第九十一話 纏儀
何が起こったのかまるで分からなかった。
一瞬にして自身に襲い掛かるとてつもない魔力、霊力……、いやどちらでもない。
身体は幾重もの鎌鼬に切り刻まれ、とてつもない威力の電気が身体の中を迸る。
初めて知る恐怖という感覚。
今までに味わったことのないその感情は、男の脳裏に快楽として刻み込まれた。
男は、薄れていく意識の中目の前の少女を見る。
腰まで伸びた翠玉色の髪の少女は、無表情のまま、ただ冷徹な瞳を携えて男を見ていた。
愉悦に歪む表情のまま、男はそのまま暗闇へ意識を落とす。
◇
「君の力はその程度かな?」
地面に倒れ伏す私にそう語りかけてきたのは、風の祖精霊シルフ。
「あんな人間一人にいいようにやられて。君はそれでも精霊術士なのかい? 悔しくは無いのかい?」
「そんな……こと……」
そんなこと言われなくても悔しいに決まっている。
動かない身体。もどかしい想い。
まごつく私にシルフは溜息をつき、「悪いけど……」と切り出した。
「ずっと見ていたけれど君には素質を感じなかった。エウロもなんでこんな子を推していたのか分からないよ。君が精霊術士になったのは間違いだったんじゃないのかな」
シルフの言葉を受け、湧きあがる怒り。
ギリギリと噛みしめる奥歯から血の味を覚える。
「間違いなんかじゃないっっ!!」
怒りは身体の中を突き抜け、一筋の咆哮となって放たれる。
いくら数年間馬の姿になっていたとはいえ、腐っても私は精霊術士だ。
目の前に霞むのは、今はもう存在しないロギメルの美しい風景。そして、父と母の笑顔。
あの日、私は幼いながらも精霊術の才を認められ、期待の中母から精霊術士としての位を譲り受けた。
「間違いだなんて言わせない」
動かないはずだった手足。
消え失せていた意識。
それらは再び鼓動を始め、私の中で微かな力となる。
「先代から受け継いだ精霊術士の矜持を、その想いを、間違いだったなんて一言で括らせない」
ゆっくりと立ち上がり、ただ一点、シルフの目だけを見つめ私はそう告げた。
「へぇ」
まだ立ち上がれるんだと言わんばかりの表情でシルフはこちらを見据える。
「私は弱いけど……、ラグに頼ってばかりだけど……、それでも私は最後まで戦う」
遠く、黄金の宝珠を手に余裕の笑みを浮かべるギルバードを見据えて言い放った。
「ふーん。それが君の想いなんだね」
背後でシルフの声色が変わったのが分かった。
「そうか。じゃあボクも君のその崇高なる想いに敬意を表さない訳にいかないな」
そして、シルフは私の肩にそっと手を置いた。
「ボクを使ってみるかい?」
耳元で優しく呟かれるその言葉。
ボクを使ってみるかい、その言葉の真意をすぐに悟った私は、シルフの方へ振り返り、首を縦にふることで肯定の意を伝えた。
「了解。じゃあこれが本当に最後の最後だ。君の巫女としての器、見極めさせてもらうとするよ」
意気揚々とシルフがそう告げると、その姿を光の玉へと変え、私の髪の中へ吸収されるように消えて行った。
シルフが言っていたのは、『纏儀』と呼ばれる精霊術の中での最も高度な術のこと。
精霊は人間の髪の毛にのみその身を宿すことが出来る。
髪を媒介に精霊術士が精霊そのものを自身に取り込むことで爆発的に能力を向上させる、言わば精霊術士の奥義のようなもの、それが『纏儀』だ。
しかし、その力の強さの反面、制御はとても難しいものとされている。
それはその精霊の力が強ければ強いほど難しいものとされ、一度制御を誤れば、その力は暴走し、最悪はその精霊術士の命を絶たなければ止めることが出来ない、そんなハイリスクハイリターンな技。
ただ、昔存在した『賢王』と呼ばれる稀代の精霊術士は、この術の考案者でありながら、四体もの祖精霊を同時に使役できたというように言い伝えられている。
制御できるかできないかは鍛練も一つのファクターではあるが、その者の才能によるところが大きい。
つまり『纏儀』は、精霊術士の中でも一握りの天才にしか使えない術だということだ。
それが私に使えるかどうかは分からない。けれどこのままやられてしまうくらいならいっそその一縷の可能性に賭けてみる他ない。
私の髪の毛は綺麗な翠玉色に輝き始め、所々破れていた服が別のものに――別のものに変わる!?
『纏儀』で変化が起こるのは髪の色だけと聞いていた。服装まで変化が起こるなんてことは……。
―― これは君を想う子から預かっていたプレゼントだよ。長年に渡り精霊が自分の霊力を生糸に変え、紡ぎ出した霊糸で編んだ精霊の衣。どうか受け取ってあげて欲しい。そしてどうか親心にも似たこの想いを裏切らないで欲しい ――
脳内でシルフの声が響く。
見れば私の服は綺麗な白色の羽衣のようなものに変わっていた。
羽衣はシルフの霊力を受け、無地の上に翠玉色の幾何学模様を描き出す。
「くっ……」
やがて私の身体を暴れるように駆け巡り始めたのは私の魔力ではない、別の者の霊力。
それらは私の中で収まり切らず、周囲に無数の風の刃や雷を生むことで発散されていく。
霊力がまるで私の全てを喰らい尽くそうとしている感覚。
暴走一歩手前の状態。かつて同じ状態に陥り、そして暴走状態へと至った精霊術士を見たことがある私には、これが何を意味しているのか理解ができた。
―― やっぱり、無理だった ――
脳内に響くシルフの声は、落胆のそれというよりは初めから想定していたというものに受け取れた。
それが私の中で幾重も反芻され、闘争心を頂点に押し上げた。
「私の言うことを、聞けええぇぇぇっ!!!」
爆発的に高まる魔力。
その魔力は、今まさに私を喰らおうとしていた霊力を逆に喰らう。
そして私の体の中で交じり合う魔力と霊力は、唯一の力となって私の中で根を張った。
最中で髪留めがちぎれ飛んだのか、一つにまとめていた私の髪は自由に広がる。
その勢いの中見れば、髪の毛は完全な翠玉色へと変わり、僅かな風と、微量な電気を纏っていた。
やがて気分が落ち着いてきた。
先ほどまでの荒れ狂うような力の波動は感じない。
手のひらを握ったり開いたりしてみるが、身体に異常も感じなかった。
―― まさか、本当に抑え込むなんて ――
シルフのその驚愕の声色を聞くが、不思議と何も感情が湧いてこない。
抑えてやったぞなんて勝ち誇った気持ちになるかと思ったけれど、不気味なほどに何も感じない。
これが、精霊を纏っているという感覚なのだろうか。
まるで人間じゃなくなってしまったような、そんな感じだった。
「変身は終わったか? あまりに手ごたえが無かったから待ってやっていたんだ。今度は楽しませて……」
「うるさい」
ギルバードがそう言い終わらんとする刹那、彼を幾重もの鎌鼬と無数の雷が襲う。
それは紛れもなく私自身が発した力。
力の使い方はシルフに教わった訳じゃない、何となく理解ができた。
だから小うるさい男を牽制するため、そしてこの力がどれほどのものかを試すためにまずはかなり手加減をして力を使った……つもりだった。
しかし、目の前の男はいともあっさりと意識と黄金の宝珠を手放し、地面に倒れているというのが現状だ。
「これが『纏儀』の力」
―― かつ、祖精霊であるボクを使役できた力とも言えるね ――
その力に恐怖は感じない。
勝ったと言う高揚感も無い。
ただ、目の前の敵が倒せたと言う事実だけが脳裏で理解できる程度。
私は無言で黄金の宝珠を拾うと、元の水晶のオブジェへと戻した。
最初にも感じた感覚だが、これはここから動かしてはいけない、今はそれが先ほどよりも強く感じる。
やがてその嫌な力の感覚は階下から感じるようになった。
―― 感覚の鋭さは、流石精霊術士といったところだね ――
「どういうこと?」
脳内に響くシルフの声に尋ね返す。シルフは一体何を言っているのか、何を知っているのか。
―― 行ってみれば分かるさ。黄金の花畑から外を眺めてごらん。それが全ての真実だ ――
私はその言葉の真意を確かめるため、エデンの間を後にし、階下へと向かうのだった。
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