エピローグ『思い出になっていた。』
美優先輩は幼い頃に麻子さんのマグカップを割ったときのことについて、今日の午後にふと思い出した内容があるという。
「美優先輩。どんなことを思い出したのか、俺達に教えてくれませんか?」
「いいよ。……お母さんに叱られた私は家を飛び出したんです。気付いたときには、一度も来たことのない公園にいまして。そこの公園のベンチに、高校生くらいの若い男性が寝ていて。その方とお話しして、家まで送ってもらったんです。助けてくれたその男性は、私の実家の近所に住んでいる友人と遊ぶ約束をしていたそうで。顔や名前は全然思い出せないんですけど、話し方が由弦君によく似ていたなって」
家まで送ってくれた人のことを思い出そうとしているのか、美優先輩は俺を見つめてくる。
体温を測るときや汗を拭いてもらうとき、美優先輩はそれまでと変わらずに俺と接していた。だから、あの出来事は俺の見た夢だと思っていた。まさか、俺は本当に12年前へタイムスリップしていたのか?
「そうだったのね。美優は男子が苦手な方だから、そんなエピソードがあるなんて意外だわ」
「きっと、当時の美優先輩にとって、その男性はとても信頼できそうな方だったんでしょうね」
「とても優しかったのは覚えてる。当時、朱莉がまだ赤ちゃんで、お母さんは朱莉の方ばかり構っていて。今なら、それは普通だって納得できる。でも、当時の私にはそれが気に入らなくて。だから、マグカップを割ったの。お母さんに振り向いてほしくて」
「白鳥さんの気持ち分かるわ。私にも妹がいるから、小さい頃は嫉妬していたわ」
「そうだったのね。4つ下の弟が産まれたときは、特に嫉妬することはなかったかな。でも、あたしが産まれたとき、3つ上の兄はそれまで以上にイタズラをしていたって母から聞いたことがあるわ」
嫉妬するのは、弟や妹がいる人の多くが通る道なのかな。あと、大宮先生にはお兄さんと弟さんがいるのか。初めて知った。
「それにしても、公園で出会った男性が由弦みたいな人で良かったですね」
「誘拐されなくて良かったわ」
兄妹や親戚、付き合いのあるご近所さんとかでなければ、男子高校生と幼稚園の女の子が関わることってあまりないよな。風花と花柳先輩が誘拐されなくて良かったと思うのは自然だろう。
「そのお兄さんのおかげで、自分がしてしまったことが分かって、お母さんに謝る決意ができたの。実家まで送ってもらうとき、不安もあったけど、途中のコンビニでソフトクリームを食べさせてくれたりして楽しかったな」
「そうだったんですか。優しいお兄さんでしたね」
「うん。チョコとミルクが半分ずつのソフトクリーム。送ってくれたお兄さんは抹茶のアイスクリームだったかな。途中で一口ずつ交換し合ったよ。こういうことは思い出したのに、肝心の送ってくれたお兄さんの顔や名前は全然思い出せないんだよね」
「幼稚園の頃の話だものね。それにしても、美優を助けたその男の人……何て羨ましい。あたしがタイムスリップして、当時の美優を家まで送りたかったわ!」
花柳先輩……本気で悔しがっているな。もし、先輩がタイムスリップしたら、実家に連れて行くのではなく、自分の家に連れて帰りそうだけど。もしくは、どこかのお店でたくさん遊んでから、美優先輩のご実家へ行きそうだ。
美優先輩は助けた人の顔や名前以外は詳細に思い出しているんだな。帰る途中に食べたソフトクリームのことまで。
「……もしかしたら」
本当にタイムスリップしていたなら、あれが今も残っているかもしれない。
俺は寝室に行き、病院に行くときに着たコートのポケットの中にある財布を見る。お札が入っているところに、
「……あった」
4歳の美優先輩と一緒に、ソフトクリームとアイスクリームを買った際のレシートが残っていた。字は掠れているけど『2007年5月20日(日)』と日付を確認できる。住所も『茨城県ちくば市』と書いてある。12年近く経っているからか、レシートの紙が色褪せている。
「どうしたの? 由弦君、急に寝室に行って。……それはレシート? 随分と古そうなものだけど」
気付けば、俺の側に美優先輩が立っていた。
「ええ。俺の……大切な想い出の1つです」
破れてしまわないように、レシートを財布の中に入れておく。
そうか。あれは夢ではなく、実際に12年前にタイムスリップをして、4歳の美優先輩に会っていたんだ。現代に影響がない程度に、神様が先輩の記憶を修正してくれたのだと思っておこう。
「あの。一つ訊きたいことがあるのですが」
「何かな、由弦君」
「……例の男性にご実家まで連れて行ってもらった後、麻子さんに謝って、仲直りすることはできましたか?」
美優先輩と麻子さんのことだ。答えは分かりきっている。でも、本人の口から結果を聞きたいのだ。
美優先輩はニッコリ笑って、
「うん! ちゃんと謝って、仲直りできたよ。それを機に朱莉に優しくなることができた気がする」
「……そうですか」
そうだよな。今年のゴールデンウィークを思い出せば、そういう返事が来るのは分かっていた。それでも、とても嬉しくて、胸にこみ上げるものがあった。あのときは、ご実家の前で美優先輩と別れたから、ちゃんと言わないと。
俺は美優先輩の頭を撫でる。
「仲直りできて、朱莉ちゃんに優しくなれて良かったですね、美優先輩」
そう伝えると美優先輩は彼女らしい柔和な笑みを浮かべ、俺のことを見つめてくる。
「ありがとう。あと、12年前の家出の話をしたからかな。由弦君に撫でられると、とても懐かしい感じがするの」
記憶になくても、感覚で俺のことを覚えているのかもしれない。
「そうですか。不思議ですね」
「そうだね。もし、あのときに助けてくれたのは由弦君だったら素敵だなって思う。今、由弦君は高校1年生だからそれはないと思うけど。でも、万が一そうだとしたら……ありがとう」
「……嬉しい気持ちになりますね。ありがとうと言われましたし……どういたしまして」
12年越しに、君からあのときのお礼の言葉を言ってもらって本当に嬉しいよ、美優ちゃん。あのとき、君の笑顔だけじゃなくて、悲しんだり、涙を浮かべたりした姿も見ているからかより嬉しい。
ただ、最も嬉しかったのは、あの日のことが美優先輩にとって笑顔で話すことのできる思い出になっていたこと。先輩の記憶になくても、自分が関われたことだ。きっと、これからもその思い出は先輩の心の中に生き続けることだろう。
「さてと、リビングに戻って残りのプリンを食べましょうか」
「じゃあ、私が食べさせてあげるよ。今は看護師さんだから!」
「では、お願いしてもいいですか?」
「うんっ!」
俺は美優先輩と一緒にリビングに戻って、先輩にプリンを食べさせてもらった。その際に風花と花柳先輩に写真を撮られたのは恥ずかしかったけど。
風邪を引いてこんなにも良かったと思えるのは初めてだな。美優先輩の笑顔を見ながらそう思うのであった。
また、日曜日に美優先輩と一緒にショッピングセンターへ行き、母の日のプレゼントを購入した。12年前にタイムスリップしたこともあって、プレゼントにはマグカップを選んだ。
美優先輩も12年前のことを話したからとマグカップに。
感謝の言葉を書いたカードを添え、それぞれの実家へ送るのであった。
特別編 おわり
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