第9話『vs.G in Ichika's home.』
「みんなが来てくれて嬉しいわ。本当にありがとう」
俺達がマンションのエントランスに到着したとき、霧嶋先生は柔らかな笑顔でそう言った。まるで、もう退治したような雰囲気だなぁ。きっと、ゴキブリを見つけてからずっと不安になっており、ゴキブリが平気な人が来ただけで嬉しいのだと思う。
「まさか、姫宮さんまで来てくれるとは思わなかったわ」
「一佳先生の部屋の今の様子も気になりますから。Gは怖いですけど、由弦が一緒なら大丈夫ですし」
「……なるほど。ありがとう、心強いわ。さっそく行きましょう」
俺達はマンションの中に入る。
ここに来るのは2度目だけど、このマンションはとても立派だと思う。ここまで立派だと、ゴキブリの住処になりそうな場所がたくさんあるのかも。
それにしても、ゴキブリの駆除か。あけぼの荘に引っ越してすぐ、美優先輩が浴室でゴキブリを見つけてしまったときのことを思い出す。駆除できたのはいいけど、そのときは全裸の美優先輩にずっと抱きしめられ、その様子を風花に見られてしまって。それをきっかけに、風花に変態呼ばわりされるようになったんだよな。
エレベーターで11階へ行き、俺達は霧嶋先生の自宅である1111号室の玄関の前に立った。
「これから、あの生物のいる空間に入ると思うと寒気がするわ」
「自分で出ていってくれるといいんですけどね。ただ、誰かが駆除しない限りはいなくならないと思った方がいいでしょう。俺がGを駆除しますから、それまでは3人は外にいていいですよ」
「……き、気持ちは有り難いけれど、私は一緒に行くわ。この家の住人だし、教え子を呼び出した責任を少しでも取りたい」
「そ、そうですか」
仕事中ならともかく、休日である今は責任とか考えなくていいと思うけど。でも、教え子が関わると、教師として責任を果たそうとするのは霧嶋先生らしい。
霧嶋先生に鍵を開けてもらい、俺達は1111号室の中に入る。パッと見る限りゴキブリらしき生物の姿は見当たらないな。
あと、部屋やキッチンに繋がる扉が開いており、奥には脱がれたスウェットや、丸めたティッシュが落ちているのが見える。
「Gは……いませんね」
「……そ、そうね。桐生君、これ……殺虫剤。特にGには効果があるらしいわ。家具のことは気にしなくていいから、Gを見つけたら吹きかけなさい」
「分かりました」
霧嶋先生から殺虫剤を受け取る。こういうものがあっても、いざ見つけたときは何もできなかったり、逃げられたりしちゃうことはあるよな。
「姿が見えないと安心するけど、家の中にいるのは分かっているから複雑な気持ちになるよね、風花ちゃん」
「その気持ち、よく分かります」
「私もよく分かるわ、白鳥さん」
「俺がいるので安心してください。ところで、霧嶋先生。さっきGを見つけたのはどこだったんですか?」
「へ、部屋の中……」
「部屋の中ですか。じゃあ、とりあえずは部屋の方……あっ、扉のところにGが出ましたね」
『きゃあああああっ!』
背後で3人が絶叫するので、思わず体がビクついてしまう。ううっ、耳がキーンってなるし頭がちょっと痛い。
振り返ると、3人は目に涙を浮かべ、怯えた様子で身を寄せ合っている。霧嶋先生は美優先輩と風花のことを抱きしめており、美優先輩と風花は俺の服の裾をぎゅっと握っている。本当にゴキブリが苦手なんだな。
3人を驚かせたゴキブリは、まるであの絶叫がなかったかのようにその場に居続け、2本の触覚をゆっくりと動かしていた。
「由弦君、早く退治して!」
「クモほどじゃないけど、Gも怖いよ!」
「桐生君! さっき渡した殺虫剤を遠慮なくぶちかましなさい! 退治できたら何でもしてあげるから早く退治しなさい!」
「分かりました。退治をしますから、先輩と風花は手を離してくれますか?」
「あっ、ごめんね、由弦君」
「頼むわよ、由弦!」
ここまで期待されると、絶対に逃がすわけにはいかない。
ゴキブリが逃げないようにそっと近づくけれど、そのことによる振動に気付いたのか部屋の方へサッと逃げてしまう。
「待て!」
部屋の中に入ると、逃げ足が速いのかゴキブリは窓の近くの壁にいた。そこにめがけて再び近づこうとしたときだった。
「うわっ!」
何かに足を取られてしまい、俺はその場にうつぶせの状態で倒れてしまう。絨毯の上とはいえ派手に転んでしまったので結構痛い。鼻血とかが出ていないだけ幸いだ。
「桐生君、大丈夫?」
「え、ええ……」
どんなものを踏んでしまったのか手にとって確認してみると、それは黒いパンツだった。近くにはこのパンツとセットと思われる黒いブラジャーが落ちていた。
「霧嶋先生、黒いアイツはまだ退治していませんが、黒い下着は上下セットで発見しました。これに足を取られて転びました」
「……ご、ごめんなさい」
「こんなときに下着を見つけるなんて、さすがは変態ね、由弦!」
こんなにも言われて嬉しくない「さすが」も初めてだ。
そんなやり取りをしていることで油断したのか、ゴキブリは俺のすぐ近くまでやってきていた。
「今だ!」
ゴキブリにめがけて殺虫剤を吹きかけた。
そのことに驚いたのかゴキブリは再び逃げようとするが、時既に遅し。一歩二歩と前に進むがその場で痙攣するようになり……やがて、動かなくなった。
「よし、これでとりあえずは大丈夫ですね」
「よくやったわ、桐生君!」
「さすがは由弦君だよ! うちにGが出たときのことを思い出したよ。ちょっと恥ずかしいけれど」
「あたしも覚えていますよ、先輩。それにしてもハプニングはあったけれど、由弦は相変わらず鮮やかに虫退治するわね」
「どうもありがとう。霧嶋先生、ガムテープってありますか?」
「確か玄関の方にあったわ。あと、ずっと下着を握られていると恥ずかしいのだけれど」
「これはすみません」
俺は霧嶋先生の下着をベッドの上に置いた。
いざ、冷静になって部屋の中を見てみると、以前ほどではないけれどまた散らかっているな。ゴミだったり、本だったり、服だったり。あと、下着もか。
霧嶋先生からガムテープを受け取り、それを使ってゴキブリの死体をくっつける。きっちりと封印して、ゴミ箱に捨てようとしたけど、
「これでは入りませんよ、霧嶋先生」
「おかしいわね。ティッシュやいらない紙などを捨てただけなのに」
「……ゴミを捨てればいつかはあふれますよ、一佳先生。あと、本も机の上や床に置いたままじゃないですか。これらの本がかわいそうです」
「あれからも仕事帰りなどに、漫画や小説を買っていて……気付いたら、置き場所が本棚からテーブルや床になってしまっていたわ」
「もう、一佳先生ったら。本棚のスペースは無限じゃないんですから、いつかは入りきらなくなりますよ」
まったく、と美優先輩はため息をついた。そんな彼女のことを風花は苦笑いをしながら、霧嶋先生は気まずそうな顔を表情をしながら見ている。
「読みたい作品がたくさんあるとは思いますが、本棚の状況を定期的に確認しましょう。ゴミについてはあふれそうになったら袋にまとめるようにしましょうね。あと、服や下着も脱ぎ散らかすのではなく、専用のカゴにでも入れて、定期的に洗うように心がけましょう」
「……はい」
「キッチンは……この前よりは大分少ないですけど、洗っていない食器や調理器具がありますね。少ないのはいいですが、なるべくはすぐに洗うようにしましょう」
「……はい」
こうしていると、美優先輩と霧嶋先生のどっちが年上か分からなくなるな。あと、先生と生徒が逆転しているように見えて面白い。
「それでも、2週間前よりはいいですね。では、掃除や洗濯をしましょうか。分担はこの前と同じで、由弦君がキッチン、先生と風花ちゃんはお部屋、私が洗濯という形にしましょう。早く終わったら別の方を手伝うという形で」
「分かりました。3人とも、ごめんなさい。またお願いします」
「いえいえ、気にしないでください! それに、想像していたよりはマシでしたから」
「……そう言われると複雑な気持ちになるわ。悪いのは私だけど。では、白鳥さんの分担通りにやりましょうか」
まさか、ゴールデンウィーク初日に、担任の自宅でゴキブリ退治や掃除をするとは。こんな高校生、俺達以外にはほとんどいないんじゃないだろうか。
俺は美優先輩に割り振られたキッチンに向かう。汚れ物はあるけれど、この前よりは量が少ないのでマシかな。これなら、風花や先生の方を手伝うことができそうだ。
さっそく、俺は食器や調理器具を洗い始める。こうしていると、俺達ってこれからも2週間に一度くらいの頻度で家庭訪問しなきゃいけないのかと思ってしまう。
「とりあえず、ゴミをまとめましょう、先生」
「そうね、姫宮さん」
自宅では生徒と先生の立場が逆転してしまっているな。その証拠に、風花が霧嶋先生よりもしっかりと見える。
そういえば、この前はキッチンを綺麗にした後に倒れそうになった先生のことを助けたんだっけ。今日はそんなことがないといいな。……いや、さっき先生のパンツに足を取られて転んだか。ここに来ると一度は転ばなきゃいけない呪いでもかかっているのかな。
「とりあえず、洗濯が終わるまでこっちを手伝いますね」
「ありがとう、白鳥さん。とりあえず、床に落ちている本をベッドに置いてもらえるかしら」
「分かりました」
おっ、美優先輩が2人のことを手伝うのか。この前よりは汚くないので、今日は早めに終わりそうな気が――。
「こんにちはあああっ!」
「いらっしゃいませえええっ!」
美優先輩と霧嶋先生はそう叫ぶと、2人一緒に窓の側まで逃げてしまう。顔が青ざめているけど、どうしたんだろう?
「どうしたんですか! 美優先輩! 一佳先生!」
「そ、そこの本を動かしたらGがいたの! 風花ちゃん!」
「私も見たわ!」
「えっ……いた! 由弦、お願い!」
「分かった」
俺は殺虫剤を持って部屋の方に向かう。
風花の指さす先にゴキブリがいた。さっきのゴキブリのきょうだいか仲間かな? あと、心なしか今回のゴキブリの方が大きい。
さっきよりも部屋の中が綺麗になっていることもあってか、何かにつまずいたり、足を取られたりすることなくゴキブリに近づき、殺虫剤でゴキブリを倒した。ガムテープで死体を回収して、まだ縛っていないゴミ袋の中に捨てる。
「これで大丈夫です」
「何度もありがとう、桐生君」
「一家に一人、由弦を置いておきたいですよね、一佳先生」
「恋人の白鳥さんの前では言いにくいけれど、虫退治という意味では桐生君を置いておきたいわ」
「いえいえ、気にしないでください。私も由弦君のおかげで虫関連で安心できるようになりましたから」
3人にとって、俺は殺虫剤のような存在なんだな。まあ、役立たずと言われるよりは幾らかマシである。
「まあ……1年に1日くらいは何匹も出会う日がありますよ、たぶん。これから温かくなって出会いやすい季節になりますし、Gをホイホイするものを置いておくといいかもしれません。あとは霧タイプの薬を使うと出る頻度が減るそうです」
「そうなのね。この連休中に買って、対策を講じてみる」
そう言って、霧嶋先生は真剣な表情をしながら何度も頷いていた。てっきり、霧嶋先生ならそういった対策をしていると思ったんだけど。今まで全然出なかったのかな。
それからはゴキブリが出たり、何かハプニングが起きたりすることもなく、掃除や洗濯、本などの整理をすることができたのであった。
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