第4話『病院』

 午前9時過ぎ。

 私服に着替えた美優先輩と一緒に、近所にある伯分寺佐藤クリニックに向かって出発する。左腕を抱きしめてくる美優先輩を支えながら。クリニックはあけぼの荘から徒歩数分のところにある。

 空はどんよりと曇っているけど、運良く雨が降っていない。俺が持っている大きな傘を使うときは来るだろうか。

 空気は冷たく、たまに吹く風が肌寒く感じる。美優先輩のことを見ると……俺の腕を抱きしめているからか微笑んでいる。


「肌寒いですね。美優先輩、大丈夫ですか?」

「リブニットのこの服は首元まであるし……コートも着ているから大丈夫だよ。それに、由弦君の腕もあったかいし」

「それなら良かったです」

「由弦君と一緒なら、どこまでも歩いて行けそうな気がするよ」

「ははっ、そうですか。健康だったら、長時間のウォーキングも良さそうですね」


 それだけ、俺の腕を抱きしめて、支えになってもらっているこの体勢が気に入っているのだろう。

 普段よりもゆっくりと歩いているため、あけぼの荘から10分近く歩いてようやく伯分寺佐藤クリニックに到着した。病院の中は暖房がかかっていて暖かい。

 ここに来ると、1ヶ月くらい前に体調を崩したことを思い出す。病院から帰って、処方された薬を飲んで寝たら12年前にタイムスリップしたんだっけ。今回、美優先輩が過去にタイムスリップする展開はあるのだろうか。

 受付を済ませ、俺達は待合室で診察を待つことに。背もたれのあるソファーなので、美優先輩は寄りかかって楽そうにしている。

 待合室には数人ほどの人がいる。中には俺のように付き添いらしき人もいるけど。診察までには少し時間がかかりそうかな。


「由弦君……あつい……」

「暖房がかかっていますもんね。とりあえず、コートを脱ぎましょうか。俺が持っていますから」

「うん」


 美優先輩からコートを脱がせ、何度か畳んで俺が持つことに。着ていたのは10分くらいだけど、コートからも先輩の甘い匂いを感じる。


「あぁ、ちょっと楽になった」


 微笑みながらそう呟くと、美優先輩は俺に寄りかかってくる。リブニットの服を着ているからか、彼女の胸の柔らかさが優しく伝わってきて。

 美優先輩の体を支えるためにも、俺は背後から左手を回して先輩の左肩を掴む。周りからはどう見られるかは分からない。でも、俺は先輩の恋人で一緒に暮らしているんだ。堂々としていよう。


「肩と背中に由弦君の温もりを感じる。気持ちいいな」

「そう思ってもらえて良かったです。俺が支えていますから安心してください」

「うんっ。……人もあんまりいないし、ここでも膝枕をお願いしようかなぁって思ったんだけど……それはいいや。これも凄く気持ちいいから」


 ふふっ、と美優先輩は嬉しそうに笑いながら、さらに俺に寄りかかってきた。ここでも膝枕してもらおうと思っていたのか。さっき、ベッドで膝枕をしたときの美優先輩、幸せそうにしていたもんなぁ。

 ――プルルッ。プルルッ。

 スマホのバイブ音が響く。


「私かもしれない。スマホを出してくれる?」

「分かりました」


 コートのポケットから美優先輩のスマホを取り出し、先輩に渡す。

 一応、自分のスマホを確認すると……メッセージやメールは一切来ていない。なので、今のバイブ音は美優先輩のスマホが鳴った音だったのだろう。


「わぁ、瑠衣ちゃんからメッセージ来てる……!」


 とても嬉しそうにそう言う美優先輩。クラスメイトで親友の花柳瑠衣はなやぎるい先輩からメッセージが来たらそりゃ嬉しいよな。土曜日の朝だし、この週末の間に遊ぼうかっていうお誘いだろうか。


「ううっ、思う通りに指が動かないよぉ。……由弦君、悪いんだけど、お断りのメッセージを送ってくれないかなぁ。課題はまだやっていないし……風邪引いているから、少なくとも今日はダメ。ごめんって」

「分かりました」


 美優先輩からスマホを受け取る。画面にはLIMEというアプリで、花柳先輩とのトーク画面が表示されていた。そこには、


『月曜に出す英語の課題をやっているんだけど、分からない問題があって。美優さえ良ければ、これからそっちに行って教えてもらってもいい?』


 というメッセージが。課題を助けてもらおうと思っていたのか。メッセージや電話で訊いても良さそうだけど、うちに来て直接教えてもらおうと考えるのが花柳先輩らしい。


『桐生です。

 今、美優先輩と一緒に病院にいます。今朝になって、美優先輩が風邪を引いてしまって。少なくとも今日は教えられないと言っています。申し訳ないです。』


 このメッセージを、美優先輩から送っていいと許可をもらった上で送信した。

 トーク画面を開いているのか、今送ったメッセージに瞬間的に『既読』マークが付く。花柳先輩のことだから、『お見舞いに行ってもいいか』とか返信してきそうだな。

 ――プルルッ。

 バイブ音が鳴ると、花柳先輩から返信が。


『美優が風邪ですって! お見舞いに行ってもいい?』

「ははっ」


 予想通りに過ぎて、思わず笑い声が出てしまった。


「どうしたの? スマホを見て笑って」

「美優先輩が風邪引いたと伝えたら、花柳先輩からお見舞いに行きたいと返信が来まして。それが予想通りだったので……」

「そうだったんだぁ。瑠衣ちゃんさえよければ、うちに来てくれると嬉しいな……」

「じゃあ、それを花柳先輩に伝えますね」


 それから、花柳先輩と何度かやり取りをし、花柳先輩がお見舞いに来ることが決定。病院から帰るときに、先輩に一言メッセージを入れることになった。


「白鳥美優さん。どうぞー」


 診察室の扉が開き、若そうな女性の看護師さんがそう呼びかけた。花柳先輩のメッセージもあってか、待ち時間があっという間だったな。

 美優先輩と一緒にゆっくりと立ち上がり、彼女に肩を貸しながら診察室の中へと入る。

 デスクの側にある椅子に、このクリニックの院長である佐藤先生が座っていた。背筋がピンとしており、肌ツヤはいいけど、後ろで結ばれた髪は白髪がほとんど。凜とした雰囲気もあって、実年齢の見当が全くつかない女性医師だ。花柳先輩は小さい頃から会っているそうなので、それなりの年齢ではあるんだろうけど。


「こんにちは、美優ちゃん。今回は恋人の桐生君と一緒なんだね」


 佐藤先生は低めの落ち着いた声でそう言うと、穏やかな笑みを浮かべる。


「土曜日で学校がお休みなので……由弦君についてきてもらいました。頭がクラクラするので一人で歩くのが辛くて。由弦君の支えは心強いです」

「ははっ、なるほどね。学校で何度も告白されているって前に言っていたけど、ついに恋人ができたんだね」

「……はい。色々と事情があって、3月末から彼と一緒に住んでいて。ゴールデンウィーク前に彼に告白されて……今は同棲になるんですかね~」

「それはいいねぇ! 桐生君素敵だもんねぇ!」


 うふふっ、と美優先輩と佐藤先生の笑い声が診察内に響き渡る。2人の声の高さが違うのでいい具合にハモり、とても聞き心地がいい。

 美優先輩は去年、伯分寺に引っ越してきたけど、佐藤先生と仲がいいんだな。ここの病院に来たきっかけが親友の花柳先輩の紹介だったので、それが大きいのかも。


「さてと、そろそろ本題に入ろうか。美優ちゃんは今、どんな症状があるのかな。頭がクラクラするとは言っていたね」

「はい。熱を測ったら……38度7分ありまして。あとは……喉の調子も悪いです」

「なるほど。それはいつからかな。昨日から梅雨入りしたし、昨日は結構寒かったからね」

「梅雨寒だったのか、昨日の夜から寒気を感じるくらいで、体調はまだ良かったです。なので、由弦君と温かくて気持ちのいい夜を過ごしたんですけど……えへへっ」


 まったく、美優先輩は……熱にうかされているからか、昨日の夜のことを話しちゃって。そのときのことを思い出してしまい、体が急に熱くなってきた。こんなに熱くなるってことは……俺も風邪を引いちゃったかな。

 佐藤先生は右手を口に当てながら笑っており、近くにいた看護師さんは頬をほんのりと赤くしながら俺達を見ている。


「2人は仲がいいんだね。昨日の夜は元気だったと。じゃあ、具合が悪くなったのは夜中か今朝になってからかな?」

「一度、寒くて夜中に目を覚ましましたけど……そのときはまだ大丈夫でした。ただ、今朝になったら……具合が悪くなっていたんです」

「なるほど」


 そう相槌して、佐藤先生は電子カルテに美優先輩が言った内容を打ち込んでいる。


「きっと、昨日からの梅雨寒で体が冷えて、それで体調を崩したんだろうね。じゃあ、聴診器を当てたり、喉の様子を確認したりしよう。……桐生君。美優ちゃんの服を胸元のあたりまで上げてくれる?」

「お、俺がやるんですか?」

「同棲している彼氏がここにいるんだ。それに、桐生君の話をしているとき、美優ちゃんはとてもいい笑顔をしていたから」

「私も先生と同じ意見です! コートはこちらのカゴに入れて、彼女さんの服を脱がせちゃってください!」


 そんなに大きな声で言わないでくれませんか、看護師さん。他の職員や待合室にいる患者さんに変な誤解を与えそうだ。

 美優先輩はゆっくりと俺の方に振り返る。


「……由弦君にしてほしいな。由弦君に脱がせてもらうのは好きだし……」


 頬を赤くし、妖艶な笑みを浮かべながら美優先輩はそう言った。イチャイチャするときなど、たまーに美優先輩の服を脱がせることがあり、それを嬉しいと思ってくれることは嬉しいけど、ここで言われると恥ずかしい。どうやら、美優先輩は体調を崩すと、TPOをあまり考えずに色々と言ってしまうと分かった。


「じゃあ、俺がやりますね」


 美優先輩のコートをカゴに入れて、俺は後ろから美優先輩が着ているリブニットの服とインナーを胸のあたりまでめくり上げる。


「こんな感じでいいですか?」

「バッチリよ。じゃあ、聴診器を当てるわね」

「はい」


 佐藤先生は美優先輩の胸の辺りに聴診器を当てていく。聴診器が冷たいのか、当てられたときに美優先輩は「ひゃあっ」と可愛らしい声を漏らす。


「おっ、桐生君に服をめくってもらっているからか、心臓がとても元気だね」

「……ドキドキしてます」

「ふふっ。次は肺の方ね。はい、深呼吸して……」


 それからも、佐藤先生の指示に従って、美優先輩は聴診を受けていく。

 背中の方に聴診器を当てる際、美優先輩は俺と向かい合う形になる。こういうときに思ってはいけないのかもしれないけど、服を胸元まで捲り上げている美優先輩の姿はとても艶やかに見えた。

 そして、美優先輩の聴診と喉の様子が終わり、


「うん、心臓と肺は問題ないね。ただ、喉が赤い。これは立派な風邪だね」

「……ですよね」


 美優先輩のその反応に、佐藤先輩は「ふふっ」と上品に笑う。そういえば、1ヶ月前に俺が体調を崩したときも「立派な風邪」だって診断されたな。どういう意味で立派なのか。


「3日分の薬を出すからね。それをちゃんと飲んで、体を温かくしてゆっくり休むように。そうすれば、月曜日には学校に行けるようになると思うわ。もし、薬を飲みきっても体調が悪かったら、また来てね」

「分かりました。ありがとうございました」

「ありがとうございました」

「お大事に~」

「彼氏さんに甘えちゃってくださいね」


 看護師さんのその言葉に、美優先輩は「えへへっ」と嬉しそうに笑う。

 先ほどと同じように美優先輩に肩を貸して、俺達は診察室から出て行くのであった。

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