第三十六話 ニナ・ユーレシュ②

 白い雪に覆われた国に、温かな産声が響き渡ってから6年の歳月が流れた。

国の中心に位置する白氷の青殿内。

 外壁の青に相対するような真っ赤な絨毯が敷かれた長い廊下を、一人の少女が疾走していた。


「お、お待ちくださいませニナ様……」


 そう投げかける老婆は、息絶え絶えと言ったように胸を抑えながら少女を追いかける。


「やだー! お勉強きらーい!」


 少女は後ろを振り向くことはせず、尚も走り続けながら言葉だけを老婆へ飛ばした。

 どうしてニナ様はこうじゃじゃ馬に育ってしまったのだろうか。

 老婆は汗を拭い、壁に手をあて寄りかかりながらそう考える。

 外見は聡明なオリヴィア王妃に瓜二つであるにも関わらず、性格は全く違う。

 それもこれも全部王がニナ様を甘やかすからだ。

 何かにつけて娘可愛い娘可愛いとデレデレしているからニナ様がつけあがるのだ。

 老婆は心の奥底で現王の顔を思い浮かべ、日頃の鬱憤を晴らすべくとりあえずボコボコにしておいた。





「へくしっ!」


「どうしたのですかな王?」


「いや、誰かが噂をしているのやもしれん。色男は辛いものだなあ、ルード」


「はあ」





 何とか老婆をまいたニナは、ゆっくりと歩を止め後ろを振り返る。

 そこに追ってくる者は居ない。ニナの完全勝利だ。

 ニナは額にうっすらと浮かんできた汗の粒を拭い、ふぅと一息ついた。


「ニナ様。あまり宮中の者を困らせてはなりません」


 安心したのも束の間、不意に頭上から声がする。

 気づくとニナは首根っこを掴まれ、宙吊り状態になっていた。


「マ、マルビス!」


 見るとそこには一人の老紳士。

 城を覆う雪のように白い髪と髭を持つ燕尾服の男は、ニナを見ると、ニヒルな笑みを浮かべた。


「ご機嫌麗しゅう。ニナ様」


 確かに周りには誰もいなかったはず。

 いつの間にこんなに近づかれたのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎるが、今は彼の手から逃れるのが先決だ。


「は、離してよ!」


 ニナは手足をバタバタ動かし、マルビスの捕縛から逃れようとする。

 が、どんなに暴れようともマルビスがうっかり手を放してしまうなんて気配はない。


「ハッハッハ。ニナ様は今日も元気でなにより」


 それどころかニナの抵抗など全く意に介さないといった様子で、マルビスは大きく笑った。


「しかし、元気すぎて周りの者に迷惑をかけるのは如何かと存じますぞ」


 マルビスはゆっくりとニナを地面へ降ろし、少し厳しめの口調でそう言う。

 ニナは少し面食らったが、ここで引き下がっては元も子もない。


「マルビスはお母様の側近でしょ! 私への進言は越権行為よ!」


 精一杯の問題転換を行ってみる。


「おや、越権行為とは難しい言葉をご存知でいらっしゃる。これも普段の勉強の賜物ですな」


 しかしマルビスは一切動じることなく、ヒラリとニナの口撃をかわした。


「あら、マルビス……、とそこに居るのはニナかしら?」


 さてこの老人をどうしたものかとニナが思考を巡らせていると、物心ついたときから聞きなれた優しい声が耳を撫でる。


「おや、これはこれは」


 マルビスもそれに反応し、声がする方へ身体を向けた。


「お母様……」


 恭しく一礼するマルビスの後ろで、ニナは表情を曇らせる。

 彼女のそんな表情を見た、声の主、オリヴィアもまた少し顔を曇らせる。


「おかしいわね。ニナはお勉強の時間だったはずなのだけれど……」


「え、えと。その……」


 まずい、このままでは勉強を抜け出してきたことがバレてしまう。

 ニナは勉強は嫌いだが、優しい母は大好きだ。

 そんな母が、自分のしでかしたことで悲しい顔をするのはニナの本位ではない。

 どうすれば……、どうすれば……。


「ニナ様。お忙しい中、この老人のお話し相手になっていただきありがとうございました」


「えっ……」


 ニナは驚いた表情でマルビスを見る。

 この老人は一体何を言っているのだろうか。

 マルビスは抜け出した自分を咎めるために、ここに現れたと思っていたのに。

 しかしマルビスはそんなニナの動揺を知ってか知らずか、ニコリと優しげな笑みを浮かべると、オリヴィアへ向き直った。


「オリヴィア様、大変申し訳ございません。何分暇を持て余した身。少し話し相手にと身勝手な申し出を王女様に申し上げてしまいました」


 マルビスは胸に手をあて、膝をつき、オリヴィアに謝罪の意を示す。

 違う。悪いのは自分だ。マルビスが謝ることなど何もない。

 そう声をあげようとするが、胸のあたりから詰まって思うように言葉が出ない。


「そう、分かったわ。マルビスにはいつもお世話になっているし、多少のことには目を瞑りましょう。ニナ」


「はいっ」


 急に名前を呼ばれて反射的に返事をしてしまう。


「お勉強頑張るのよ」


 オリヴィアはたおやかに笑いそう告げる。

 残されたニナはスカートの裾をギュっと掴む。

 結局本当のことを言えなかった。あまつさえ、自分が悪いのにさもマルビスが悪かったように仕向けてしまった。

その罪悪感に胸が押しつぶされそうになる。


「オリヴィア様。償いとして私がニナ様のエスコートを」


「ええ。頼みました」


「では、ニナ様。お部屋に戻りましょうか」


 そう言って、マルビスはニナに手を差し出した。

 ニナはコクリと頷くと、その大きな手を掴む。

 一刻も早くこの場から立ち去りたい。その一心でギュッとマルビスの手を強く握る。

 そしてゆっくりと自分の部屋に向けて歩を進めた。


「……、苦労をかけるわね」


 オリヴィアは誰にも聞こえぬ声でポツリとそう呟く。

 するとニナに気づかれぬようマルビスはすっとオリヴィアへ振り返り、ニナに向けたように優しく笑った。





 自分の部屋へ続く廊下。

 そこへ敷かれた赤い絨毯をゆっくりとした足取りでニナは踏みしめる。


「ごめんなさい」


 先ほど言えなかった言葉が、ようやく胸の奥から飛び出す。

 本当は母の居る前で言わなければならなかった。

 逃げ出してごめんなさい。マルビスのせいにしてごめんなさいと。

 大好きな母の教えの一つに、「悪いことをしたら必ず謝る」というものがある。

 そんな母の教えに背く形になったことが、何よりニナの心をきつく締め上げた。


「頑張りましたな、ニナ様」


 その言葉にニナはパッとマルビスの顔を見る。

 マルビスは先ほどと変わらず優しい笑みを浮かべていた。


「よく、素直に謝りましたね」


 そんなマルビスの言葉にニナの目頭が熱くなる。


「マ、マルビッ」


「弁のたつ王女様より、私は素直に謝れるニナ様が好きですよ」

 

 そしてマルビスはニカッと満面の笑みをニナに向けた。


「マルビスッ!」


 ニナは思わずマルビスの胸に飛び込む。


「マルビスマルビスマルビス!」


「おやおや。これはこれは……」


 マルビスはされるがままにニナに胸を貸す。

 次第にシャツがゆっくりと濡れていくのを感じながら、マルビスは母親譲りの美しい金色の髪をゆっくりと撫でた。





「ねぇ、マルビス!」


 すっかりと元気を取り戻したニナが、自身の部屋の前でマルビスに声をかける。


「なんですかな?」


「私に、マルビスの剣を教えて欲しいの」


「私の剣……ですか?」


「そう!」


 ニナは知っていた。

 マルビスは昔、ユーレシュ随一の刺突剣の使い手と呼ばれていたことを。

 その証拠に、今でもマルビスは左の腰元に細身の剣を携えている。


「お言葉ですが、ニナ様は剣よりも魔法の方に才があるかと……」


「それでもなのっ!」


 ニナは一歩も引き下がらないと言った強い意志を持った顔でマルビスを見つめる。

 こうなったらテコでも動かない。全く、こんなところは昔のオリヴィア様を見ているようだ。

 マルビスは懐かしさからフッと思わず笑みがこぼれる。


「そうですね……。一度お二人に確認してみます」


 ここでいうお二人とは王と王妃のことだ。

 ニナの教育については、マルビスの一存で勝手に決めることはできない。

 まあ、あの親馬鹿な王のことだ。ニナが言い出したのならば二つ返事でオッケーを出すのは目に見えているが。


「お父様とお母様の許可が降りたら絶対に私に剣を教えてね! 約束よ!」


「ええ、約束いたします。この剣、『シルヴェーラ』に誓って」


 マルビスは腰元の剣にゆっくりと触れ、膝をつく。

 ニナはそれに満足したのか、ゆっくりと自身の部屋へ戻っていった。


「さてさて」


 マルビスはゆっくりと立ち上がりながらそう呟く。

 まずは簡単な方からの説得を試みよう。

 マルビスはそう思い、王の執務室へと足を運ぶのだった。

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