第八十五話 リラルーテットを作りし男

 ドクン。


 脈打つ鼓動。

 黒い雷のようなものが脳内に迸った気がした私は、伸ばしかけた手を、反射的に引っ込めた。

 このままこれに触れてしまっていいのだろうか。そんな直感が私の中を駆け巡る。


「とらないのかい?」


 シルフが嫋やかな笑顔を浮かべる。声色も今までと話してきたシルフと同じだ。

 だけど私にはそれが何だか歪なものに感じられて、一歩、一歩とオブジェから後ずさってしまう。


「急にどうしたんだい? 顔色が悪いけれど……」


 心配そうな様子でシルフは私の顔を覗き込む。

 根拠はない。理由なんて説明できない。

 だけど私の中の何かが、あれは危険だと、触るなと警鐘を鳴らしている。

 左眼がズキズキとうずき始めた。

 義眼であるが故に痛みなど感じないはずなのに、左眼が確かな熱量を持って神経を刺激している。


「ごめん……なさい。私には……、あれは……、触れない」


「ではそれは俺がいただくとしよう」


 聞きなれない声が耳に届いた瞬間、背中を強烈な衝撃波が襲った。


「かっ、はぁっ!」


 押し出された背骨に内臓が圧迫され、呼吸が止まる。

 私の身体はそのまま前方へ吹き飛ばされ、前方の壁へ激突した。

 背中に受けた衝撃と壁に打ち付けられた衝撃で、意識が飛びそうになるのを耐え、歯を食いしばり、震える両足を地面へつけ、私は立ち姿勢を何とか保つ。

 そして背後を見やると、そこには茶髪の男が立っていた。

 その男は右の手の平をこちらに向けたまま、額に皺を寄せ、じっと私を睨んでいる。


「あなたは……一体……」


「はっ!」


 私の言葉を無視したその発声と共に、二発目の衝撃波が放たれた。

 私は咄嗟に右側へ前転で避ける。

 刹那の後、バンッという大きな音が左後方の壁から発せられた。さすがにあの衝撃波を二度も受けて意識を保ち続けられる自信は無い。

 私は痛みで少しクリアになった脳内であの魔法を吟味する。

 詠唱なしで使っているところから察すると、恐らくは初級魔法の『エアショック』。

 しかしその魔法にしては威力が大きすぎる。

 初級魔法『エアショック』は相手を吹き飛ばすことに特化した魔法ではあるが、ここまでのダメージを受けるほどの威力は持っていないはず。


「はっ!」


「『エアショック』!」


 試しに相手が魔法を放つのに合わせ、私も右手から『エアショック』を相手に向け放つとともに、また前転で右へ避けた。

 直後、また後方の壁からバンッという鈍く大きい音が響く。

 恐らく私の『エアショック』はかき消されたということだろうが、音の大きさから計るに、威力は寸分も相殺できていないようだった。

 パワー、スピード、何をとっても相手の魔法の威力に敵わない。

 考えられる可能性として一番高いのはスキルによる威力増加。

 そうであれば同じ初級魔法では私の分が悪い。

 ならばっ!


「縮め大気、渦に……」


「はっ!」


「くっ……」


 有無を言わさず放たれる衝撃波。

 私は詠唱を中断し、同じようにしてそれを回避した。

 同じ初級魔法で敵わないのならばその上の魔法をぶつければいいが、しかし、相手はそれを許してはくれない。

 こと一対一の戦いにおいて、詠唱が必要な中級以上の魔法はほとんど役に立たないと言って良い。

 いかに初級魔法で相手を敬遠しながら、物理によるダメージを加えられるかが肝となってくる……というのは頭では分かっている。

 剣や武術などの覚えがない私にその戦術は無理。だけど私には私にしかできないことがある。

 具現化力、詠唱に集中が必要な魔法と違い、詠唱さえできれば後は精霊が力を貸してくれる魔法を私は使える。


「根源の四元、水の祖精霊ウンディーネ……」


 私が詠唱を開始したところで、再びそれを中断させようと衝撃波を相手は放ってくる。

 私はそれを同じ方法で避けながら、尚も詠唱を続けた。


「我が呼びかけに応え、大いなる水の守りを我に」


 尚も連続で放たれる衝撃波を紙一重で私は避け続ける。


「『アクエリアル・バブルバリア』!」


 完成した詠唱。私を水の泡が包み、直前に放たれた衝撃波をその柔らかな防御壁は威力を受け流すようにしてかき消した。


「聞いていた通り、精霊術士とは厄介なものだ」


 茶髪の男はふぅと一息つき、こちらに向け続けていた右手をゆっくりと降ろした。


「ルーシィはひどいね。折角ボクが傍に居るのにウンディーネに頼るなんて」


 相手が攻撃を止めたのを見計らって、シルフが不満げな様子でそう文句を言ってくる。


「そう思うなら黙って手伝って」


 相手が右手を降ろしたとはいえ、何時攻撃が飛んでくるかわからない。

余裕のない私が思ったことをピシャリと言うと、シルフは「おー、怖い怖い」と言いながら身を震わせる仕草を見せた。


「敬意を表して、せめて名前くらい名乗っておくか」


 どんな気持ちの変化だろうか。

 その茶髪の男は紳士的に恭しく一礼すると、続けて名乗った。


「俺はギルバード、ギルバード・ブランシュだ」


 ギルバード……、その名前には聞き覚えがあった。

 確か、ラグナスと一緒に行った香水店の店員がその名前を言っていたはず。


―― このリラルーテットはギルバードさんが心血を注いで復元に成功した幻の香水。あなたのような人が紛い物呼ばわりしていいものではありません ――


「リラルーテットを作った……人?」


 私が記憶を辿りそうポツリとつぶやくと、ギルバードと名乗ったその人は「へぇ、知っているのか」と一言頷いた。


「でも、リラルーテットはヴィヴロさんが作ったって……」


 酒場での会話。私は食べ物に夢中でほとんど内容を覚えていないけれど、確かそんなことを言っていたような気がする。何かしらで作り方が分かったからって……。


「という体にしたってことだ。なんせリラルーテットは俺が適当に造った香水だからな」


 彼が何を言っているのか、訳が分からなかった。

 私はハタと気づき、自身のスキルを発動させる。彼の心の中を覗き、真実を確かめるためだ。

 しかし、何度探ろうとしても彼の心の中は読めなかった。


「あー、無駄無駄。あんたのスキルはうちの大将がとっくに見抜いてる。金スキル『静寂』。その対策は訓練済みだ」


 私のスキルがバレていた!?

驚愕する私をよそに、ギルバードは飄々と続ける。


「ま、リラルーテットを再現するのはヴィヴロの野郎の悲願だったからな。ただ操り人形にするんじゃ寝覚めが悪いってことで、せめてもの願いを叶えてやったって訳だ」


 操り人形?

 彼は一体何を言っているのだろうか。

 私やラグの知らないところで、一体何が起こっているというのか。


「おっとつい喋りすぎたか。また大将に小言を言われるな」


 彼はそう言うと、両手を私に向ける。


「んじゃ、いきますか」


 そう言うと、彼の左手からは赤い炎球が、そして右手からは衝撃波が打ち出された。


「魔法の二重発現っ!?」


 初級魔法『ファイアーボール』と『エアショック』の二重発現。

 私は咄嗟に回避行動をとるけれど、一瞬判断が遅れた。

 猛スピードで迫り来る複数の炎球が泡のバリアにぶつかり、その箇所を蒸発させる。

 前方を穴だらけにされた私に向かって追撃の衝撃波が襲った。


「がっ……」


 腹部に直撃した衝撃で暗転する視界。

 私はそのまま膝から崩れ落ちた。

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