしれないとつい考えてしまう。

 だめだ、今日はだめ。

 機械的に指を動かして、弱そうなところをすぐに探り当てる。すぐさま嗚咽混じりの震えて悦ぶ声とともに、頭ががくんと上がる。こいつのこんなところを見ると、少し前にこいつになにかしら怯えていた自分がばかばかしくなる。ベッドの上で生まれたての子鹿みたいになるやつなんか、最初から怖がることもなかったんだ。

 オーガズムの落ち着いた華が、わたしの顎に手を伸ばしてキスをせがむ。まあ、見返りくらいはくれてやるか。もう一度だけ軽く口づけを交わして、すぐに離す。

 華はとても泣きそうだった。わたしのことを好きだと言ったのに、どうしてこんな顔をするのだろう。

 まあ、どうでもいいんだけど。だって、こいつはお姉ちゃんじゃないから。

 お姉ちゃんにはなれないから。

「もういいや。お疲れ様」

「……うん。……ごめん、なさい」

 華から目をそむけて、ベッドの端へと寝転がる。背後に聞こえるすすり泣きの理由を、意味もなくぼんやりと考える。

 答えを出せないまま、わたしは眠りにつく。




 華の家は母子家庭で、お母さんはなかなか家に帰ってこないらしい。

 おかげでわたしも泊まるあてができたし、そういうところでは感謝している。

 あの日の夜更け、とにかく逃げようとあてもなく歩いていて、そこでコンビニ帰りの華に出会った。手提げのビニール袋にはコンビニ弁当が入っていて、夕ご飯を買いに行っていたんだとか。

 その時は、金もないしどっかの公園のベンチでも寝床にしようと思ってた。だけど、華がわたしの腕をいきなり捕らえてきて、仕方なく話をすることになった。

 正直、面白くない話ばかりだと思った。よく知らないアイドルの話か自分の話ばかりで、家庭の事情以外は好きなアイドルが誰だとかダンスを完コピしているだとか、まるで興味が湧かなかった。だけど、家庭の事情を聞いたあとだと、こいつが学校という場所で自分の寂しさを埋めているのだということだけは、理解できたし同情もした。

 あの時のわたしは精神に体力もくたくたに疲れ切っていて、少し気が緩んでたのかもしれない。

 長話のあと、わたしに気を使って帰ろうとする華の腕を掴んでこう言った。

「帰る場所、なくなっちゃったんだ……」

 その言葉をきっかけに、また涙が溢れてしまった。

 お姉ちゃんに怒られて、不審の目を向けられてしまった。お姉ちゃんのなかのわたしに、泥が塗ってしまった。ようやく落ち着いたと思っていたのに、そのことがまたフラッシュバックしてしまったのだ。

 そうして華がなにかを察して、自分の家に来るように言った。そうして、わたしはその優しさに甘えることにした。




 華から借りたTシャツ一枚だけを着て、机越しに向き合ってコンビニ弁当を食べる。唐揚げの入ってるやつで、料理上手のお姉ちゃんの手料理に慣らされていたこともあってか、正直あんまり美味しくないと思ってしまった。

 こんな小さなことでもお姉ちゃんの存在の大きさに気付かされて、ちょっとだけ苦しくなる。

 自分を誤魔化すように、話題を振ってみる。

「でも、いいの? 学校休んじゃって。学校が自分の居場所だって言ってたくせに」

雪花ゆきかと二人っきりなんて、そーあることじゃないからさ。だから、華はその時間を大事にしたいっていうか」

「なんでわたしに固執するの?」

「こしつ……?」

「……ごめん。なんでわたしにこだわるの?」

 額を押さえて露骨にため息をつくと、華は自分がバカにされたことに気づいて眉根を寄せる。

 少し困ったような笑顔で、弁当から唐揚げを一個渡してくる。正直もういらないけど、なぜだか変に気を使わせたくなくて黙ってることにした。

「初めて声かけた時、雪花無視したでしょ?」

「あ、うん……」

 少しだけ覚えていた。

 二年に上がった時、華に出会った。その時の印象は、人見知りの一番苦手な雰囲気を体現したようなもので、どうしていいか分からずについシカトしてしまった。

 それから、華のイジメが始まったんだった。

「それが気に食わなくてさー。絶対こいつの目を向けさせてやるーって思って、そのまま……」

「そんな理由で、わたしいじめられてたの? どうして、そんな理由で人をいじめられんの?」

「ごめん……華も、どーして上手く出来なかったんだろうって、今になって思ってる」

「……まあでも、別に気にしてない。こうして家に泊めてもらってるし。どうせ帰る場所もないんだから」

 華が申し訳なさそうに唐揚げをもう一個渡す。もういらないと思ったし、別に償わせたいわけでもなかったからそのまま返す。

「泊めてる側がお腹減らしてどうすんの。わたしはいいから、自分の分は遠慮なく食べなよ」

「いいの?」

「コンビニ弁当の唐揚げなんか、増えたところで嬉しくないでしょ」

「あははー……。うん、ありがとー……」

 弱々しく、あどけない笑顔を向けられる。

 華が弱々しく感じられると、どうにかしたくなる。お姉ちゃんのそれとも、あいつのそれとも違う華への感情に、揺らがされる自分に困惑する。

 こうやって、家族以外で長く話すのは初めてだった。すでに自分の腹の内をぶちまけてしまったからか、今のこいつとは気楽に話が出来る。

 あっちの相性はまるで最悪だけど、こういうなに気ない時間にどこか安らぎを感じていた。

 ああ、これが友達ってものなんだ、と。

 ちょっとだけそんなことを思ったのは、こいつのせいで気が緩んでしまったからかもしれない。




 昨日の夜、あいつの頭を撃った。

 カクタスの力を一点集中させて、針をあいつに向けさせた。下手をするとお姉ちゃんに当たったかもしれないし、いま思えばあまり冷静じゃなかった。だけど、あんな光景を見てしまったら、冷静になれるはずもない。

 家を出て、華の家に匿われてから、心配になってお姉ちゃんを遠くから監視していた。金城かねきやあいつがなにかしないか、その瞬間を狙っていたのもあった。

 結果、あいつはついに手を出した。わたしはすかさずカクタスの針であいつを狙い、ついに殺したと思っていた。

 しかし、頭を狙ったにもかかわらず、あいつは意識不明の重体で済んでしまった。

 だけど、あいつはもうお姉ちゃんと関われないだろう。あとは金城が変な気さえ起こせば、金城を殺して、そしてもう一度お姉ちゃんのもとへ戻る。そして二人きりで新たな人生に一歩踏み出すんだ。

 病院から出るお姉ちゃんを、病院の屋上からオペラグラスで見つめる。華の私物らしいが、いったいいつこんなものを使うのかが分からない。

「よし、移動するよ」

「ねー、流石にここまでしなくてもいいんじゃない? 昨日だってバレそうになったんでしょ?」

「盾さえ使われなければ多分気づかないよ。じゃあ、行くよ」

「……うん」

 デバイスの力で得られた超常的な跳躍力で、屋上から別の屋上へ跳び上がる。華のショベルアームは目立つんじゃないかと思っていたけど、デバイスでサイズを調整できることが判明し、今は腕と同じくらいのサイズになっている。

 前にデバイスの表示を見たとき、華は「MOLE」の力を使うことが分かった。「もれ」と読んで首をかしげていた華に噴き出しつつも、それがモグラのことだと教えると、明らかに盛り下がったようになっていた。

「モグラって……ただでさえこーんな泥臭い武器だと思ってたのに、その上にモグラだなんて……」

「まあ、こっちのサソリも大概だけどね」

「雪花はいーじゃん。武器なんかスタイリッシュでかっこいいしー」

「まあ、華のやつよりはマシなんだろうけど」

 そう皮肉ってみた時の華は、とてもふてくされた顔をしていてちょっと面白かった。

 別の建物の屋上に着いて、またオペラグラスで追っていると、華が突然切り出してきた。

「そういえば、例の連続行方不明事件、まだ解決してないらしいよ」

「ふーん……」

 オペラグラスでお姉ちゃんを追いながら、適当に相槌を打つ。

 誰が行方不明になってようがあまり興味ないし、そうなると事件の真相なんかもどうでもいい。お姉ちゃんに関わらないと、まるで興味がそそられない。

 お姉ちゃんが遠くなり、また別の屋上に移る。白昼堂々とこんなことをしていても案外バレないのだから、わたし以外の人間の注意力というものも案外いい加減だと感じた。

 またお姉ちゃんを見つけると、どんどん人通りの少ない道を進んでいることに気づいた。またわたしを探しているのだろうか。嬉しいけど、いまは見つけられたくもなくて、ちょっと複雑な気分だった。

 お姉ちゃんが角を曲がって、また別の屋上へ跳躍。オペラグラスでまた視界に捉える。

 そのうちに、びしっとしたダークスーツを着こなす黒縁眼鏡の男が、お姉ちゃんに話しかけていた。わたしは警戒してデバイスの準備をする。

 いくらか話をしてから、お姉ちゃんは男に連れられてどこかの建物に入る。それは、明らかに看板の煤けた喫茶店だった。

「ねえ」

「なにー?」

「あの喫茶店、知ってる?」

 オペラグラスを渡して、喫茶店の方を指し示す。

「あー、あそこらへんなら一度通ったことあるよー」

「あそこ、どういう店?」

「どういうもなにも……たしか潰れてたはずだけど――」

「行くよ!」

 手すりを飛び越え、建物群を横伝いに走る。明らかに人間業じゃないけど、こんなこともできるんだなと、デバイスで強化された身体能力を享受する。

 華も一瞬だけためらってから、同じようについていく。

「なにかあったの?」

「分かんないけど! あいつ、多分お姉ちゃんを騙してなにかしようとしてる!」

 あっという間に喫茶店の前に到着する。喫茶店は聞いていたとおりに潰れている様子だった。

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