第8話『お見舞いに来た女教師』

「後片付け終わったわ。確認してくれる?」


 霧嶋先生に返信を送ってすぐに、花柳先輩がそんな報告をしてきた。

 キッチンに行くと、シンクの側に綺麗になっている食器や玉子焼き器が置かれていた。ちゃんとふきんで拭いてくれたか。自分のお茶碗を触ってみると……うん、ヌルヌルしていないな。


「OKです。ありがとうございます。俺が元の場所に戻しておきますので、先輩はリビングでゆっくりしていてください。あと、霧嶋先生がこれからお見舞いに来てくれるそうです。元々は仕事が終わって、サブロウで癒されたいと思って連絡してくれたんですけど」

「へえ、そうなんだ。一佳先生はサブロウが大好きだもんね」

「ですね。あと、部活が終わったら風花が来るそうです。先輩、風花に連絡していたんですね」

「うん。風花ちゃんはお隣さんだし、美優の様子について何か知っているかなって。それに、2人は病院にいるから、あまりメッセージを送るのもいけないかと思ってね」

「そうだったんですね」


 風花はお隣さんだし、休日になると家によく遊びに来ることは花柳先輩も知っている。だから、美優先輩の体調について何か知っているんじゃないかと考えるのも自然か。

 花柳先輩がリビングに戻ったので、俺は先輩が洗ってくれたものを元に戻す。

 IHに置いてある土鍋には、美優先輩のお茶碗1杯分くらいのお粥が残っている。梅雨入りしたけど今日は涼しいし、蓋をしてあるからこのままで大丈夫だろう。

 リビングに戻ると、花柳先輩は食卓の椅子に座り、スマホをいじっていた。


「食器と玉子焼き器、元に戻しておきました」

「お疲れ様。……ところで、桐生君。訊きたいことがあるんだけど」

「何でしょう?」

「桐生君って英語は得意?」

「得意な方ですが……どうかしましたか?」

「さっき、美優のスマホにメッセージを送った通り、月曜に提出する英語の課題で分からない問題があってね。それを教えてほしいの」


 そう言うと、花柳先輩はトートバッグから英語の教科書を取り出す。教科書に挟んでいるプリントを広げ、食卓に置いた。見てみると……和訳や英訳、穴埋めなど様々な問題があるな。先輩の字なのか、解答欄には可愛らしい字が書かれている。


「というか、風邪を引いているから今日は教えられないとメッセージを送ったのに、課題を持ってきたんですね」

「今みたいにリビングで過ごす時間はあると予想してね。それに、英語だったら後輩の桐生君でも解けるかもしれないと思って。だって、桐生君は特待生でしょ?」

「そうですけど」


 俺達が通っている陽出学院高校には、授業料などが免除される特待生制度がある。1年生のときは入学試験の上位者にその資格が与えられるのだ。2年生、3年生は前年度の学年評定の上位者に与えられることになっている。


「俺としては頼りにしてくれるのは嬉しいですけど、クラスメイトとか、同級生の友人とか、料理部の同級生の部員や先輩方に頼ろうとは考えなかったんですか?」

「……そういえば、全然考えなかったわね。当初頼ろうとしていた美優が風邪を引いた。美優のところへお見舞いに行けば桐生君は確実にいる。英語だったら桐生君でも助けてもらえるかなと思って。それに、困ったときは先輩後輩なんて関係ないわ! 助けてほしいときに誰かに助けてって言えることが、人生において大事だと思うの!」


 気づけば人生規模の主張をし、さほど大きくない胸を張る花柳先輩。この人には先輩としてのプライドはないのか。

 ただ、助けてほしいと誰かに言うのは大事なことだと思う。勇気が出せず、それがなかなかできない人もいるし。

 出会った当初は美優先輩のことで俺を敵視し、衝突してしまったこともあった。そんな花柳先輩が後輩の俺に勉強を教えてほしいと言っている。断るわけにはいかない。


「そうですか。では、俺が教えます。どの問題が解けないんですか?」

「この問題なんだけれど」


 花柳先輩がシャーペンで指した問題は……英訳問題か。

 受験勉強で英訳問題はたくさんこなしてきたし、英単語も覚えてきた。高校に入ってからも英語の課題などで英訳問題は定期的に解いている。それもあってか、スラスラと英訳が浮かんだ。


「ですから、これが英訳になると思います」

「おおっ! なるほど! さすがは桐生君!」

「いえいえ。2年生の課題とはいえ、答えられて良かったです」

「ありがとう。これで、もしこの課題で美優に頼られることがあったら、どの問題でも教えられるわ」

「良かったですね」


 月曜提出の課題だから、週末の間に取り組まなければならない。もし体調がある程度回復しても、普段のような調子は出ずに問題が解けない可能性もあり得る。そうなったら、親友でクラスメイトの花柳先輩に訊きやすいだろうし。今朝、美優先輩に助けを求めたけど、それも解決したと伝えておけば、美優先輩も花柳先輩を頼るだろう。

 まあ、英語だし、花柳先輩と同じように俺に頼ってくる確率もゼロとは言えないけど。それは言わないでおこう。恩を仇で返される羽目になりそうだから。

 ――プルルッ。

 スマホのバイブ音が響く。確認すると……霧嶋先生からLIMEを通じてメッセージが1件届いていた。


『着いたわ。開けてくれる?』


 到着したのか。インターホンを鳴らしたら、美優先輩が起きてしまうと思っているのかも。可愛らしい配慮である。


「霧嶋先生が来たみたいです。行ってきますね」

「いってらっしゃーい」


 課題を教えてもらったからか、可愛らしい笑顔を浮かべて、元気よく手を振ってくれる花柳先輩。

 玄関に行って、ドアアイから外の様子を確認すると、そこにはロングスカートにワイシャツ、カーディガン姿の霧嶋先生が立っていた。

 鍵を開けて、ゆっくりと玄関を開ける。霧嶋先生と目が合うと、先生は優しく微笑んでくれる。


「こんにちは、桐生君」

「こんにちは、霧嶋先生。お仕事お疲れ様でした。あと、今日の服も似合ってますね」

「あ、ありがと。コンビニ行って、白鳥さんにヨーグルトを買ってきたわ」


 霧嶋先生はコンビニの袋を渡してくれる。袋の中を見ると、美優先輩がたまに買っているヨーグルトが入っている。


「ありがとうございます。美優先輩はヨーグルトが好きですし、お腹の調子も悪くないので」

「良かったわ。私や妹の二葉ふたばが体調を崩したとき、お腹を壊していなければヨーグルトを食べることが多かったの」

「そうだったんですか。うちも風邪を引いたときは、ヨーグルトやプリンを食べることが多かったですね」

「プリンも甘くて美味しいわよね」


 うんうん、と霧嶋先生は微笑みながら何度も頷く。カジュアルさも感じられる服装なのもあってか、俺が入学したときと比べて柔らかい雰囲気を見せるようになったと思う。

 ラックから来客用のスリッパを取り出す。


「どうぞ上がってください」

「お邪魔するわ。……あら、雨で濡れている靴が3足あるわね。誰かお見舞い客が来ているのかしら?」

「花柳先輩が来ているんです」

「どうも! お仕事お疲れ様です、一佳先生」


 気づけば、俺のすぐ側に花柳先輩の姿が。先輩は霧嶋先生の姿を見て「おぉ……」と呟いている。今の先生を可愛いと思っているのだろうか。


「ありがとう、花柳さん。あなたなら、既にお見舞いに来ているんじゃないかと思っていたわ」

「大好きな親友のためですからね。甘い玉子焼きを作って、美優に食べてもらいましたよ。桐生君も朝食がまだだったので、彼にも食べてもらいました。2人とも美味しいと言ってくれて嬉しかったです。美優はお礼に頬にキスしてくれましたし……」


 そのときのことを思い出しているのか、花柳先輩はニヤニヤしている。

 まさか、お粥を作ったお礼で、美優先輩からキスされるとは思わなかった。あのときのことを思い出したら、気持ちが温かくなっていく。


「2人とも良かったわね。おそらく、花柳さんだけでなく、桐生君も頬にキスされたのでしょう?」

「俺はお粥を作ったお礼ですが……よく分かりましたね」

「だって、幸せそうな笑顔になっているんだもの。そういう顔は白鳥さん絡みでないと引き出せないわ。そう思えるくらいに、あなたのことを知っているつもりよ」


 そう言い、霧嶋先生は俺の目を見て美しい笑みを浮かべてくれる。その笑顔に思わず目を奪われて。

 入学式の日に出会ってから2ヶ月あまり。霧嶋先生は美優先輩も一緒にいる料理部の活動や、今日のようにプライベートなときにも何度も会っているからな。きっと、クラスでは俺が最も先生と関わりがあるんじゃないだろうか。


「そうですか。俺も……出会った頃に比べたら、今みたいな素敵な笑顔を見せてくれることが多くなったなぁと思えるくらいに、霧嶋先生のことを知っているつもりですよ」

「ほえっ」


 いつになく、可愛らしい声を漏らして、顔を赤くする霧嶋先生。俺は素直に言っただけなんだけど、先生にとっては予想外だったのかな。今の先生の反応が面白かったのか、俺の横で花柳先輩がクスクスと笑っている。


「えっと、その……ありがとう」


 はにかみながらお礼を言う霧嶋先生はとても可愛らしかった。


「と、ところで……白鳥さんの具合はどうかしら」

「お粥と玉子焼きを食べて、薬を飲んだ後は眠っていますね。といっても3,40分くらいですけど。ちょっと様子を見てみましょうか」

「そうね。この目で様子を確認しておきたいわ」

「あたしも! 美優の可愛らしい寝顔を見たいもの」


 うふふっ……と花柳先輩は厭らしさも感じさせる笑いを出す。体調を崩して寝ているのをいいことに、美優先輩に変なことをしてしまわないように気をつけなければ。

 美優先輩が起きてしまわないように、寝室の扉をそっと開ける。

 美優先輩は俺が着ていた寝間着を抱きしめながら、ぐっすりと眠っていた。そんな先輩の顔には笑みが浮かんでいる。いい夢を見ているのだろうか。


「あぁ、可愛い寝顔だわ……!」


 興奮した様子だけど、花柳先輩は小さな声でそう言う。先輩は美優先輩にスマホを向けていて。画面には美優先輩が映っている。まさか、写真を撮ろうとしているのか?


「だ、大丈夫なんですか? シャッター音とかフラッシュとか……」

「桐生君の言う通りよ。白鳥さんが起きてしまうわ」

「大丈夫ですよ。フラッシュもオフにしてますし、シャッター音はアプリを使って出ないようにしていますから」


 そう言って、花柳先輩は写真の撮影ボタンを押す。先輩の言う通り、シャッター音が鳴ったり、フラッシュが光ったりすることはなかった。

 撮影した写真を見せてもらうと、薄暗くてフラッシュもオフにしていたのに、美優先輩の寝顔が綺麗に撮れている。


「よく撮れているわね」

「ありがとうございます。LIMEで送っておくわ、桐生君」

「ありがとうございます、先輩」

「……小さな声で話しているからか、白鳥さんは起きないわね。気持ち良さそうに寝てる。ただ、どうして寝間着を抱きしめているのかしら? これは……男物に見えるわ。桐生君の?」

「そうです。この前、俺が風邪を引いたとき、美優先輩の寝間着を抱きしめたらよく眠れたんです。なので、先輩もよく眠れるように俺の寝間着を貸したんです」

「なるほど。恋人の残り香を嗅ぐと安眠効果があるのかも」


 納得した様子でそう言う霧嶋先生。

 ただ、美優先輩の寝間着を抱きしめて寝たら、12年前にタイムスリップして幼い頃の美優先輩に出会った。今回も似たような状況だけど、目の前にいるってことは、先輩はタイムスリップしていないのかな。

 とても優しく美優先輩の頭を撫でると、先輩から強い温もりを感じる。


「由弦君……ふふっ……」


 美優先輩はそんな可愛らしい寝言を言ってくる。どうやら、先輩の見ている夢に俺が登場しているようだ。


「美優……楽しい夢を見ているみたいですね」

「そのようね。起こしたらまずいし、リビングへ行きましょうか」

「そうしましょう。……ゆっくり寝てくださいね、美優先輩」


 美優先輩が起きないように気をつけながら、俺達は寝室を後にするのであった。

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