第5話『親友の存在』

 午前10時。

 受付で料金を支払い、処方された薬を受け取った俺と美優先輩は伯分寺佐藤クリニックを出る。

 さっきとは違って小雨が降っている。ただ、相変わらず空気が冷たく、今が6月だとは信じられない。夏ではなく秋がスタートしたんじゃないかと思うほどだ。


「雨……降ってるね」

「ですね。俺の傘を差して帰りましょう。大きな傘ですから、相合い傘をしても美優先輩の体が濡れることはないかと」

「うんっ。そうしよう」


 花柳先輩にメッセージを送り、俺は美優先輩と一緒にあけぼの荘に向かって歩き始める。

 美優先輩は途中で倒れてしまわないように俺の左腕を抱きしめている。そのおかげで、左腕が温もりと柔らかさに包まれて。


「美優先輩。雨は当たっていませんか?」

「うん、大丈夫だよ」

「良かったです。家に帰ったら、お粥を食べて、病院で処方された薬を飲んでゆっくりと寝ましょうね」

「……うん」


 小さな声で返事をすると、美優先輩は小さく首肯した。

 佐藤クリニックで処方された薬がよく効くのは、俺が身を持って知っている。佐藤先生の言う通り、薬を飲んで、体を温かくしてゆっくりすれば、月曜日には学校へ行けるくらいに元気になると思う。


「それにしても、由弦君に服をめくり上げてもらうとは思わなかったなぁ」

「俺も予想していなかったですよ。女性の看護師さんが側にいたんで、てっきり彼女がやると思っていました」

「私もだよ。でも……由弦君にやってもらって良かったかな。凄くドキドキできたし。特に背中に聴診器を当てられたときは……由弦君と向かい合っていたからさ。あんな格好になることって全然ないじゃない。裸でいるときよりもドキドキしたかもっ」

「あのときの先輩、可愛かったですよ」


 ああいう姿を全然見たことがないから、俺もかなりドキドキした。場所が家で、美優先輩も健康だったら、色々としてしまっていたかもしれない。

 俺に可愛いと言われて嬉しいのか、美優先輩は「えへっ」と声に出して笑う。抱きしめている俺の左腕に優しく頭をスリスリとしてきた。

 普段よりもゆっくり歩いていたけど、美優先輩と話をしていたから、あっという間にあけぼの荘に帰って来られた。

 自分の着ているコートのポケットから101号室の鍵を取り出し、鍵穴に挿したときだった。


「美優、桐生君」


 道路の方から花柳先輩の声が聞こえたのでそちらへ振り向くと、あけぼの荘の入口のところに、ジーンズパンツにパーカー姿の花柳先輩がいた。俺達と目が合うと、花柳先輩は微笑み、手を振りながら歩いてくる。


「美優、体調はどうかしら?」

「起きたときに比べると、ちょっとだけ良くなった気がする。ただ、病院まで歩いて行ってきたから疲れちゃった」

「そうなのね。あけぼの荘からだと近いけど、体調が悪いときに往復歩いたら疲れちゃうわよね」

「頭もクラクラしているようですからね。……さあ、鍵が開きましたよ」

「……ありがとう、由弦君」

「お邪魔します」


 俺が玄関の扉を全開にすると、美優先輩は花柳先輩に支えてもらう形で101号室の中に入る。俺も2人に続く。

 寝室に入ると、病院に行く直前まで暖房をつけていたこともあってか暖かさが残っている。だからか、美優先輩はもちろんのこと、花柳先輩もほっとした様子だ。


「美優、プリンを持ってきたから後で食べてね」

「うん、ありがとう」


 美優先輩がお礼を言うと、花柳先輩はニッコリ。プリンが入っていると思われるレジ袋をトートバッグから取り出し、俺に渡してきた。


「瑠衣ちゃん……お見舞いに来てくれてありがとう。嬉しい!」


 美優先輩はとても嬉しそうな様子で、花柳先輩をぎゅっと抱きしめる。そのことで体がピッタリとくっついたからなのか、花柳先輩は頬を赤くさせて「へへっ」と厭らしさが感じられる笑い声を上げる。


「親友の美優が体調を崩したのだから、お見舞いくらい朝飯前よ。朝ご飯は食べたけど」

「ふふっ」


 そういえば、俺も美優先輩もまだ朝飯前だな。起きてから口にしたのは、俺の淹れた温かい日本茶くらいだ。


「美優先輩。お粥を作りますから、ベッドで横になって待っていてください」

「うん、分かった」

「桐生君、卵ってある?」

「何個かあったと思います」

「そうなのね。じゃあ、あたしが美優のために玉子焼きを作ってあげるわ。美優は甘い玉子焼きが好きだよね」

「うん! 楽しみにしてる!」


 小さな子供のように、無邪気な笑顔を浮かべる美優先輩。ここまでの笑顔は普段はあまり見せないので新鮮だ。凄くかわいい。


「美優。まずは寝間着に着替えましょうか。あたしが手伝ってあげる」

「指の動きがおかしいけど、お願いしようかな」

「美優先輩は病人ですから、優しくお願いしますね。俺は台所に行ってお粥作りを始めています」


 暖房のスイッチを入れて、俺は一人でキッチンに向かう。

 花柳先輩が持ってきてくれたプリンを入れる際に冷蔵庫を確認すると、卵は数個入っていた。花柳先輩は料理部だし、部活中も特に何の問題なく料理していた。なので、玉子焼き作りに失敗し過ぎて、卵を使い切ってしまう展開にはならない……と思いたい。

 エプロンを身につけ、引き出しから小ぶりの土鍋と玉子焼き器を取り出す。

 土鍋を使ってお粥を作り始める。こうしていると、1ヶ月前に風邪を引いたときに、美優先輩にお粥を作ってもらったことを思い出すなぁ。体調を崩していたけど、ご飯の甘味が感じられて美味しかったことを覚えている。


「桐生君。美優を寝間着に着替えさせて、ベッドに横にさせたわ」


 美優先輩のためにできることが嬉しいのか、花柳先輩は嬉しそうな様子。


「ありがとうございます。この玉子焼きフライパンを使って、玉子焼きを作ってください。卵も冷蔵庫に数個ありましたので」

「分かったわ」

「エプロンは……美優先輩のを使ってください。花柳先輩なら大丈夫だと思います」

「喜んで使うわ!」


 元気に返事をする花柳先輩。その反応がとても先輩らしいなと思い、気づけば「ははっ」と声に出して笑っていた。

 花柳先輩は美優先輩の赤いエプロンを身につける。エプロンの匂いを嗅いでうっとりする姿にも彼女らしさを感じる。美優先輩が風邪を引いたからか、普段と変わりない人が近くにいることにとても安心感を覚えた。


「花柳先輩。俺からもお礼を言わせてください。美優先輩のお見舞いに来てくださってありがとうございます。これから、美優先輩の好きな甘い玉子焼きを作ってくれますし。きっと美優先輩も気持ちは元気になったと思います」


 そうお礼の言葉を言って、花柳先輩に軽く頭を下げた。

 このタイミングでお礼を言われるのが予想外だったのか、花柳先輩は一瞬目を見開き、はにかんだ。


「さっきも言ったけど、美優のお見舞いなら朝飯前だから。美優のことは恋愛的な意味でも好きだし。しっかりしている桐生君と同棲しているけど、これからも美優が体調を崩したら飛んでいくつもり」

「ありがとうございます」

「1年生のときは1人暮らしだったのもあってか、お見舞いに来たら凄く嬉しそうにしてくれて。帰ろうとしたら、もっとゆっくりしてくれていいと言うほどで」

「そうだったんですか。さっきも花柳先輩が来たのを凄く喜んでいましたもんね。花柳先輩さえよければ、今日もゆっくりとしていってください」

「ええ、そのつもりよ。あと……美優は体調を崩すと、普段よりも甘えん坊になってより可愛くなるの。声も幼い雰囲気になるし。1年生のときに何度か体調を崩して、ここへお見舞いに行ったときに分かったことだわ」

「なるほど」


 そのことは、このあけぼの荘に住む先輩方も知っていそうだ。

 俺が引っ越してきてからは、美優先輩が体調を崩したのは初めてだけど、1年生のときは何度も体調を崩していたのか。今回のように季節の変わり目とか、急に寒くなったときには体調を崩しやすいのだろうか。今後、そういうときには美優先輩の体調をより気にかけるようにしよう。


「それに、恋人の桐生君が側にいたら、今まで以上に可愛らしい美優の姿を見られるかもしれないと思って」

「そういう下心があったんですね。花柳先輩らしいですけど」

「ふふっ。それで、風邪引きの美優からは甘えられた?」


 花柳先輩はそう問いかけて、俺のことをじっと見つめてくる。今隠しても、今後しつこく訊いてくる可能性は高い。バレたときが怖いし、ここで正直に話しておこう。


「……あ、汗を舐め取ってほしいと言われました」

「……さすがは恋人。あたしは言われたことないわね」


 あんなおねだりを他の人にはしていないと分かって一安心。花柳先輩が怒っていないことにも一安心。


「それで、舐めたの? ペロペロしたの?」

「……く、首筋にキスしてほんのちょっとだけ。しないと言ったら、頬を膨らませて不機嫌な態度を取られてしまったんで。そうした後はタオルで拭きましたよ」

「なるほどね。桐生君らしい対応だと思うわ」


 納得しているのか、花柳先輩は微笑みながら頷いている。どうやら、怒られたり、お仕置きされたりする流れにはならないようだ。ほっとした。だって、この人のお仕置き、かなり痛かったことがあったんだもん。


「さてと、大好きな親友のために一肌脱ぎますか」


 そう言う花柳先輩はとてもやる気になっている。先輩は冷蔵庫を開けると、卵を2つ取り出すのであった。

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