第9話『vs.G-夏の陣-』

 6月2日、日曜日。

 目を覚ますと、部屋の中がうっすらと明るくなっていた。

 壁に掛かっている時計を見ると、針が午前7時過ぎを指している。昨日は霧嶋先生の家に行って掃除をしたり、夏のスタートイチャイチャをしたりして体を動かしたからよく眠れた。だから、スッキリとした目覚めだ。


「むにゃ……」


 美優先輩のとても可愛い声が聞こえたのでそちらを向いてみると、先輩が俺に寄り添いながら気持ち良さそうに寝ている。そういえば、左腕が何か温かくて柔らかいものに包まれている感じがする。


「おおっ」


 掛け布団を少しめくってみると、何と……俺の左腕が美優先輩の胸に挟まっているではありませんか。それが分かった瞬間、左腕が気持ち良く思えてきた。これだけで今日は一日元気に過ごせそうな気がする。


「由弦君。うちに子猫ちゃんがたくさん遊びに来たよ……」


 微笑みながらそんな寝言を言う美優先輩。

 子猫がたくさん遊びに来た……か。それはサブロウと茶トラ猫の子供なのかな。ベランダで仲良く体を舐め合っていたり、食事をしたりしていたからなぁ。美優先輩の見た夢が正夢になる日が来るかも。


「それで、私達の子供たくさん産まれたよ、由弦君……」


 えへへっ、とさっきよりも嬉しそうに笑いながら寝言を言う美優先輩。

 私達の子供……か。昨日の夜はたくさん夏のスタートイチャイチャをしたからなぁ。その際、できてしまわないように対策したけど。

 美優先輩との間に子供が産まれ、子だくさんな家庭を築く未来が来るのだろうか。ただ、子供は授かり物とも言うし、子供ができない未来もあり得る。どのような未来になっても、美優先輩を幸せにしたいな。そう思いながら、先輩の頭を優しく撫でる。


「うんっ……」


 美優先輩はゆっくりと目を開け、俺と視線が合うと柔らかな笑みを浮かべる。


「おはよう、由弦君」

「おはようございます、美優先輩。起こしてしまいましたか? 先輩の頭を撫でたので」

「ううん、そんなことないよ~。むしろ、凄く気持ちのいい目覚めだった。あと、何を見たのか忘れちゃったけど、とても素敵な夢を見た気がするの」

「寝言で言っていましたけど、子猫がたくさん遊びに来たり、お……俺達の子供がたくさん産まれたりしていました」


 寝言をありのままに伝えると、美優先輩は頬をほんのりと赤くしてはにかむ。


「猫の方は、サブちゃんと茶トラ猫ちゃんの子供かな」

「そうかもしれないですね」

「……夏のスタートイチャイチャをたくさんしたから、そんな夢を見たのかもね」

「俺もそう思っています」

「正夢になるのかなぁ。でも、私達次第で色んな未来が待っていると思う。ただ、由弦君が側にいてくれるなら、私は由弦君と一緒に幸せになれる自信があるよ」


 美優先輩らしい優しい笑みでそう言ってくれる。そのことに安心感を覚える。


「美優先輩がそう言うと、一緒に幸せになれるだろうなって思えます。……先輩におはようのキスをしてほしいです」

「もちろんだよ。おはよう、由弦君」

「おはようございます。美優先輩」


 挨拶を交わすと、美優先輩は顔を近づけ、そっと唇を重ねてきた。左腕を胸に挟まれているから、先輩の唇は胸に負けないくらいに柔らかくて温かいと思えるのであった。




「ん~! 甘くて美味しい!」


 今日の朝食は俺の作ったフレンチトーストと生野菜のサラダ。

 自分の作った食事を、恋人に美味しいと言ってもらえるのは嬉しいな。特にフレンチトーストは個人的に難しくて、実家にいた頃は何度も失敗した料理だから。


「ありがとうございます。実家でたくさん練習した料理なので、とても嬉しいです」

「そうなんだね。それを聞いたら、より美味しく思えてきたよ」

「ははっ、そうですか。……うん、美優先輩が美味しいと言ってくれたおかげで、今までで一番美味しくできた気がします」

「そう言ってくれると、嬉しいし照れちゃうな」


 えへへっ、と照れ笑いして、美優先輩はフレンチトーストをまた一口。美味しいっ、と呟くところがとても可愛らしかった。

 朝食を食べ終わって、後片付けは美優先輩がすることに。その間に、俺は浴室の掃除をする。

 浴室に入るとボディーソープの残り香がほんのりと感じられ、そのことで昨晩に美優先輩と一緒に入浴したときのことを思い出す。

 ここの湯船は、2人で入るにはちょっと狭いけど、美優先輩と一緒なら、むしろそれが良かったりする。昨日ももちろん一緒に湯船に入って、とても気持ち良かった。

 例年、夏になると湯船に入る時間はかなり短くなる。でも、今年は……先輩とゆっくり入ることが多くなるかもしれないな。


「きゃあああっ!」

 ――ガンッ!


 美優先輩の悲鳴と、何か物が落ちた音が聞こえたぞ!

 俺は急いで美優先輩のいる台所へ向かう。

 すると、そこには怯えた表情で、リビングの方を向きながらしゃがみ込んでいる美優先輩の姿があった。そんな先輩の体は小刻みに震えている。


「大丈夫ですか、美優先輩。ケガとかはありませんか?」

「……うん、大丈夫だよ。ケガはない」

「それは良かったです。ところで、何があったんですか? 凄い声が浴室まで聞こえましたけど。あと、何かを落とす音も」


 起きてからずっと、美優先輩は笑顔が絶えなかったのに。本当に何があったんだ。

 美優先輩はしゃがんだままシンクの方を指さした。


「……で、出たの。アイツが……Gが!」

「……出てしまいましたかぁ」


 これからはG……ゴキブリが出やすい時期になるからな。

 美優先輩はゴキブリが大の苦手。引っ越して間もない時期に出くわしたとき、先輩は今日のように凄く驚いていた。あのときは入浴中で、全裸の状態で俺に抱きついてきたな。悲鳴を聞いて駆けつけた風花にその光景を見られて変態認定され、一発、お腹に拳を入れられたっけ。


「Gを見つけたときはちょうど、由弦君のマグカップを洗っていたときで。驚いてシンクに落としちゃったの。物が落ちた音はそれだと思う」

「そうだったんですね」

「Gは怖いけど、水だけは何とか止めたんだ。ごめん、マグカップが割れてたら……」


 俺を見る美優先輩の両眼には涙が浮かんでいた。そんな美優先輩の頭を優しく撫でる。


「気にしないでください。形あるものは、ふとしたことで壊れてしまうときだってあります。先輩のケガがなくて本当に良かったです。さっさとGを退治しちゃいますね。美優先輩はソファーで休んでいてください」

「……うん」


 俺は美優先輩をソファーに連れて行く。Gに遭遇しただけじゃなく、俺のマグカップを落としたからか、先輩はかなりがっかりしているな。

 キッチンに行くと、コンロの側の壁にゴキブリの姿が。あいつが美優先輩を驚かせたんだな。

 俺は右手でゴキブリを掴み取り、素早くベランダに向かう。


「自然の中でのびのび暮らせよ」


 そう言って右手を離すと、ゴキブリは大空へと羽ばたいていった。


「お父さんやお兄ちゃんもゴキブリを外に逃がすタイプだったけど、ゴキブリにそんな言葉をかけることはなかったな」


 すぐ近くで風花の声が聞こえたので、隣のベランダを見ると、そこには水色のノースリーブシャツ姿の風花が立っていた。


「風花、おはよう」

「おはよう、由弦。さっき、美優先輩の悲鳴が聞こえたけど、その原因はやっぱりゴキブリだったんだね」

「ああ。朝食の後片付け中に見つけちゃって。そのときに俺のマグカップをシンクに落としちゃったみたいで。割れているかどうかは確認していないんだけど、そのことにもショックを受けてさ。今はソファーでゆっくりしてもらってる」

「そうだったんだ。……そっちに行ってもいい?」


 優しい笑みを浮かべながらそう言う風花。きっと、美優先輩に寄り添うためだろう。


「……分かった。鍵は開けておくよ」


 中に戻ると……美優先輩は未だにしょんぼりとしている。それだけショックが大きかったんだな。

 左手で美優先輩の右肩をポンと叩き、


「台所にいるGは退治しました。安心してください。シンクと浴室の掃除は俺がやりますね」

「……うん、ありがとう」


 俺に向けて微笑んでくれる美優先輩。


「あと、風花がここに来てくれますけど……良かったでしょうか?」

「……大丈夫だよ」

「分かりました」


 玄関の鍵を開けて、俺はキッチンに向かう。

 シンクを確認すると、俺のマグカップが転がっていた。手にとって、割れているところや、破損しているところがあるかどうか確認すると……そういったところはないな。試しに水を満杯にしてみるけど、漏れ出ることもない。


「美優先輩。俺のマグカップは大丈夫でした」


 リビングの方を向くと、そこには既に風花の姿があった。風花は俺に小さく手を振ってくれる。

 その直後に美優先輩がこちらに振り向いてくれた。先輩は微笑んだまま、ほっと胸を撫で下ろす。


「良かったですね!」


 と風花が元気に言うと、美優先輩の隣に座る。これで少しずつ元気になっていくといいなと思い、先輩が途中までやっていた朝食の後片付けを引き継いだ。

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