不幸せの理由、甘宮雪花の悩み。 1
揺れる、揺れる、揺れる。
不快なものが、不潔なものが、わたしの身体に出入りする。
わたしは声を漏らさないよう口をつぐみながら、そいつから目を逸らす。
「照れてんのか? 可愛いな、
まさか。お前の顔が見たくないだけだよ。
ベッドの上、揺さぶられる視界のなかでそんなことを思う。だけど、そんなことを口にできるはずもない。
お姉ちゃんを、こんなことに巻き込むわけにはいかないから。
「お前は本当、母さんに似てないな。顔は母さんからの遺伝だが、性格はまるで俺を見てるみたいだ」
そいつは下卑た笑いを浮かべて、わたしの身体を強く揺すぶる。
つくづく最低なやつだと思った。こんなやつにお姉ちゃんが今日も騙されているのかと思うと、非常に腹が立ってくる。
だけど、わたしがやらなければ、代わりにお姉ちゃんがその役割を果たそうとするかもしれない。お姉ちゃんは優しいから、どうあっても平穏を守ろうとする人だから。
そんなこと、絶対に嫌だ。
だからわたしは、出ていったお母さんの、そしてお姉ちゃんの代わりになる。
鈍重とした思考のなかで、そいつの動きが遅くなる。どうやら終わったみたいだ。
だけど、そいつは醜悪なそれを包む風船みたいなゴムをゴミ箱に捨てて、わたしの顔の前へと回り込む。いきり立った先端から白濁した滴らせるそれは、腐った海鮮物のような臭いを発していた。
そいつはわたしを見下ろして、息を荒げたように言う。
「ほら、掃除の時間だ」
これが一番嫌だ。口の中にこいつのかぐわしい臭いがこびりついてしまうようだから。
お母さんが出ていく前からこいつはこんなことをやっていたのか、それとも出ていった後でこうなってしまったのか。
その真相など知るよしもない。だけど、今のこいつが最低最悪のクズなことだけは確かだった。
それを咥えようと口を開こうとして、思わず目の前で吐き気をもよおしてしまう。無意識に手で口を押さえたあとで、わたしは冷や汗を噴き出しながらそいつを見上げる。
わたしの様子を見下ろしたそいつは、機嫌が悪くなったように眉をしかめていた。
「おい、なんだ今の。俺を馬鹿にしてんのか?」
「し、して、してない、です……」
「じゃあ早くしろ。元はお前がやりたいって言ったからやらせてるんだろうが」
「……はい」
「別にお前じゃなくてもいいんだぞ。お前は俺を見てるようで、イライラしてくるしな」
「……ごめんなさい」
口の中に溜まった唾液が漏れて、顎へと滴り落ちる。
わたしだってこんなことをしたくない。だけど、お姉ちゃんにこんなことをやらせたくもない。お姉ちゃんの身体をこんな汚いもので穢したくない。
「いいか? 次にあんな真似したら、すぐにお前を切って
「……はい」
垂れた唾液を、手で拭う。
そこそこの固さがあって太く悪臭のするそれを、すがるように口に咥える。涙と吐き気をこらえながら、それにこびりつく垢や汁を丁寧にねぶり取っていく。
唾液と穢れた不純物が混じり合って、自分に味覚と嗅覚があることを心で恨んだ。
「桜花は本当に母さんに似てるよな。もしかしたら、お前なんかよりずっとするのが上手いかもしれないな?」
咥えながらそいつを睨みつける。そいつはわたしの視線に向けて、一笑に付すだけだった。
「冗談だ。ほら、さっさと満足させてくれ」
そいつに頭を押さえられて、そいつの気が済むまで終わらない。わたしは週に何度か、こんなことをしていた。
口の中に、粘っこいものが流れてくる。それはわたしの口腔内をさらに穢していく。
ようやく手が離されて、口からそれを抜いた。そいつのおもちゃを見つめるような視線を受けて、わたしは口に溜まった不純物まじりの唾液を少しずつ飲み下していく。
口の中のどろどろと不純物の混ざったスープを飲み下し、吐き気をどうにかこらえてから、ほっとひと息ついた。
「ははっ、今日はこれで勘弁してやるよ。じゃあ、またよろしくな」
肩にぽんと手を置いて、ベッドに戻る。
そいつが眠りについたのを確認してから、わたしはすぐさま部屋を出る。
おぼつかない足取りで廊下を歩いている途中、涙が滲んで嗚咽が出るのをこらえていた。それでも湧き上がる感情を抑え込んで、壁に手をついて浴室に向かう。
汚れたものを、あの薄汚い後味を、全て洗い落とさなきゃ。せめてお姉ちゃんの前では、綺麗なわたしでいたいから。
声に出さず、静かに暗がりの廊下を進んでいく。
学校が好きというわけではない。だけど、お姉ちゃんと手を繋げる登下校の時間は好きだった。
いつもわたしから手を繋ぐのだけど、お姉ちゃんは絶対に拒むようなことはしない。それはわたしがたったひとりの妹だからというのがあるのかもしれないけれど、わたしにはそれで充分だった。
叶うならば、お姉ちゃんとずっといたい。お互いにあいつの手に触れられないはるか遠くへ逃げて、二人だけで幸せになりたい。
そしてゆくゆくは……。
「どうしたの、雪花? 具合悪い?」
「あっ、違うの。ごめん……」
よからぬ想像をして、それが顔に出たみたいだった。空いた手で口元を隠して、かぶりを振る。
「別に謝らなくていいからね。ただ、具合が悪かったり、なにか悩み事があるならちゃんと言いなよ」
お姉ちゃんの温かい言葉。お姉ちゃんは本当に優しい。
いつもその優しさに負けて、自分の抱えているものを話したくなる。だけど、お母さんの消えた家庭でこれ以上なにかあったと知ったら、お姉ちゃんはどう思うだろうか。
あいつは消えてほしい。だけど、お姉ちゃんを悲しませたくない。
あいつが家族でさえなかったらと、自分の親ながらに思う。
あいつとの血の繋がりを恨んでしまう。お母さんがわたしたちを捨てなかったらと、そう思ってしまう。
そうしてると、お姉ちゃんはわたしの前に回り込んで、わたしの左肩に手を乗せて顔を見つめる。
「まーた、なんか考えてる?」
「……い、いやでも、大したことじゃないから」
しばらく見つめ合って、痺れを切らしたようにため息をつく。それから肩に乗せた手を離して、また歩き出した。
「まあ、雪花も複雑なお年頃だもんね。お姉ちゃんにも言えないことがあるんだろうなあー」
なにか甘酸っぱいものを期待しているような、無邪気な口ぶり。それがどこか、わたしには苦しい。
違うから。そんなもの期待しないでよ。
わたしが好きなのは――。
「……お姉ちゃん」
「んー? なに?」
お姉ちゃんのにやにやと笑う顔に、目を逸らして。
「大好きだよ」
「……なに、いまさら?」
「…………」
「よくわからないけど、私も雪花のことは大好きだよ」
お姉ちゃんの含みのない言葉に、胸の奥あたりがずきりとする。
実際、わたしのことは好きなんだろう。だけど、それはわたしの抱くそれと違って、それ以上の意味がなさないのだと思ってしまう。
わたしは所詮、お姉ちゃんの妹でしかない。そしてそれは、わたしがお姉ちゃんにとっての妹以外にはなれない、ということでもある。
その事実が、どうにも張り裂けそうになる。
わたしはどうすればいいか分からなくて、ただ繋いだ手が離れないようにと固く握り直した。
退屈な学校、退屈な休み時間。
そのいとまもずっと、机に顔を突っ伏してお姉ちゃんのことを考えている。そうしないと、あいつとの時間を思い出して、おかしくなりそうだから。それは今日だけじゃなく、お母さんの出ていったあの日からずっと続いていたことだった。
クラスメイトがアイドルについて語っている。だけどわたしは正直のところどうでもよくて、耳障りだとすら思っていた。
……お姉ちゃんがアイドルになったらどんな感じだろう。多分フリルいっぱいのかわいい衣装なんかがとても映えるんだろうなと思うし、ライブは絶対に行くし、お姉ちゃんを一番に応援するファンになりたいって思う。
ベッドに押し倒されて、アイドル衣装を振り乱すお姉ちゃんの姿。わたしはその衣装の隙間に指を這わせて、お姉ちゃんと唇を重ねる。お互いの熱で、身体が汗でべたべたになる。
だけど、わたしには叶わない。実際は握手以上の触れ合いなんかできないだろうし、そうしているうちに、わたしじゃない他の誰かと幸せになってしまうかもしれない。
アイドル衣装を脱ぎ捨てて白いウエディングドレスを身に纏うお姉ちゃんの隣に、花婿姿の男が立っているのを想像する。そいつは、昨日見た
嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
酸っぱいものがこみ上げるのを、どうにか飲み下す。たとえあの男じゃなくても、お姉ちゃんがわたしじゃない誰かと幸せになってどこかへ行ってしまうのを思うと、とても気持ち悪い。許せなくなる。
だめだよ、ずっとわたしの隣にいて――。
考えてる途中で、前髪が上に強く引っ張られる。
「おはよー、雪花ちゃーん!」
そのまま強引に顔を上げられる。目の前に見えたのは、悪意に満ちて歪んだ笑顔。
まるでおのれの性格をあらわしたような吊り上がった目つきと、その顔に乗った軽い化粧。しっかり整えたようなセミロングの髪を流して、制服は少しだけ着崩している。
まるで恒例にでもなっているように、凛々原の声でクラスメイトがぞろぞろと集まってくる。
「ねえ、雪花ちゃーん? 居眠りばーっかしてて、楽しい?」
今はお前のことなんか考えたくない。放っておいてほしい。
だけどそんなことなど言えなくて、ただ目を逸らすしかない。下手なことを言っても余計に物笑いの種にされるだけで、いつもいつもやり過ごしてばかり。
そもそも、どうしてこいつはわたしに構うのか。中学二年になってからずっと、わたしはこいつに好きなようにやられている。
「なに、シカトー? シカトしてくれちゃってるー?」耳のすぐそばで舌打ちが聞こえる。「そーいうの、めっちゃ腹立つんだけど」
一気に手を下ろして、わたしの顔を机にぶつける。わたしを囲むクラスメイトの笑い声がどっと聞こえてくる。
思いきりぶつけた鼻が痛い。机に伏せながら、ちょっとだけ目に涙が滲む。
わたしのことがよほど気に食わないのだろう。彼女がそこまでわたしに執着する理由は分からないけど、それだけは分かる。
「あれー? しゃれたヘアピンつけてんじゃーん」
ヘアピンと聞いて、びくりと起き上がる。
花を飾ったヘアピンに触れる手を、すぐに押さえる。それはなかば無意識で、凛々原の嫌がらせに反応してしまったことにひやりと冷や汗が出てしまった。
「……へえ、珍しく反応いいじゃん。そーんなに、大事なものなんだー?」
「お、お姉ちゃんにもらったもの、だから……だから、返して……」
「お姉ちゃん、かぁー……」
凛々原の眉根が寄る。
突然、なにかの発作のように机を足裏で強く蹴られて、お腹に思い切り食い込むのを感じる。
わたしが机に突っ伏しているうちに、凛々原が髪からヘアピンをむしり取り、得意そうにそれを手でいじる。
「あんたの態度が気に食わない」
「……っぁ、返して――」
「誰が返すか。中二にもなって、お姉ちゃんお姉ちゃん言ってるのが悪ぃーんだよ」
予鈴が鳴る。教師が入ってきて、凛々原がつまらなそうに席に戻る。
あいつは、お姉ちゃん以外の人間はみんな最低のクズだ。腹に残った痛みを感じて、そんな思いにふけっていく。
放課後、なぜか凛々原に呼び出された。
内容は「ヘアピンを返して欲しかったら旧校舎一階のトイレに来い」といった感じの内容。正直信用していなかったけど、ヘアピンを盾に使われたらさすがに来ないというわけにもいかない。あれはお姉ちゃんがわたしに可愛いからと付けてくれた、大事なものだから。
こんなたやすく凛々原の手に乗せられるのは悔しいけど、ここで無視して帰ったらヘアピンをくれたお姉ちゃんの気持ちを裏切ることになる。
旧校舎は放課後だと、がらんとしていることが多い。特に旧校舎のトイレは夕方になると、薄暗いくせに切れかかった蛍光灯がかなり不気味で、ほとんど使われることはないのだとか。
そんな場所に呼びつけてやることなんて、きっとろくでもないことだろうな。そう思いながら、気が重くなるのを振り切って進んでいく。
言われたとおりに女子トイレに入ると、電気がついていない。その薄暗いタイル張りの奥では、ヘアピンを手元でくるくるいじりながら壁にもたれかかる凛々原がひとりだけ。
ひとりだけ……?
「へぇー、こんなんで来ちゃうんだー?」
「い、言われた通りに来たでしょ。さ、ささ、さっさと返してよ。お姉ちゃん待たせてるんだから……」
「……まーた、お姉ちゃんか」
暗く冷たい、なにか気に食わなかった時の声。
凛々原は指先からヘアピンをそっと落として、思いっきり踵で踏んづける。砕けた花の飾りが踵からこぼれて、花びらのように散る。
そのとき、ぞっと身体全体に電気が走るようなものを覚える。
こいつはお姉ちゃんの気持ちを平気で踏みにじったクズだ。絶対に許せない、許しちゃいけない。
途端に怒りがふっと湧いて、気がつけば凛々原の胸ぐらを掴んでいた。わずかに目を丸くしながらも、変わらずへらへらとしている。
「なんのつもり?」
「殴るのー? 普段は無視するくせしてー、お姉ちゃんとかいう人が絡むとそーなるんだー?」
「……あんたみたいなサル女とお姉ちゃんで、比べ物になるわけがないでしょうが。なんで、お姉ちゃんのくれたヘアピンを、お姉ちゃんの気持ちを踏みにじるの……?」
「い、いーじゃん、あんなちゃちなもの。雪花にあんなものは似合わな――」
壁に押しやって、顔を思い切り殴りつける。今まで喧嘩なんかしたことがなかったからか、予想外の拳の痛みに困惑した。
凛々原は壁に後頭部を叩きつけられて座り込んでしまい、切れた口端を指で拭う。今度は本当に困惑した様子で、拭い取った血と目の前のわたしを見比べていた。
ちょっとだけ面白くなって、追い打ちにつま先で胸を何度も蹴飛ばす。
さっきの仕返しだ。さっきまでの余裕はどこぞへ吹き飛び、足元で何度も咳き込んでいた。
「……ご、ごめん。やりすぎたって思ってるから、だ、だから――」
「まだ足んないな」
「へっ……?」
わたしがここ最近で嫌だったものを思い出す。
普通の暴力なんか、こっちも一緒に痛くなるだけだ。わたしがいつも受けているものは、してる側はなにひとつ傷つかない。ただ、される側はその内側の尊厳をひどく傷つけられる。
掴んだ腕を壁際に押しつけて、スカートの中へと指を忍ばせる。柄物っぽい凹凸のある布地に指先が触れて、腹に沿って布地と生肌の隙間を通る。
顔を一気に赤らめて、開いた太腿が閉じて侵入を拒もうとするが、残念ながらもう遅い。
「ちょっ、なにして――」
「へえ、意外とこういうことは慣れてないんだ?」
「ぁっ――」
その指を、そいつの貞潔な内側に侵入させていく。
ぬめぬめとした感触を、指先で機械的に撫でていく。
嫌いなやつとこういうのをするのはとても気持ち悪い。息を荒げて本能に抗えないまま嬌声を漏らす凛々原とは対照的に、わたしはどんどん気分が悪くなっている。
お姉ちゃんじゃないやつが、わたしに触られて悦んでいる。なんでよりによって、こいつなんだろう。わたしは好きでもないやつとしかこういうことのできない呪いにでもかかっているのか。
ぬめった体液がわたしの手の中に溢れる。うわずった吐息とともにオーガズムが過ぎて、動きが緩慢になる。その惨めなさまを鼻で笑いながら、体液を凛々原の下着の表面で拭った。
ああ、本当に気持ち悪い。
体液で濡れてない手でヘアピンと砕けた花の飾りを拾い集めてから、スカートのポケットに入れる。そうしてさっさと洗面台に向かって、蛇口のレバーをひねる。
しかし、水は回しても回しても一向に流れてこなかった。
他の蛇口も確かめる。どれもこれも、限界までレバーを回しても水が出なかった。
「あんた、よくもっ……」
ふらふらと追いついてなにか言いかけた凛々原が、すぐに小さく悲鳴を上げる。目の前を見ると、鏡にはわたしや凛々原の姿が映っていなかった。
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