真夏なのに瞳に雪が降る

出海 真鯆(いづみ まほ)

第1話 もうしんじゃおうかな

 詩緒は、たくさんのことに疲れていた。説明を始めたら説明しきれないけれど、仕事も人間関係も生活も、なにもかも報われなくて、人一倍他人に優しくしてきたはずなのに、恩を仇で返されるようになにも報われなくて、「死」にたくないけど「しんじゃおうかな」。「死」という言葉は簡単に使いたくないけど、そうしてしまいたいの。


 詩緒の瞳はブリザードで視界が不良だった。詩緒は、ある時から、片目だけ瞳に雪が降るようになった。その日から片目は寒さで痺れて痛みがともない、雪が邪魔で景色はよく見えない。


(厭な気持ちだと瞳も吹雪くみたい)


 サラサラの粉雪の時もあるのだ。

 体調が悪かったり、心が不安定な時は瞳も荒れる。今は、「しにたい」のだから、ブリザード。


 詩緒は、とある同僚の男の悩みをずっと聞いてきた。その男は、他に吐き出す場所がなく、親にもしっかりした姿を見せねばと本音が言えず、身近な人は他にいなかった。表面的な付き合いは機嫌良くできており、健全なふりをしていたが、男の弱さ不安定さが詩緒には見えていた。自分があげられるだけの労りをあげようと思った。

 そんな詩緒に、男はある日、欲求をぶつけた。「私に吐き出せばいいや」…傷つきながらも詩緒は思ったけれど、その後の男は自分のしたことを省みるでもなく、詩緒を攻撃し始めた。

 男が弱くて不安定なことは詩緒も分かっていた。でも、それをこんな形で自分にぶつけられるとは思っていなかった。


「お前が誘ったんだからな」

 男は先手を打って、会社中に詩緒が誘ってきたと言い触らした。詩緒が男に乱暴されたと言えば会社に自分の居場所はなくなる。先に詩緒を信用置けない人間に仕立てあげようとしたのだ。

 詩緒は告発するどころか男の欲求を許そうとしていたのに。


 そして今日の昇格判定、年齢や実績的には昇格できるはずの詩緒だけが昇格できなかった。詩緒の胸はざわざわしたり、ヒリヒリ痛んだりした。長年の頑張りが泡になった。男は社内のどこかで安堵して笑っているだろう。

 そうしたら、瞳がブリザードになった。


(でも、なんでこうなるかは謎なんだよね)

 詩緒は、瞳に雪が降るようになったきっかけは知っていても、なぜ吹雪いたり寒さで痺れがひどくなるのかは知らなかった。勝手に変化するのだ。


 帰り道の駅のホーム。身体がズルズルーとホームの下に引きずられそう。足を踏ん張った。いっそ吸い込まれたら楽なのか?


 その時、目の前を他人が通りすぎた。顔立ちは分からなかった。瞳の色だけ目についた。それは綺麗で薄いグレーで澄んでいたから。


「あ…」

目で追おうとしたけれど、立ち眩みだ。視界が薄くなってしまった。きちんと直立した時、その人は見つけられなかった。


 綺麗だったな。吹雪いてる私の瞳と違って何もない静かな湖みたいだったな。


―帰ろう。


「しんじゃおうかな」はひとまずやめ。とりあえず帰ろう。帰って寝よう。


 詩緒は、その夜布団の中でしくしく泣きながら、何の波も立たない綺麗なグレーの瞳を思い出して「もう一度見たいなぁ…」と呟いた。

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真夏なのに瞳に雪が降る 出海 真鯆(いづみ まほ) @shake_kirimi

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