第10話『催眠-前編-』

 朝食の後片付けが終わった後、俺は2人分の麦茶を用意し、美優先輩と風花のところへ持っていく。


「朝食の後片付け、終わりました。2人に麦茶を持ってきました」

「サンキュー、由弦」

「……ありがとう、由弦君」


 2人の前に麦茶の入ったコップを置く。

 美優先輩は……さっきよりは明るい表情になったけど、いつもに比べたら程遠い。


「美優先輩。気分はどうですか?」

「……さっきよりは落ち着いた。由弦君のマグカップは割れていなかったし、風花ちゃんが側にいてくれているし」

「それなら良かったです。浴室の掃除を途中でほったらかしにしてあるので、それもしてきますね。美優先輩は風花と一緒にゆっくりしていてください」

「……うん」


 美優先輩が小さく頷いたのを確認して、俺は浴室の掃除を再開する。

 大嫌いなゴキブリと出くわし、俺のマグカップをシンクに落としたダブルショックを受けたのはもちろんのこと、これからはゴキブリと出くわす可能性が特に高い時期だ。それもあって、なかなか元気を取り戻せないのだろう。

 浴室の掃除を終わらせて、リビングに戻ると、美優先輩が風花に膝枕してもらっていた。談笑しているし、微笑ましい光景だ。


「浴室の掃除も終わりました」

「……ありがとう」


 美優先輩は体をゆっくりと起こし、俺の頭を優しく撫でてくれる。そのときの先輩は切なげな笑みを浮かべていた。


「由弦君、ごめんね。Gが苦手なせいで迷惑掛けちゃって。風花ちゃんにも心配掛けちゃったね」

「気にしないでください。それに、苦手なものがある人は多いですよ」

「由弦の言う通りですよっ! あたしもクモが苦手ですし、大きなクモが出たら驚いて、何もできなくなっちゃう自信がありますね!」


 そこに自信を持たなくてもいい気がするけど。ただ、クモに驚いた風花を助けた経験があるので風花らしいとは思う。


「これからはGが特に出やすい時期になる。だから、驚くこともかなり多くなると思う。今回はマグカップが割れなかったから良かったけど、いつかは割っちゃう気がして。それが怖いの」

「美優先輩……」

「小さい頃もGは嫌いだったけど、退治しようってまだ立ち向かえた。でも、あるとき……壁にいたGをスリッパで叩き潰そうとしたら、突然、私の方に向かって飛んできて。顔に付いて。それがトラウマで、大嫌いになったの」

「飛ぶのは怖いですよね。あたしも、Gが飛んだときには『ぎゃーっ!』って思いましたもん」


 美優先輩を少しでも元気づけようとしているのか、風花のリアクションが大げさだ。

 そういえば、雫姉さんと心愛も、ゴキブリの素早い動きと飛ぶところが大嫌いだと言っていたな。突然、自分の方に向かって飛んできて顔に付いたら、そりゃトラウマにもなるし、大嫌いにもなるか。


「Gを好きになることはきっとないと思う。ただ、せめても……今回のようなことを起こさないためにも、ちょっとでも強くなりたい。でも、きっと……実際にGと会ったら、驚いて大きな声を出しちゃうんだろうな。それで、今回みたいに危うく物を壊しそうになったり……」


 そう言う美優先輩の両眼に再び涙が浮かび上がる。

 俺のマグカップを落としたのが相当ショックだったんだな。ただ、ちょっとでも強くなりたいと思える気持ちがあるのは希望だ。これなら、あれの効果がありそうな気がする。


「美優先輩。Gに対して強くなるいい方法があります」

「それってどんなこと?」

「……催眠術です」

「えっ」

「はあっ?」


 驚いたのか、美優先輩は目をまん丸くさせて俺を見つめている。隣に座っている風花は「何言ってるの? 由弦」と言いたげな表情をしている。まあ、突然いい方法があると言われ、それが催眠術だと分かったらそういう反応になるか。


「何言ってるの? 由弦」

「……そういう言葉を言われるって覚悟はしていたけど、一語一句、予想通りの言葉を言われちゃうと何とも言えない気分になるな」

「あたしの反応を想像したってことは、今のは美優先輩を元気にさせるためのボケなの?」

「いや、ガチだよ」

「えー、マジでガチなんだ……」


 風花、俺に引いているように見えるんだけど。だからなのか、美優先輩が苦笑いを浮かべている。


「俺が小学生の頃に見たバラエティ番組で催眠特集をやっていて。五円玉を使った催眠方法が紹介されていたんです。五円玉の振り子のやつなんですけど」

「王道の催眠術だね。漫画で読んだことある」

「あたしもアニメで観たことありますね。ねえ、由弦。さっき……ガチだって言っていたけど、これまでに催眠術を掛けた実績があるの?」

「小さい頃の心愛にかけたことがあるよ。元々、心愛は嫌いな野菜が多くてさ。催眠術をかけて人参や玉ねぎ、ほうれん草などを克服できたんだ。ピーマンについてはあまり効果がなくて、一口食べるのがやっとだったけど」


 ちなみに、雫姉さんにも同じように、嫌いなものが食べられる催眠術をかけようとしたけれど、体質なのか全くかからなかった。

 俺自身も放送直後にカナヅチを直したり、注射嫌いを克服したりするために、雫姉さんに催眠術を掛けてもらおうとしたけど、全然かからなかったな。


「あまり成功しないパターンも言ってくれると、由弦の催眠術話も信じられますね」

「そうだね、風花ちゃん。由弦君、さっそく私に催眠術をかけてください!」

「分かりました。五円玉の振り子を作るので、美優先輩はたこ糸を用意してくれますか?」

「うん!」


 その後、俺は自分の財布に入っていた五円玉と、美優先輩が用意してくれたたこ糸を使って、五円玉の振り子を作った。

 催眠術をかけやすいように、俺達は食卓へ移動する。俺と美優先輩は食卓を挟んで向かい合う形で座る。うっかりかかってしまわないように、と風花は俺の隣の椅子に腰を下ろした。

 催眠術をかけるのは数年ぶりだけど、上手くいくといいな。


「美優先輩、催眠術をかけ始めますね」

「よろしくお願いします」

「催眠術がかかりやすくなるように、Gについては正式名称であるゴキブリと言います」

「……う、うん。分かった」


 前に正式名称では言わないでと言っただけあって、一度ゴキブリと言っただけで美優先輩の顔色がちょっと悪くなったな。

 振り子の糸の部分を右手で掴む。


「美優先輩。五円玉をじっと見てください。左右に揺らしますので、五円玉を目で追ってくださいね」

「はい」


 美優先輩の視線が、振り子の先に付いている五円玉に向けられているのを確認し、俺は五円玉を左右に揺らし始める。すると、先輩の視線も左右に動き始めていく。


「美優先輩。ゴキブリはこの世にたくさんいる虫の中の一種類でしかないんです。先輩はそんなゴキブリがとーっても好きなんですよ」

「……話し方のせいか、由弦が段々と詐欺師に見えてきたよ」


 事情を知らない人が今の光景を見たら、俺のことをヤバいことをやっている奴だと思いそうだな。風花のように詐欺師と思う人もいるかも。


「美優先輩、そのまま五円玉を見ながら、これから俺が言うことを復唱してくださいね。私はゴキブリが大好き」

「私は……ゴ、ゴキブリが大好き……」

「私はゴキブリが大好き」

「私は……ゴキブリが大好き……」

「私はゴキブリが大好き」

「私はゴキブリが大……しゅきぃ……」

 ――ゴッ。


 美優先輩は食卓に突っ伏してしまった。その際に鈍い音が響く。


「ゆ、由弦! 美優先輩、意識を失っちゃったよ! 大丈夫なの? おでこを食卓にぶつけたし」

「これで大丈夫だよ。紹介していた番組でも意識を失っていたし、心愛に催眠術をかけたときも意識を失ってた」

「そうなの? ということは、美優先輩は催眠術にかかった可能性があるんだね」

「ああ、そうだ」


 催眠術を掛けるのは久しぶりだけど、とりあえずここまでは順調だな。


「うんっ……」


 美優先輩は顔をゆっくりと上げて、「う~ん!」と声を漏らしながら体を伸ばす。

 催眠術がかかっているかどうかを確認するため、俺はスマホでゴキブリの画像を検索。画面いっぱいにゴキブリの画像を表示させる。それを見た風花は「それはヤバいんじゃ……」と言葉を漏らす。


「美優先輩。この画像を見てくれますか?」


 俺はゴキブリの画像を表示させたスマホの画面を美優先輩に見せる。すると、


「うわあっ、ゴキブリさんだぁ!」


 美優先輩はとても嬉しそうな笑みを浮かべる。俺のスマホを手に取って、食い入るようにして見ている。そんな先輩のことを風花は驚いた様子で見ている。

 どうやら、美優先輩への催眠術は成功のようだ。

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