第7話『遅めの朝食』

 午前10時40分。

 薬がさっそく効き始めたのだろうか。美優先輩は目を瞑ってから数分ほどで、気持ち良さそうな寝息を立て始めた。先輩が起きてしまわないように、俺は花柳先輩と一緒に寝室を静かに後にする。

 花柳先輩に美優先輩のお茶碗と玉子焼きのお皿をシンクへ持っていくように頼み、洗面所に行く。


「昨日も雨だったから溜まってるな」


 洗濯機のスイッチを入れ、俺はリビングに戻った。


「えへへっ、美優にキスされちゃったぁ」


 美優先輩から頬にキスされたから、花柳先輩は上機嫌。食卓の椅子に座り、両手で頬杖をつきながらニコニコしている。鼻歌を歌い、体を左右に揺らしている姿が可愛らしい。相当嬉しかったんだろうな。そう思いながら、朝食を用意するためにキッチンへ向かう。

 普段よりも遅い時間なので、ご飯の量はいつもより少なめに。あとは花柳先輩特製の玉子焼き、インスタントの味噌汁。それらをリビングにある食卓に持っていく。

 依然として花柳先輩はニコニコと笑い、上機嫌な様子。


「花柳先輩、これから温かい日本茶を淹れますけど、先輩も飲みますか?」

「うんっ! お願いするわ!」


 とっても元気良くお返事してくれる花柳先輩。美優先輩は体調を崩してしまったけど、花柳先輩のおかげで家の中の雰囲気が自然と明るくなる。

 自分のマグカップと来客用のマグカップに日本茶を注ぎ、食卓に持っていく。


「花柳先輩、お茶ですよ」

「ありがとう!」


 俺に対してこんなにいい笑顔でお礼を言ってくれたこと、一度もないぞ。それだけ、美優先輩からのキスがとても嬉しかったのだろう。

 食卓を挟んで、花柳先輩と向かい合う形で食卓に座る。


「いただきます」


 そして、ようやく今日の朝食にありつく。

 インスタントの味噌汁を一口飲むと、味噌汁の温かさが全身に広がっていく感じがした。今日も肌寒くて、美優先輩と一緒に病院に行ったからだろうか。温かいものって偉大だな。

 さっき味見した玉子焼きを除けば、この時間まで何も食べていなかった。だからか、ご飯を一口食べるだけで体力が回復していくのが分かる。


「幸せそうに朝食を食べるのね」

「さっきの玉子焼き以外は何も食べていなかったですからね。それに、今日は肌寒いですから、温かいものを口にするとほっとできて。もちろん、味噌汁やご飯が美味しいのもありますけど」

「なるほどね」

「次は先輩特製の玉子焼きをいただきますね」

「どうぞ召し上がれ」


 花柳先輩特製の甘い玉子焼きを箸で一口サイズに切り分けて食べる。

 さっき味見してもらったとはいえ、自分の作ったものを食べてもらうからか、花柳先輩は俺のことをじっと見つめていた。


「美味しいですね。味見したときと比べて冷めていますけど、甘味がしっかりと感じられます」

「良かった」


 花柳先輩は俺のことを見つめながら、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれる。そのことにちょっとキュンとなった。


「前に、美優が桐生君と一緒にご飯を食べると楽しいし、幸せな気分になれるって言っていたの」

「そうなんですか。俺も美優先輩と一緒に食事をするのは楽しいですし、幸せだって思いますね。どっちが食事を作っても」

「そうなんだね。……何だか、今の桐生君を見たら、美優がそう言っていた気持ちがちょっと分かった気がする」

「そうですか。先輩の玉子焼き、いいおかずだと思います。ありがとうございます」

「お、お礼を言われるほどじゃないわよ。ただ、桐生君があたしの親友の恋人だし、今日はまだ何も食べていないから玉子焼きを分けたんだからね。それだけなんだからね」


 頬を赤くしながら花柳先輩はそう言い、俺の淹れた緑茶をゴクゴクと飲んでいる。まだ湯気も結構立っているのに、よくそこまで勢いよく飲めるな。ただ、そんな行動を含めて、花柳先輩がとても可愛らしく見える。

 今の会話で照れくさくなってしまったのだろうか。俺が朝食を食べ終わるまでの間、花柳先輩は俺に話しかけることはほとんどなかった。


「ごちそうさまでした」

「玉子焼きについてはお粗末様でした。桐生君、お茶碗とかは洗ってあげるから、そのままゆっくりしていなさい」

「お気持ちは有り難いですけど……何だか悪い気がしますね」

「気にしないで。桐生君は起きてからずっと美優の看病をしたり、病院へ連れて行ったり、お粥を作ったりしたんだから。それに、頼れるときは頼りなさい。あたしは料理部の先輩なんだから」

「そうですか? では……お言葉に甘えさせていただきます」

「うん、先輩に任せなさい」


 ポン、と花柳先輩は拳にした右手で自分の胸を叩いた。美味しい玉子焼きを作ってくれたこともあってか、今日の花柳先輩はとても頼りがいがある。

 俺のお茶碗などを持って、花柳先輩はキッチンへと向かった。美優先輩が元気になったら、このことを話しておくか。

 ――プルルッ。

 スマホのバイブ音が響いたので確認すると……何も通知はないな。食卓には花柳先輩のスマホがあるので、そっちが鳴ったのだろう。


 ――プルルッ。

「おっ」


 今度は自分のスマホのバイブ音が響く。画面に、風花からLIMEを通じてメッセージが届いたという通知が表示される。


『瑠衣先輩からのメッセージを見たよ。美優先輩、風邪を引いちゃったんだね。昨日も今日も寒いもんね。美優先輩のスマホにもお大事にっていうメッセージを送ったけど、由弦からも伝えておいてくれるかな。夕方に部活が終わるから、帰りにお見舞いに行くよ』


 というメッセージだった。

 花柳先輩、風花には風邪を引いたことをメッセージで伝えていたのか。おそらく、さっき花柳先輩のスマホが鳴ったのは、先輩に返信のメッセージを送ったのだろう。


『体が冷えて体調を崩したんだと思う。お粥や玉子焼きを食べられる元気もあるし、病院で処方された薬を飲んでぐっすりと眠っているから、とりあえずは大丈夫。お見舞いに来てくれると美優先輩も喜ぶと思う。部活、無理せずに頑張って』


 という返信を風花に送った。

 そういえば、花柳先輩以外には美優先輩が風邪を引いたことを伝えていなかったな。こっちからそのことを伝えても心配させるだけなので、花柳先輩のように向こうから話しかけられたら教えればいいか。

 その後すぐに俺の返信に『既読』マークがついて、風花から『ありがとう』と返信を受け取った。学校のプールは屋内だけど、水の中で体を動かすんだ。体が冷えて体調が崩れないように気をつけてほしい。2週間後に都大会もあるし。

 ただ、あけぼの荘の管理人さんである美優先輩が風邪を引いたからか、風花がLIMEのあけぼの荘メンバーのグループトークに、


『美優先輩が風邪を引いたそうです。病院に行って、今は眠っているとのことです』


 とメッセージを送ったのだ。

 すると、すぐに気づいたのか、202号室に住む3年生の深山小梅みやまこうめ先輩と203号室に住む2年生の白金和紀しろがねかずき先輩から、美優先輩に向けて『お大事に』という旨のメッセージが送られた。きっと、これらのメッセージを見て、美優先輩の気持ちが和むんじゃないだろうか。

 ――プルルッ。

 おっ、今度は担任の霧嶋一佳きりしまいちか先生からメッセージが届いた。


『こんにちは。ちょっと雑用があって、今まで学校で仕事をしていたの。だから……今週の仕事疲れを癒やすために、もしいればサブロウに会いに行ってもいいかしら? 2人ともお出かけ中なら、お庭の方に行ってもいいかしら? 白鳥さんの方にメッセージを送ったのだけれど、返事がなかったので桐生君に送りました』


 俺より先に美優先輩にメッセージを送っていたのか。女性である先輩にまずは話をすべきだと思ったのかな。それとも、単に先輩の方が話しかけやすかったのか。

 今は午前11時くらいか。もう終わったとはいえ、休日に仕事をしていたとは。確か2,3週間前にも休日出勤をしていたよな。そのときは美優先輩の従妹の芽依めいちゃんの面倒を見ていたんだっけ。

 あと、サブロウというのは、たまにあけぼの荘に来るオスのノラ猫のこと。黒白のハチ割れ模様が可愛らしく、あけぼの荘のアイドル的存在である。そんなサブロウのことを霧嶋先生は大好きで、サブロウと会うのを目的に定期的にここに来ている。


『休日出勤お疲れ様です。今日はまだサブロウは来ていませんね。雨が降ったり止んだりしていますので、サブロウが来る確率は低いかと。俺と美優先輩は家にいます。ただ、美優先輩は風邪を引いていまして。今は病院で処方された薬を飲んで寝ているんです』


 とりあえず、この内容で霧嶋先生に返信を送る。

 霧嶋先生もトーク画面を開いているのか、返信を送ってすぐに『既読』マークが付く。


『そうだったのね。もし、ご迷惑でなければ、白鳥さんのお見舞いに行ってもいいかしら?』


 やっぱり、お見舞いに行ってもいいかって訊いてきたな。俺が風邪を引いたときも、放課後にお見舞いに来てくれたし。


『もちろんいいですよ。お待ちしています』


 と返信を送った。

 霧嶋先生とは一緒に休日を過ごしたり、ゴールデンウィークに旅行に行ったりした仲だ。顧問ではないけど、料理部で一緒に活動するときもあるし。きっと、美優先輩も喜んでくれることだろう。

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