第11話『催眠-後編-』
ゴキブリという正式名称を聞くことさえ嫌がっていた美優先輩。そんな先輩が、とても楽しそうな様子でゴキブリの画像を映した俺のスマホを見ている。
「す、凄いよ由弦! 大のゴキブリ嫌いの美優先輩が……」
「久しぶりにやってみたけど、見事に成功したなぁ。美優先輩は催眠術にかかりやすい体質なのかも」
「だからって、美優先輩に変なことをさせようとしちゃダメだよ?」
「もちろん、そんなことはしないさ」
一瞬、催眠術を使えば色々なことができそうだと考えてしまったけど。美優先輩にしてほしいことがあるときは、ちゃんとお願いしよう。
「あの、美優先輩」
「何かな、風花ちゃん」
「確認ですけど、美優先輩はゴキブリが大好きですか?」
「うんっ!」
淀みのない笑顔で返事をして、しっかりと頷く美優先輩。ちゃんと催眠術にかかっているようだ。
ちなみに、目の前で両手を強く叩いて「パンッ!」と鳴らせば、催眠術を解くことができる。テレビ番組では、これを『解除の儀式』と言っていた。
「まさか、由弦に催眠術をかける技術があるとはね」
「テレビで紹介された方法を試しただけだよ。かけられる人の個人差もあって、雫姉さんには全然かからなかったし。俺も注射や水泳のことで姉さんに催眠術を頼んだけど、全然ダメだった」
「それでも、催眠術をかけることができたんだから凄いよ。……もしかしたら、定期試験の前に、由弦に『苦手な科目でも高得点が取れる』って催眠術をかけてもらえば、結構いい点数を取れるんじゃ……?」
「催眠術で苦手意識をなくして勉強していけば、内容がすんなりと頭に入って、試験でも高得点を取れるかもね」
ただ、催眠術を解いたら、かかっている間に勉強した内容を忘れてしまう可能性もありそうだけど。
「由弦君。スマホでゴキブリさんの画像を見せてくれてありがとね」
「いえいえ」
「……あっ、美優先輩! 窓の近くの壁にゴキブリがいますよ!」
「えっ、うそ!」
風花の指さす先には……確かに壁を登っているゴキブリの姿が。キッチンにさっき出たゴキブリよりもかなり大きいぞ。写真は大丈夫だったけど、実物を見たらどういう反応を――。
「わーい! ゴキブリさーん!」
嬉々とした様子で椅子から立ち上がり、早足でゴキブリのいるところへ向かう。そして、右手で素早くゴキブリを掴み取った。
「見て見てー、ゴキブリさん捕まえたよー」
美優先輩はゴキブリのお腹の部分を見せて俺達のところに戻ってくる。ゴキブリを捕まえられたからか、催眠にかけてから一番の笑顔になっている。その姿はまるで虫好きの少女のようだ。
「立派なゴキブリですね。風花もそう思わないか?」
「そうだね。凄いな……」
風花の言った「凄い」はゴキブリの立派さだけじゃなく、美優先輩が催眠術にかかったことにも言っているような気がした。
この催眠術は時間が経つに連れて、自然と効果が薄れていく。催眠術にかかっている間にゴキブリの写真を見せたり、今のように実際に触れたりすれば、催眠術の効果が切れても、かける前に比べてゴキブリには強くなるだろう。
ちなみに、心愛にかけた催眠術は、苦手な野菜に慣れるためにも、すぐに解くことはしなかった。しばらく経ってから、心愛に解除の儀式を行なったけど、多くの野菜についてはそのまま食べられるようになっていた。
「美優先輩、証拠……じゃなくて、記念に写真を撮っていいですか?」
「もちろんだよ! 風花ちゃん!」
風花は食卓に置いてあったスマホを手に取り、美優先輩に向ける。右手には今もゴキブリを掴んでいるので、左手でピースサイン。
「撮りますよー」
「はーい」
そう言うと、美優先輩は白い歯を見せた。
――プルルッ。
すると、すぐに俺のスマホが震える。
確認すると、LIMEで風花からさっそく写真が送られていた。写真に写っている美優先輩はゴキブリを素手で掴み、ピースサインをしながら爽やかな笑みを浮かべている。催眠術が見事にかかったことを象徴する写真だな。保存しておこう。
「ありがとう、風花」
「いえいえ」
「ねえねえ、由弦君、風花ちゃん」
「何ですか、美優先輩」
「どうかしましたか?」
「ゴキブリさんって美味しいのかな?」
『えっ』
風花と声が重なったのが分かった次の瞬間、全身に悪寒が走った。風花も同じなのか、顔が青白くなる。
「美優先輩。その……た、食べたいんですか?」
「うんっ! 今まで食べたことないから、凄く興味があるの。地域によっては虫を食べる習慣もあるし、日本でも昆虫食が注目されているんだよ? さすがに生で食べるのは勇気がいるから、焼いたり、茹でたり、揚げたりして調理すれば食べられるかなって……」
それを普段と変わらない優しい笑顔で言うところが恐い。もしかして、本能には今までゴキブリに怖い目に遭ったことの恨みがしっかりと刻まれており、催眠術をかけてもカバーできないのかな。
美優先輩の言うことが分かるのか、先輩に捕まえられているゴキブリは脚を激しく動いている。助けてくれと言っているように思える。
「外国にいるゴキブリさんは分からないけど、日本の東京にいるこのゴキブリさんは、まさか自分が人間に食べられちゃうなんて想像してなかっただろうね。いつかは人間も何かの生き物の主食として食べられちゃうのかもね……」
ふふっ、と美優先輩の笑い声がリビングに響き渡る。ゴキブリだけならまだしも、人間が食される可能性について語り始めるとは。
風花の顔色がさらに悪くなり、ついには体が震え始める。風花は俺の着ているワイシャツの裾を掴み、
「由弦、このままだとまずいよ。ゴキブリ好きの方向が、確実にダークな方へ向いてる。人間が食べられることも話し始めているし、このままだと美優先輩の心が壊れちゃうかも。あのゴキブリのためにも、早く催眠術を解いた方がいいよ」
俺にそう耳打ちしてきたのだ。風花と目が合い、俺達は一度頷き合う。
「そうだな。美優先輩とあのゴキブリのためにも、早くゴキブリを外に逃がして、解除の儀式を行なおう」
「それがいいね」
今までの人生で、こんなにもゴキブリを慮ったことはないな。きっと、これからの人生でも、こういった場面に出くわすことは二度とないだろう。
「美優先輩、そのゴキブリを逃がしてあげましょう。大好きなゴキブリを食べたい気持ちも分かりますけど、ゴキブリも生き物ですし、今もかなり元気に脚を動かしています。外に出して、自然の中で自由に暮らさせてあげませんか?」
俺がそう言うと、美優先輩の顔から笑みが消える。食べるのは止めて、外に出してあげるのが嫌なのかな。ゴキブリを食すことにかなり興味を示していたからなぁ。
う~ん、と美優先輩は考え、
「まあ、由弦君の言うことも一理あるね。じゃあ、外に逃がしてあげよう」
笑顔でそう言ってくれた。先輩は窓を開け、ゴキブリを外に逃がす。その様子を見て風花と俺はほっと胸を撫で下ろした。
「ゴキブリさん! ばいばい!」
美優先輩はゴキブリに大きく手を振っていた。ゴキブリに手を振る女子高生はそうそういないだろう。あと、先輩が逃がしたゴキブリは、二度と人の前に姿を現さないと思う。
ゴキブリとお別れしたからか、部屋の中に戻ってきた美優先輩は寂しそうにしていた。俺はそんな先輩の目の前に立ち、
「美優先輩」
「うん?」
――パンッ!
美優先輩の顔のすぐ近くで、俺は両手を思い切り叩き、解除の儀式を行なった。そのことで美優先輩が意識を失い、俺に向かって倒れてきたので、俺は先輩を抱き止める。
「意識を失ったってことは、催眠術が解除されたの?」
「多分ね。意識を取り戻したら、ゴキブリの画像を見せてみよう」
「分かった。あたし、用意しておく」
「ありがとう」
「……うんっ……」
催眠術をかけたときと同じように、美優先輩はすぐに意識を取り戻した。
「由弦君……」
「……おはようございます、美優先輩」
「先輩! この画像を見てください!」
風花は俺達に向かってスマートフォンを見せてくる。そこには画面いっぱいにゴキブリの画像が映し出されていた。
美優先輩の顔色が見る見るうちに青白くなり、
「きゃあっ!」
可愛らしい声を上げ、俺を抱きしめて顔を胸の中に埋めた。そう反応してくれることに凄く安心するなぁ。そう思いながら、美優先輩の頭を優しく撫でる。
「画像だって分かっていても、実物より大きいと凄く怖いよ」
「そうですか。美優先輩には申し訳ないですが、そういう反応をしてくれて良かったです。なあ、風花」
「ええ。催眠術にかかっているときの美優先輩、何だか恐かったですもん」
「……私、由弦君に催眠術をかけてもらっていたんだよね。全然思い出せないよ」
「かかっている時間や内容、あとは個人差もあって、催眠術が解かれると催眠中のことを覚えていない人がいるそうです」
「そうなんだね」
ちなみに、心愛の場合はすぐに催眠術を解かなかったので、催眠にかかっていたときの記憶はしっかりと残っていた。
「でも、催眠術にかかったからか、前に比べるとちょっとだけ怖くなくなった気がする」
「それなら良かったです」
「催眠術の効果、少しはあったみたいですね。まあ、催眠術にかかっている間の美優先輩はGが大好きでしたからね。その証拠に……」
風花はさっき撮影した、ゴキブリを掴んで笑顔になっている美優先輩の写真を先輩に見せる。それを見た美優先輩はギョッとした様子になり、「えっ」と声を漏らす。
「これが私なの? ていうか、キッチンに出たG以外にもGがいたの?」
「そうです。美優先輩は楽しそうに素手でGを捕まえました。それで、催眠術にかかった証拠に、あたしがスマホで撮ったんです」
「そう、なんだ……」
「Gが好きすぎて、熱を通して食べてみたいと言っていたくらいですよ?」
「あり得ないね、いつもの私なら。それだけ、由弦君の催眠術が凄かったんだ。私がかかりやすい体質だったのかもしれないけど。……まさか、食べてないよね?」
「食べてませんよ。俺が説得して外に逃がしました」
「良かった……」
美優先輩、物凄くほっとしているな。体の中に大嫌いなゴキブリがいたら、それはとっても嫌だろう。もし食べていたら、今すぐに洗面所で吐き出していたんじゃないだろうか。
「……でも、Gを触っちゃったんだ。洗ってこようっと」
すると、美優先輩は俺への抱擁を解き、キッチンへと向かう。そして、シンクで手を洗い始める。泡の出る石鹸をたくさん出して、念入りに手を洗っているな。大嫌いなゴキブリを触っていたからなぁ。
数分ほど手を洗った後、美優先輩はリビングに戻ってくる。
「これで大丈夫だと思う」
「美優先輩、すっごく手を洗っていましたね」
「だって、Gを素手で触ったんだよ、風花ちゃん! ちゃんと洗わないと」
ゴキブリを食べようとしていた美優先輩を見たから、今の先輩を見ると本当に安心するよ。
「美優先輩。さっき、俺達が言ったように、怖いものや嫌いなものがある人は多いですよ。風花はクモが大嫌いです。俺だって注射が大嫌いですし、よく吠える犬は苦手です。少なくとも、俺も家にいるときにGを見つけたときは、すぐに助けに行きますから。俺は美優先輩と一緒に住んでいる恋人なんですから」
「由弦君……」
「俺のマグカップを落としてしまったことにショックを受ける気持ちは分かります。ただ、驚いたことで物を壊してしまったら、それは仕方がありません。ただ、そういったことがあまりにも多かったら……まあ、そのときはちゃんと話し合いましょう」
「……うん!」
すると、美優先輩はとても嬉しそうな笑みを浮かべて、俺のことをぎゅっと抱きしめてくる。催眠がかかっていない状態で、ここまでの笑顔をまた見せてくれて良かった。そう思いながら、左手を美優先輩の背中に回し、右手で頭を撫でる。
「とりあえずは一件落着ですかね。あと、美優先輩。由弦に催眠術にかけられないように気を付けてくださいね。厭らしいことをするかもしれません」
「そ、そうなの?」
「さっきも言ったけど、そんなことをするつもりはないよ、風花」
「由弦君はしないタイプだと思うけどなぁ」
美優先輩は笑顔でそう言ってくれる。あぁ、この人が俺の恋人で良かった。
「由弦君だったら、催眠術をかけなくても頼んでくれれば……で、できるだけ厭らしいことにも応えるつもりだよ? それに、催眠術にかかったときの記憶は飛んじゃうみたいだし。厭らしいことでも、記憶が飛ぶのは嫌だな……」
「美優先輩らしいですね」
あははっ、風花は声に出して笑っているけど、美優先輩に呆れているようにも見えた。もし、花柳先輩も今の美優先輩の話を聞いたら、風花と同じような反応をしただろうな。
「何かしてほしいことがあったら、美優先輩にちゃんと言いますね」
「うん! 私もしてほしいことは由弦君に言うね」
「分かりました」
「……約束だよ」
その誓いのキスなのか、美優先輩から唇を重ねてくる。
美優先輩からしてみたいことを言われたとき、今のようにキスをされたら、きっと断れないだろうなと思うのであった。
その後は、タイムセールに合わせて近所のスーパーで買い物をしたり、明日から着る夏服の用意をしたりと、美優先輩と一緒に充実した日曜日の時間を過ごすのであった。
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