不幸せの理由、甘宮雪花の悩み。 2
左手にこびりついた体液がねばつく感触を残したまま、
二人の足音以外には風もなく、声もなく、音もない。試しに廊下の非常警報装置のボタンを強く押してみたけど、なんの音も出ない。
間違いない。本当に時が止まってるわけでもなければ、
それからも淡々と先に歩いていくわたしに対して、凛々原が怯えたように訊く。
「ねーこれ、どうなってんの……?」
「あんたに説明して、分かるとは思わないけど」
「分かるとか分からないとか知らないよ! てゆーか、なんで
「うるさいなあ。あんたの頭に合わせて言ったら、時間が止まってるんだよ。これでいい?」
「見りゃ分かるよ! そーじゃなくて、なんで時間止まってんの? なんで雪花はそんなこと知ってんの? なんで華たちは動け――」
「ごちゃごちゃ聞かないでよ。こっちは手が洗えなくてイライラしてんのに……」
見せびらかすように、背中越しに左手を軽く振る。
質問も投げられなくなり、ようやく静まったと思っていると、凛々原がわたしの横に並んでハンカチを渡す。
「ほら。もとは華が悪いから。使ってよ」
「なに、いきなり。気持ち悪っ……」
「別にさー、わたしも雪花を怒らせたいわけじゃなかったんだよ? ただ、華ってよくカッとなる時があるみたいだからー、っていうか」
「他人のことより、自分の下着のほうをどうにかしたら? ぐっちょぐちょのままでしょ?」
「誰かさんのおかげでねー……。でもまあ、今回のことを反省して、このまま帰るからいいよ。……だから、ほら!」
「わかった、ありがとう」
押し付けがましい手を退かせるために、とりあえずハンカチを受け取ると、凛々原はなぜか少し嬉しそうな顔をしていた。
別に許したわけじゃない。こいつがあんなことをしたのを反省しているわけじゃないし、そんなつもりもない。
だいたい、こういうものはハンカチなんかで拭いきれるもんじゃない。できれば水と石鹸で完全に臭いが消えるまで洗いたかったし、ハンカチぐらいならわたしも持っている。完全にこいつの自己満足だ。
とりあえず、今はお姉ちゃんに会いたくない。せめて水道で手を洗ってから、お姉ちゃんの手をいつでも握れるようにしていたい。
ハンカチで手を拭ってから、このまま貰いっぱなしも腹が立つことに気がついた。せっかくだし、ここで貸し借りを清算しておこう。
「あんたに分かることは期待しないけど、とりあえず教えておく。時間が止まってるのはある怪物の仕業で、止まった時のなかを動けるのはわたしたちがある資質を持っているからで、わたしはそれを一度経験したことがある。これでいい?」
「えっ、怪物って――」
「たとえば、こういうものだ」
突然、聞き覚えのあるような張った声が聞こえる。
目の前にふいに現れたのは、カラスの面と黒い外套を纏う大男。その隣には、細長で体表に針を茂らせた緑と赤黒の怪物が前傾姿勢で立っている。大男の方は、確か
そして怪物のほうをよく見ると、その赤黒いものはこびりついた血だということに気がついた。
「見ろ、カクタス
毒配人がわたしたちを指さして、くくくと含み笑いしている。
「ああ、可愛い女子中学生だ! 今すぐに抱きしめてやりたい! そして、俺の全身の針という針に犯されて苦しみ歪むその顔が見たい!」
サボテンの怪物の表情のうかがえない単眼から、ひどくうわずったような気持ち悪い声がする。なんとなくあいつのことを思い出して、また不快感が戻ってきた。
「ねえ、あれが時間止めてるんだよね? どうすんの?」
「倒すしかないでしょ。じゃなきゃ、アイツの針山の身体に殺される」
「どうやって!」
なすすべのないわたしたちに、容赦も躊躇もなくサボテンが迫りくる。いまはお姉ちゃんも
そうしている間に、毒配人はトランクケースを開けて、いくつかのバングルとデバイスで詰まった中身を見せる。お姉ちゃんはダメだって言ったけど、もう手段は選んでいられない。
わたしはサボテンを避けて走りだす。しかし、突然なにかに足元を取られるようになり、バランスを崩しかける。
「カクタス
足元を確かめる。木目の廊下はすべて白く細かい砂地と化していた。
しかしここで足を取られている場合じゃない。どうにか転ばないようにぎりぎりで整えて、毒配人のトランクケースにたどり着く。
すかさずデバイスとバングルをふたつずつかすめ取り、そのうち一組をサボテン越しに凛々原へ投げる。
なんとなく、素直に謝った上に貸しまで作る相手に死なれるのは、寝覚めが悪いと思ったから。無意識にやっちゃったけど、きっとそういうことなんだと思いたい。
「今からわたしの見てる通りにやって!」
「えっ、ちょっ、なにこれ!」
「なんでもいいから、早く! 死にたいの?」
言いながら、バングルを右腕につけて、窪みにデバイスをはめる。画面には、長くて先の尖ったしっぽと左右のハサミといくつかの脚が描かれたようなアイコンが浮かび上がる。
光の粒子が空中に発生して、掴んだ手から形成されていったのは黒い大鎌だった。
よし、これなら戦える。
柔らかい砂の上でどうにかバランスを取って進み、細長の身体に思い切り斬りつける。かすめた切り口から緑の閃光が漏出して、すんでのところで凛々原からこちらのほうに警戒を向ける。
凛々原も遅れて意を決して、腕にバングルをはめてデバイスを取り付ける。
もしかしたら、わたしだけでいけるかもしれない。
「おらぁ! かかってこい、木偶の坊!」
「お誘いかぁ? そんなに抱いてほしけりゃ、お望み通りにしてやるよ!」
サボテンが巧くバランスをとりながら、急カーブでこちらに突進する。ここは怪物にとって都合のいい世界だからか、こいつ自身に砂地への影響が感じられない。
確かお姉ちゃんはデバイスを操作して、特殊な機能を使っていた。だけど、あれはなかばたまたま運が良かったようなものだったし、今度も同じようにして成功するとは限らない。
ならば、試してみるか。
「ねえ、おっさん!」
わたしは振り向いて、背中越しに毒配人へ呼びかける。
「なんだ?」
「必殺技、みたいなのはどうやって使うの?」
「必殺技……
大男は右腕のデバイスを指さしてすぐさま言う。
「デバイスに触れて音声認証をしろ! お前の場合は『スコーピオン、
「ありがとう!」
「毒配人! なんのつもりだ!」
「それでやられるようなら、お前はその程度ってことだ! ようは負けなければいい!」
サボテンはどこかから舌打ちしたような音を出して、強く踏み込む。
すぐさまデバイスの画面に触れて、
「スコーピオン、
わたしは倒れたその身の一髪ほどの場所で、強く刃を立てた。
「わたしの勝ちだよ」
「……そいつはどうかな?」
無数のなにかが全身を刺す感触。サボテンの身体のいたるところの針が四方八方に噴出されたことに、後から気づく。
飛び上がった針をあちこちに受けて、手から大鎌がすべり落ちる。わたしの身体は仰向けに倒れ、方々の傷口からは赤い閃光が漏出する。
とめどない閃光をどうにかしようとも、身体がもう動かなくなっていた。
「……ぁ、うぁ」
「能力を持ってるのは君だけじゃないんだよなぁ。さあ、せめて苦痛にあえぐ声を聞かせてくれよ! それが済んだら、俺は本格的にこの世を支配し――」
突如、目の前で大きなショベルアームが振り下ろされる。それは怪物の胴を断絶し、そのはずみに黒い破片が飛んでくる。それは、砕けたデバイスだった。
断面から多量の緑の閃光が漏れ出て、全身が突然干からびていく。
「ごめん、遅れたーっ!」
アームが上がり、その太い鉄の腕を装備した凛々原が姿を現す。
そのあまりの呑気さと酷い絵面のギャップに苦笑しながら、ふっとその場で力尽きる。
あーあ。結局、凛々原に貸しを作っちゃった。そう思うのを最後に、意識がふっと遠くなる。
ふと気がつけば、トイレの前で二人うずくまっていた。ちょうど凛々原のオーガズムが来る直前で時間が止まったようで、予定調和のようにまたも手にぬねった体液が溢れてまとわりつく。
すぐさま
さっきやったことをまたやるだなんて、不思議な感覚だな。そう思いながら、凛々原のことなど一瞥にくれずにトイレから出ようとする。
「ま、待って!」
思わず足を止める。
そういえば、先のことなんて考えずにあんなことしちゃったんだった。もしかしたら、こいつの性根はすぐにけろりと戻って、明日からさらに過激にわたしを陥れようとするかもしれない。これから、どうすればいいだろう。
……いや、さっきの怪物のことでお姉ちゃんも心配してるはずだし、やっぱり早く帰らないと。
「そのー……ヘアピン壊したこと、本当にごめん」
「あんたが謝るの? ……凛々原だって、傷ついたはずなのに」
「うん。雪花があんなことするなんてーって驚いたけど、それでもちょっと嬉しかったから」
意外な反応に、つい振り返ってしまう。声も表情もどこか朗らかで、それがわたしには信じられなかった。
「なんで?」
「雪花が、華のことを傷つけようとしてくれたから。やっと華のことを、見てくれたから」
「……なにそれ、気持ち悪」
想定していたおぞましさとは違うものにうろたえながら、彼女を置いて水道に向かう。
蛇口のレバーをひねって水を出して、粘ついた左手を水と石鹸で神経質に洗う。鏡にはちゃんとわたしと凛々原が映っていて、ようやく現実に戻ったことを理解する。
手を洗い終えてハンカチで丁寧に拭く。鏡越しに隣の凛々原を見ると、どこか恥ずかしそうに、水道の前でなにか迷った様子でいた。
「下着洗いなよ。びちょびちょでしょ?」
「でもー……」
「下着濡らしたまま帰っても、わたし別に許すつもりはないよ」
「そういうことじゃなくてー……」
「そのまんまじゃ蒸れるし、わたしそんな趣味はないよ」
「人にはあんなことしておいて……」
華が口をへの字にしながら下着を脱いで、黙々と水で洗う。ああいうことには慣れてない割に、やけにフリルのしゃれたピンクの下着だった。
凛々原が下着を洗ってる隙に帰ろうとすると、
「そういえば、華があの怪物にとどめを刺したよね!」
「……え?」
「だからー、その……あれって貸しだよね!」
そういえば、最後にとどめを刺してくれたんだっけ。あれの借りは返すべきか。そのまま根に持たれるのもあれだし。
「だから、洗ってる間に待っててほしい……」
ため息をついて、出口前の壁にもたれかかる。
「分かったよ。その代わり、これで借りはチャラだから」
「あと、一緒に帰る、とか……」
「校門前までね。それ以降は、お姉ちゃんと帰る」
ほとばしって叩く水音のなかに、ため息が聞こえた気がする。
わけがわからないまま、わけのわからないやつと、わけのわからない関係を築いてしまった。
下駄箱から出た頃には、夕焼けが空を赤く染めていた。
わたしが先に、凛々原が後に。信じられないことに、わたしは昨日まで嫌がらせを受けていた相手と一緒に帰っている。もちろん、校門を出るまでの話だけれど。
「そーいえば、このバングルって結局なんなの? なんか華のはパワーショベルのアームみたいなものが出たんだけどぉ……」
「あれが、さっきの怪物に対抗するための武器なんだよ」
「てゆーか、あの化け物って結局なんだったの? 雪花は化け物に全身針だらけにされたはずなのにいつの間にか無傷だし……」
そういえば、普通ならあれは致命傷だったはずなのに、なぜか生きていた。もしかしたら、あそこは現実ではなくて、空間の発生元の怪物さえ倒せば全て元に戻るとか。そういうゲームのルールなのかもしれない。
そもそも、あの大男のやってることの意図がよくわからない。なぜわたしたちに怪物と戦うことを強いるのか。なぜ怪物に対抗できるアイテムを使わせようとするのか。あいつはどっちの味方なのか。
そして、もうひとつ。
凛々原がサボテンを倒したときに飛び散ったデバイスの破片のこと。
なぜ
一度ならず、二度までも。これは偶然なんかじゃない。
もしかしたら、あれもバングルで怪物になっただけの普通の人間で、わたしたちは人殺しを強いられているのでは――。
「……おーい、雪花ー?」
「え?」
「やっぱり、まだ怒ってたり? ヘアピン壊しちゃったしー……」
「まあ、うん。怒ってないわけないでしょ」
本当は、色々あってそういうのも忘れかけてたんだけど。
この際だ。今まで言わなかったことを言ってしまおう。
「そもそも下の名前で呼ぶのが馴れ馴れしいし、よく机蹴ってくるのもどうかと思うし、する話はことごとくつまらないし、そのくせわたしに絡んでしょうもないマウントばかり取ろうとするし、馬鹿のくせに偉そうにしてるのも腹立つし、嫌がらせはどれもこれも最近の小学生でもやらないレベル、どこを取ってもお姉ちゃんより劣ってるくせにいつもいつも絡んできて最悪」
「……なんか、ごめん」
「謝るならそもそもやらないで。それから、これからも二度と近づかないで」
「……分かってたよ。でも、そーでもしないと雪花は――
「当たり前だよ。あんたはお姉ちゃんじゃないんだから――」
背後で震えた指がブレザーの裾をつまむのを感じる。小さな頃、人見知りでよくお姉ちゃんの服の裾をつまんでいたのを思い出す。
あの時、お姉ちゃんに見限られると全てが終わるものだと思っていた。そして、今でもそれを思っていて、確信している。
同情するような相手じゃないはずだし、むしろそうした方がよかったんだと思う。だけどそれは、いつかのわたしの気持ちを裏切るような気がした。
しょうがない、と。足を止めて、ため息をつく。
「……まあ、あのヘキのズレたキモい怪物にトドメを刺してくれたし、あんたがいなかったらわたしはもう死んでたかもしれないから――」振り返って、右手を差し伸べる。柄にもなくて、ちょっと恥ずかしくなる。「ごめん。いまさら名字も気持ち悪いから、雪花でいいや。よろしく、華」
ちょっとだけ泣きそうにうつむいていた華はきょとんとして、涙を拭いてからおそるおそるその手を取る。
わたしは友達でもないはずの相手と、仲直りするかのように握手をする。なんだか今日は、慣れないことばかりで疲れる。
「ショベルアーム使う相手を、下手に敵に回すのもあれだしね。呉越同舟ってやつ。打算だよ」
「雪花って、意外と口が悪いよね」
「元からこんなんだよ。華が知らなかっただけ」
「……あと、意外に優しい。こっちは散々嫌なことしたのに」
「別に、嫌ってもいいんだよ?」
「……ううん、嫌わないでほしい」
ゆっくり手をほどいて、並んで歩く。
お姉ちゃんが心配してるけど、約束した以上は華を置いていくわけにもいかなくて、そのペースに合わせて歩く。こうして誰かに合わせて歩いていると、意外と下駄箱から校門までの距離が遠いと感じる。
校門を出ると、お姉ちゃんの姿が見えた。わたしはお姉ちゃんに向けて軽く手を振る。
「お姉ちゃん!」
お姉ちゃんはちょうど、スマホを持って電話しているところだった。視線だけをわたしに向けて、なにかうろたえた様子を見せた後、慌てたように口調を早める。
「ええ、あの。じゃあ、雪花が見えたので切りますね。失礼しました」
スマホを切ってから、お姉ちゃんがわたしの両肩に手を乗せて、心配そうにする。
「バングル使ったの?」
「……ごめん。死ぬと思ったから」
「でも、無事で良かった……」
「さっきの誰?」
胸の奥がざわざわする。こんなタイミングでお姉ちゃんが電話するような相手なんて、知らないから。
「じゃ、じゃー帰るね……ばいばい、雪花」
「あ、うん。ば、バイバイ」
「雪花のお友達?」
「ただのクラスメイトだよ。それより、さっき誰と返事してたの?」
華を見送って、向き直ってから訊く。
お姉ちゃんは無邪気そうな笑顔でわたしにスマホを見せびらかした。
「
スカートのポケットに入ったヘアピンの膨らみを確かめる。ざわりと不快感が押し寄せて、触れる指がやるせなくほどかれる。
「どうしたの、雪花?」
「ううん、なんでもない。遅くなっちゃったし、早く帰ろう」
「今日の晩ご飯どうしよっかぁ……」
いつもみたいに、わたしから手を繋いで家路を向かう。嬉しいはずなのに、どこか複雑なものが靄のように広がるようだった。
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