第8話『虫の知らせ』

 4月27日、土曜日。

 いよいよ、高校最初のゴールデンウィークが始まった。今年は改元に伴う祝日などもあるため10連休となっている。

 改元もあれば、個人的には美優先輩と恋人になってから初めてのゴールデンウィークでもある。だから、忘れられない連休になりそうだ。


「美優先輩、温かいコーヒーを淹れました。先輩のは砂糖多めです」

「ありがとう、由弦君」


 ソファーに座ってテレビを観ている美優先輩の前に、コーヒーの入ったマグカップを置く。テーブルには近所のスーパーのチラシなどが置かれている。


「うん、とても美味しい」


 美優先輩はコーヒーを一口飲むとニッコリと笑った。

 俺は美優先輩の隣に座り、自分のブラックコーヒーを一口飲む。朝食の後片付けをした後のコーヒーはいつも以上に美味しい。

 ゴールデンウィーク初日だけど、どこかに遊びに行くわけでもなく、普段の週末と同じようにゆっくりとした朝を過ごしている。


「こうして、美優先輩と一緒にソファーに座ってコーヒーを飲むと落ち着きますね」

「そうだね。恋人の由弦君と一緒に住んでいるから、どこかへ遊びに出かけるのもいいけど、家でゆっくり過ごすのが一番いいのかもって思ってる」

「確かにそうですね。映画デートや元号初詣には行くとして、あとは家でゆっくりするのが基本でいいのかもしれません。俺は……どちらかの実家に一緒に帰省するのもいいかなと思っていたんですけど。明日急に行くのは無理でしょうけど、5月に入ってからであれば大丈夫そうかなって」

「なるほど、帰省かぁ。前にテレビ電話で、それぞれの家族に私達が付き合うことになったって報告して、お許しが出たけど、実際に会うのも大事だよね。帰省は夏休みでもいいかなと思ったけど、10連休だしどちらかの実家に一緒に行くのもいいかも」


 うん、と美優先輩は笑顔で頷いている。もし、一緒に実家に行くとしたらどっちがいいだろうか。先輩の実家の方が良さそうな気がする。

 ――プルルッ。

 スマホが鳴っているな。確認してみると……俺の方ではないか。


「えっ? 一佳先生から電話が来てる」

「何があったんでしょうね」

「連休が始まったタイミングにかかってくると不安になるよね。とりあえず先生とお話しするよ。……おはようございます、白鳥です」


 連休初日の午前中に担任教師から電話がかかってくるなんて。

 もしかして、この連休を利用して俺や美優先輩の両親と、一緒に住んでいることなどについて直接話し合うとか? 学校関連では先生はとてもしっかりしているし、生徒想いでもあるからその可能性はありそうだ。でも、それが用件なら、先輩じゃなくて俺にかけてきてもい――。


「その名前をはっきり言わないでください! 一佳先生!」


 もうっ! と、美優先輩は怒っている。たまに俺も叱られることはあるけど、ここまで怒りを露わにしているのを見るのは初めてだ。いったい、霧嶋先生は先輩に何を言ったんだ?

 しかし、美優先輩はすぐに我に返った様子になる。


「……ご、ごめんなさい。あまりにも嫌いなので、その名前を聞いてつい反射的に怒ってしまいました。本当にごめんなさい」


 その一言を聞いて、霧嶋先生からの電話の内容がだいたい想像できた。


「由弦君に代わりますね。彼はそういうことには強いので。……はい、由弦君。内容は……ごめん。恐ろしいから言いたくないの」

「おおよその見当がついているので大丈夫ですよ。……お電話代わりました、桐生です。おはようございます」

『お、おはよう桐生君。霧嶋です。連休初日の午前中から……と、突然のお電話ごめんなさい。本当に』


 美優先輩に怒鳴られてしまったからか、それとも彼女に話した用件のせいなのか霧嶋先生の声は震えていた。


「美優先輩の様子からしてだいたい想像できていますが。霧嶋先生はどのようなご用件で先輩に電話をかけてきたのですか?」

『……で、出たの。家に。黒くて動きの素早い虫が。俗に言うゴキブリね。私、ゴキブリは苦手だから、誰かに駆除してもらおうと思って電話をかけたの』

「……そうでしたか。嫌いな虫が急に出てくるのは嫌ですよね」


 やっぱり、ゴキブリが出たのか。そいつの名前をありのままに伝えたから、美優先輩が思わず怒ってしまったんだ。先輩は正式名称を言わないでほしいくらいに嫌いだから。

 あと、ゴキブリってマンションの11階という高さまで行けるんだな。


『実は成実さんや姫宮さんにも連絡したんだけど、2人ともゴキブリは苦手で駆除できる自信がないって。それで、アパートの管理人もしている白鳥さんにも電話をかけたの。管理人さんならこういうことにも強いかと思って。ただ、桐生君と恋人になったから、邪魔してはいけないと思って最後の手段にしておいたの。実際に話したら、どうやら白鳥さんが一番苦手だったようね』

「お気遣いありがとうございます。以前、家の浴室にGが出たことがありますけど、その際に美優先輩が出会ってしまって絶叫していました」

『G……いい響きだけれど、ゴキブリには合わないわ』

「便宜上そう言わせてください。美優先輩は正式名称を聞くのが嫌なほど苦手なんです。少なくとも、美優先輩の前ではGと言ってくれると嬉しいです」


 俺がそう言うと、美優先輩はとても大きく頷いていた。


『なるほど。それで、はっきり言わないでほしいと激昂していたのね。分かったわ。ところで、桐生君。恋人と一緒にお休みのところを申し訳ないけれど、今から私の家に来てGを退治してくれると嬉しいわ』

「ちょっと待っててくださいね。美優先輩と話しますので。……美優先輩、今から霧嶋先生の家に行って、Gを退治しようと思うのですが……行ってもいいですか?」

「そうだね……」


 美優先輩は真剣な表情をしながらコーヒーを一口飲み、


「行こう、由弦君。退治しない限り、いつGがまた出るかどうかでずっと不安だろうし。Gが怖い一佳先生の気持ちはよく分かるから。それに、前に家にお邪魔してから半月くらい経つし、部屋を綺麗にしているか確認したいし。あと、外に出るから、帰りに買い物をしようかな。先生の家の近くにあるスーパーでまたセールをやってるから」

「分かりました。……霧嶋先生、今から美優先輩と一緒にご自宅に伺いますね。Gを退治するのはもちろんですが、お部屋が今も綺麗かどうか美優先輩が確認したいそうです」

『ほえっ? お部屋のチェックも? 以前に比べたらマシになっている自信があるわ。……た、多分ね。きっと』


 変な声が出たり、多分とかきっとという言葉を使ったりすることからして、本や書類、ゴミなどが散らかっていると思っていた方が良さそうだな。

 2週間前、霧嶋先生の家に美優先輩や風花と初めてお邪魔したとき、あまりにも散らかっていたので掃除をしたり、衣服を洗濯したりしたのだ。


『じゃあ、マンションのエントランス近くで待っているから』

「分かりました。また後で会いましょう。失礼します」


 俺の方から通話を切った。マンションのエントランス近くで俺達のことを待つとは。ゴキブリを退治するまで家に近づきたくないということか。


「じゃあ、さっそく先生の家に行きましょうか。セールのチェックをしますか?」

「そうだね。買いたいものをスマホで撮っておくよ」

「分かりました。先生、風花にも駆除依頼をしたそうなので、彼女にメッセージを送っておきます」


 俺は風花に、ゴキブリ退治と部屋のチェックをしに、美優先輩と一緒に霧嶋先生の家に行くことを伝えた。

 すると、すぐに風花から返事が。


『由弦が一緒なら大丈夫そう。あたしも行く。前に掃除したから、先生の部屋がどうなっているか気になるし』


 風花も行くのか。自分が苦手でも、大丈夫な人が一緒だと安心できるのかな。それに、美優先輩や霧嶋先生にとって、風花もいた方が多少心強いか。


「よし、チェック終わった」

「風花にメッセージを送ったら、彼女も行くそうです。部屋の様子が気になるみたいで」

「一緒に掃除したもんね。分かった。じゃあ、さっそく3人で行こうか」

「はい」


 美優先輩と一緒に外に出ると、そこにはキュロットスカートに長袖のワイシャツ姿の風花が立っていた。


「おはようございます、由弦、美優先輩」

「おはよう、風花。似合ってるね」

「どうもありがと」

「可愛いね、風花ちゃん。さっそく一佳先生の家に行こうか」

「はい!」


 俺達は3人で霧嶋先生の家に向かって歩き始める。あけぼの荘からだと徒歩で20分くらいのところにある。爽やかな気候だし、ちょっとした運動にもなっていいな。


「まさか、連休初日から一佳先生の家に行くことになるとは思いませんでした」

「そうだね。その理由は何とも言えないけれど、由弦君がいれば大丈夫だよ」

「ですね。2週間ぶりに行きますけど、ある程度は綺麗にしていますかね?」

「多少、ゴミが床に落ちていたり、洗っていない食器があったりするとは思うけど、この前のような汚さにはなっていないんじゃないかな。由弦君、先生にお部屋のチェックをするって伝えたときはどんな反応をしてた?」

「驚いた声をあげていましたね。この前よりも多分マシだと思うとは言っていましたが」

「そっか。2週間も経っているし、多少は汚くなっているって思った方がいいか」


 特に怒ったり、厳しい表情を見せたりすることなく美優先輩はそう言った。2週間も経っているし、多少は汚れていると思った方がいいというのは同感だ。この前行ったときはかなり散らかっていたからなぁ。


「そういえば、風花ちゃんはゴールデンウィーク中に何か予定はある?」

「明日、水泳部の友達や先輩と一緒に遊ぶくらいで、それ以外は全然決まってませんね。水泳部の活動もありませんし。アニメやドラマを観るのも好きなので、駅前のレンタル屋さんで何かDVDを借りて一気に観るのもいいかなって思ってます」

「そうなんだ。家でゆっくりするのもいいよね。由弦君や私もあんまり決まっていないんだ。ただ、令和になったら元号初詣に行くつもりだから、一緒に行こうよ!」

「年明けの初詣のような感じですか。いいですね! おみくじを引いて令和の運勢を占いたいです」

「いいね! じゃあ、5月になったら一緒に行こうね」

「はい!」


 改元は一生の中でもそうそうないことだ。2人きりの初詣もいいかと思ったけど、令和の次の元号がいつから始まるか分からないし、みんなで行く方がいいかもしれない。

 3人で話しながら歩いていると、あっという間に霧嶋先生の住んでいるマンションが見えてきた。本当に大きなマンションだ。


「桐生君、白鳥さん、姫宮さん」


 連絡通り、霧嶋先生はマンションのエントランス近くで待っていた。プライベートだからか、この前と同じように赤いジャージを着て、髪を下ろしている。彼女はほっとした様子でこちらに手を振っていたのであった。

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