第58話『ベイビーアイラブユーだよ』

 ――由弦のことが……大好きです。


 そう告白すると、風花は俺を抱きしめ、2度目のキスをしてくる。そのことで、風花の温もりや匂いに包まれる感覚に。

 あと、1度目よりも唇から伝わる風花の温もりが強くなっている。風花の抱く俺に対する好意がさっきよりも強いのだろうか。


「んっ……」


 可愛らしい声を漏らすと、風花は俺の口の中に舌を入れてきた。その流れで舌を絡ませてきて。そのことで、段々と力が抜けていき、風花に吸い込まれていくような感じがした。俺の唇と舌が風花によってコントロールされている。

 ただ、こんなことをしているからか、胸が締め付けられていく。キュンとする感覚もあれば、苦しい感覚もあって。それが分かった瞬間、「彼女」の顔が頭をよぎった。

 やがて、風花から唇を離す。その際、俺の唇と風花の唇の間に透明な糸が一本伸びているのが分かった。しかし、それはすぐに切れる。


「風花……」

「……由弦。いつもと違って、顔が凄く赤くなってるよ? 凄く可愛い」

「お、俺だってキスするのはこれが初めてなんだ。しかも、その……舌を入れられて、可愛い声を聞かされたらドキドキするに決まってる」


 顔が赤くなっているって言われると、全身が熱くなって心臓がバクバクする。こんな風になったのは初めてだ。

 それに、好きだって言われたから、風花のことが今まで以上に可愛らしく見える。このまま風花のことを見続けるとどうにかなってしまいそうで。目を逸らした方が良さそうだけど、風花から離すことができない。


「さすがに由弦も動揺しているみたいだね」

「……さっきも言った通り、キスは初めてで。それに、ここまで心に来る告白は初めてだったから」

「そっか。……あたしも大胆なことをしちゃったって思ってるよ。告白して、唇を重ねるだけじゃなくて、舌まで絡ませちゃったから。熱がぶり返しそう」

「もしそうなったら……ごめん」

「さすがにこれで熱が出ても、由弦のせいじゃないよ。だって、あたしの方から一方的に舌を絡ませたんだから」


 そう言う風花の笑顔はとても艶やかなもので。風花の熱い吐息が俺の顔にかかる。

 そうか、風花は俺のことが好きなのか。

 思い返せば、風花とはここに引っ越して来た日から、顔を合わせない日はなかった気がする。陽出学院に入学してからは、同じクラスということもあって学校でも一緒にいることが多くて。不機嫌な表情を見せたり、変態だとバカにしたりすることもあったけれど、嬉しそうな笑顔を見せることも多くて。


「いつ、風花は俺のことが好きになったんだ? もしよければ、教えてほしい」

「……はっきりとしたタイミングは分からない。気付いたときには好きになってた。ただ、この102号室を譲ってくれたこともあって、由弦のことは出会ってすぐの頃から考えてたよ。最初はここを譲ってくれた感謝と罪悪感。美優先輩との生活を聞いて、ゴキブリの件では何て変態な人なんだろうって思った。正直、一緒に住まなくて良かったと思ったし、美優先輩が大変だとも思ったときもあったよ」

「そ、そうなんだ」


 ゴキブリを退治した直後、風花に腹パンを喰らったことは今でも鮮明に覚えている。

 あのときの風花は怒っているというよりは、俺のことを殺すという雰囲気があった。裸の美優先輩に抱きしめられている光景を見たら、俺が変態だし、一緒に住まなくて良かったと思うのも当然か。


「それでも、由弦は変わらず優しくあたしに接してくれて。あたしの大嫌いなクモが出たときはすぐに退治してくれて。由弦が隣の部屋に住んでくれて心強いなって思ったの。だから、入学してあなたと同じクラスになったときは嬉しかった」

「……そっか」

「学校でも日中は由弦の姿をいつでも見られることに安心したし、嬉しさもあった。でも、放課後は私が水泳部に入部したから、由弦とはいられなくなって。最初は寂しいだけだったけれど、美優先輩の入部している料理部に入った辺りから、羨ましさと嫉妬が生まれてきて。部活が終わって、1人でこの部屋に入ると寂しくなって。だから、宿題を助けてほしいって由弦をここに呼んだり、休日になると101号室に遊びに行ったりしたの」

「そういえば、この前の週末も朝から家にいたもんね」

「うん。その頃にはもう男性として意識してた。だから、瑠衣先輩の告白も成功しちゃえば、もしかしたら由弦はあたしに振り向いてくれるかもしれないって思ったの」


 一緒に住んでいる美優先輩が花柳先輩の恋人になれば、101号室に居づらくなって別のところに住むのを考え始めたことだろう。きっと、風花にも一度は相談したと思う。そのときは一緒に住もうって言ったのかな。


「水曜日のあのとき、水泳部の先輩に由弦のことを訊かれて、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。好きな気持ちを隠すために、先輩だけじゃなくて由弦にも怒っちゃった。そのことで由弦と距離ができて、溝までできちゃった感じがして。ただでさえ、由弦は美優先輩っていう可愛い女の子と一緒に住んでいるからさ。後悔だけじゃなくて、焦りもあって。だから、夜もあまり眠れなくて。体調はあまり良くなかったけれど、ネガティブな気持ちを少しでも紛らわしたくて部活中は泳ぐことに徹底してた。だから、今日の部活中に限界が来ちゃったんだと思う」

「……そうか。霧嶋先生から聞いたんだけど、顧問の先生が普段よりも調子が良くなったけれど、やる気はかなりあったって言っていたよ」


 俺に関する後ろ向きな気持ちを消すためという理由があっても、泳ぐことが大好きなことは変わらない。だから、顧問の先生には風花にやる気があると見えたのだろう。


「長々と話しちゃったけれど、そんなわけで今は由弦のことが大好き。恋人になってくれますか? ここで一緒に住んでくれますか?」


 風花は真剣な表情で俺のことを見つめながら、想いを言葉に乗せて伝えてくれる。

 風花の言葉を聞いて、気持ちがとても温かくなった。

 けれど、風花と舌を絡ませるほどのキスをしたときに感じたのと同じような胸の痛みもあって。それが俺の答えなんだ。


「……ごめん、風花。風花と恋人として付き合うことも、この102号室に一緒に住むこともできない。ただ、その気持ちはとても嬉しかった」


 辛い決断ではあるけれど、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた風花のために、俺も彼女のことをじっと見つめながら返事をした。

 風花は両眼に涙を浮かべて、下唇を噛む。

 そのまま、少しの間、無言の時間が過ぎていって、


「……分かった。凄く悔しいけれど、返事をしてくれてありがとう。もしよければ、その理由を訊かせてくれる?」


 告白を断った理由。

 風花に告白されて、二度目のキスをしたときから、今、俺にとって最も近くにいる人の顔が何度も頭をよぎった。嬉しい顔も、寂しい顔も、優しい顔も。


「他に好きな人がいるからだよ」


 風花の目を見て俺ははっきりとそう言った。


「それって……美優先輩のこと?」


 風花にそう言われた瞬間、再び全身が熱くなっていくのが分かった。きっと、今の俺の顔は真っ赤になっているんだろうな。


「ああ。俺は美優先輩のことが好きなんだ。風花が想いを伝えてくれたおかげで、それをはっきりと自覚できたんだ」

「そっか。やっぱり……美優先輩だよね」


 そうだよね……と、風花は長いため息をついた。それがじわじわと心に響いてくる。

 ただ、すぐに風花は笑顔を俺に向けてくれる。


「……分かった。じゃあ、次は由弦の番だね。もちろん、あなたの気持ちは美優先輩には言わないようにするから」

「ありがとう」

「……何だか、今は1人でいたい気分だなぁ。もう体調は大分良くなったし、多分大丈夫だから。だから、由弦は家に帰っていいよ? 美優先輩が待つ……101号室に」


 風花の声がとても震えていた。告白を断られた悔しさや悲しさなどでいっぱいなのだろう。それは痛いほどに伝わる。


「分かったよ。何かあったらいつでも連絡してね」

「うん。じゃあ、またね」

「……またね」


 俺は自分のものを持って、102号室を後にした。102号室の扉が閉まってすぐに鍵の閉まる音が聞こえた。耳をすますと風花の泣く声も。

 101号室の前に立って、インターホンを押した。


『あっ、由弦君。今、開けるね』


 すぐに美優先輩の声が聞こえたことに安心感を抱く。好意を抱いていると自覚したからか、美優先輩と会うことに緊張してくる。家の中から聞こえてくる足音が大きくなる度に、緊張の度合は高くなる。

 鍵の開く音がして、ゆっくりと玄関の扉が開く。すると、桃色の寝間着姿の美優先輩が姿を現す。


「由弦君、おかえり」


 美優先輩は持ち前の柔らかい笑みを浮かべながらそう言ってくる。好きな人だと分かって初めて見るからか、凄く可愛らしく見える。


「……ただいま、美優先輩」


 俺は数時間ぶりに101号室の中に入る。美優先輩の住んでいる場所なだけあってとてもいい匂いがするよ。


「由弦君が帰ってきたってことは、風花ちゃんの体調が結構よくなったのかな」

「ええ。美優先輩が持ってきた薬が効いていたのか、数時間ぐっすりと眠っていました。体の重さやだるさもなくなったみたいですし、もう1人で大丈夫だと言われたので帰ってきました」


 さすがに、風花に告白されて、キスを2度もされて、彼女を振ったことについては言えない。

 次は俺の番だと言われたけれど、美優先輩の前に立ったら告白する勇気なんて全然出てこない。風花って凄いな。


「そうなんだ。じゃあ、とりあえずは安心だね。明日になったらまた様子を見に行くことにしようか」

「そ、そうですね」

「……ところで、由弦君の顔がいつになく赤いけれど。もしかして、看病して風花ちゃんの風邪が移っちゃったのかな?」

「そ、そんなことないですって!」


 俺の額を触ろうとする美優先輩の右手を思わずはたいてしまう。


「ご、ごめんなさい」

「ううん。私こそ急にごめんね。お風呂にする? それとも、ご飯にする?」

「お風呂に入っちゃいます。ただ、ご飯は……胸がいっぱいというか、あまり食欲がないので今夜は止めておきます」

「そうなの? 分かった。でも、お腹が空いたらいつでも言ってね」

「ありがとうございます」


 俺は寝室に行き、宿題や本を自分の勉強机に置く。

 美優先輩のベッドを見て思ったけれど、俺、今夜から美優先輩と一緒にこの寝室で眠ることができるのだろうか。ドキドキしすぎて眠れる気がしない。

 浴室にいる間もずっと、美優先輩のことや今夜の就寝のことばかり考えてしまう。だからか、体が熱くなってしまい、髪や体を洗った後、湯船には10秒くらい浸かって浴室から出た。今日は肌寒いのに、浴室から出ても涼しささえ感じない。

 寝室に戻ると、美優先輩はベッドに寝転がりながらスマホを手に取っていた。

 ここで美優先輩と一緒に眠る自信がない中、考えられる手段はこれしかない。


「お風呂上がりました」

「結構早かったね」

「ええ。何だか、本当に風花から風邪をもらっちゃったかもしれないので、先輩にうつさないように俺はリビングで寝ようかなと思います」

「由弦君がそう言うならそれでもいいけれど。ただ、辛かったり、苦しかったりしたらいつでも私のことを呼んでね」

「ありがとうございます」


 美優先輩とは違う場所で眠れば、少しは気持ちが落ち着いて眠りやすくなるかもしれない。美優先輩に告白する勇気も出てくるかもしれない。

 寝室から自分のふとんをリビングまで運ぶ。1人分なので、何とか敷くことができた。


「じゃあ、由弦君。おやすみ。ゆっくりと眠ってね」

「はい。おやすみなさい、美優先輩」


 美優先輩はリビングを後にする。彼女の姿が見えなくなった瞬間、寂しさもあるけど緊張感からは解放されたような気がした。


「告白か」


 好きな人が目の前にいるだけでドキドキするのに、風花はよく俺に好きだって言うことができたと思う。結果がどうであれ、好きだと言える人を尊敬する。花柳先輩も流れは違ったけれど、俺に美優先輩が好きだとはっきりと言った。加藤や橋本さんも、敗者の集いのみなさんも好きだって言ったことがあるんだよな。


「そう考えると、凄い人達ばかり周りにいるんだな」


 好きな人である美優先輩は一緒に住んでいるから、このまま好きだという気持ちを胸の中に留め続ける自信がない。

 告白して美優先輩と恋人という関係になりたいけど、もし告白が失敗したら……そのときはこの家から出よう。俺がここに居続けたら、先輩に気まずい想いをさせてしまうから。


「あとは……勇気だけか」


 美優先輩のことを頭に思い浮かべると、またドキドキして体が熱くなってきた。リビングで別々に寝ることになって良かった。寝室で一緒にいたらどうなっていたか分からない。俺、よく今まで先輩と同じ部屋で一緒に寝ることができていたな。

 美優先輩のことばかり考えると、眠気がどんどんなくなってしまう。眠りにつくまでにかなりの時間がかかってしまうのであった。

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