第56話『おむかえ』
――姫宮さんが部活中に倒れた。
霧嶋先生のその言葉を聞いた瞬間、体から力がすっと抜ける。危うくスマホを落としてしまうところだった。
「風花が倒れた……」
『ええ。近くにいた部員によると、姫宮さんは50mのクロールを何本か泳いだときに、プールサイドで倒れてしまったみたい。そんな彼女を、水泳部の部員が保健室まで連れてきたの。それで、担任である私にも連絡が来て』
「そうでしたか。ということは、橋本さんが見た光景は、水泳部の部員が倒れた風花を保健室に運ぶ途中のことだったんですね」
『きっとそうでしょうね。姫宮さんはあけぼの荘に住んでいるから、隣人である桐生君に連絡したの。それに、白鳥さんと一緒にいると思って』
「そういうことでしたか。分かりました。すぐに、美優先輩と一緒に学校に行きます」
『保健室で待っているわ。服装については私から学校側に伝えておくから、私服で来てもらってかまわないわ』
「分かりました」
俺がそう言うと、霧嶋先生の方から通話を切った。
昨日から元気がなさそうだったけど、今日の水泳部の活動で限界が来てしまったのだろう。風花には断られたけど、何を言われてもいいから、こっそりと見ておくべきだったかも。
「風花ちゃんを迎えに行こう、由弦君」
「ええ、行きましょう」
私服姿のまま、美優先輩と一緒に陽出学院高校に向かう。自宅から学校まで徒歩圏内であり、しかも数分で行けるところにあって良かったと実感する。
学校に到着したけど、制服姿じゃないからか守衛さんに止められる。ただ、事情を説明したら、霧嶋先生から話を聞いているということで学校に入ることができた。
放課後になって小一時間ほど経ったからか、第1教室棟の中には生徒があまりいない。ただ、私服姿のせいか、生徒達が俺達のことを見てくる。何だかちょっと恥ずかしい。
1階にある保健室に向かうと、そこには霧嶋先生と保健の先生が。
ベッドがいくつかあるけれど風花の姿はない。ただ、奥にカーテンがかかっているので、その向こうに風花が横になっているベッドがあるのだろう。
「桐生君、白鳥さん。来てくれてありがとう」
「風花は今、あのカーテンの向こうにあるベッドに寝ているんですか?」
「ええ。ここに運んできたときは水着だったんだけど、水泳部の部員に頼んで今はワイシャツ姿に着替えさせてもらったわ。顧問の先生と話して、今日は家に帰らせることにしたわ。なので、2人が連れて帰ってくれると嬉しいのだけれど」
「分かりました。由弦君と私で責任を持って連れて帰りますね」
「家に戻ったら一言メッセージを入れます」
あけぼの荘が徒歩数分のところで良かった。ただ、そんなに近いところでも1人では帰ることはできないと霧嶋先生が判断するほど、風花は体調が悪くなっているのだろう。
「ちなみに、今日の部活中の風花がどんな感じだったのか、顧問の先生や部員から聞いていますか?」
「昨日くらいから、普段よりも調子が良くなかったって顧問の先生が言っていたわ。今日も普段よりもタイムが遅いから、調子が悪いなら長めの休憩を取ったり、早退したりしなさいとは言ったみたい。ただ、本人はとてもやる気があったって。それについては、姫宮さんを運んできてくれたり、制服や荷物を持ってきたりしてくれた部員達も言っていたわ」
「そうですか……」
体の調子が悪くても、気力で乗り越えようとしたってことかな。昨日はそれで大丈夫だったのだろうけど、今日は体に限界が来てしまったと。
あと、昨日は調子が悪い中で水泳部の練習をこなしたから、いつも以上に疲れが襲ってきてしまったんだろうな。早く寝ても疲れが取れず、気温の変化などもあって喉がおかしかったり、体が熱っぽかったりしたんだ。
「昨日はただ元気がないって感じだったんですけど、今朝になって体調がいつもと違いました。ただ、本人はお昼ご飯を食べて、午後になったら調子が少し良くなったと言っていたんで、無理はしないでと言ったんですけど。本人も知らないうちに、体に疲れが溜まっていたのかもしれません」
「由弦君の言う通りだろうね。風花ちゃんはこの週末の間はゆっくりと休んだ方がいいね。風花ちゃんの様子を見よう」
俺達3人は風花が眠っているベッドへと向かう。
風花はワイシャツ姿で眠っており、顔がとても赤くなっている。熱や疲労のせいか寝息も乱れている。
「風花ちゃん、苦しそうだね」
「ええ。早く家に帰って、自分のベッドでゆっくりと寝かせたいですね」
「……2人が来て本当に安心したわ。姫宮さんが倒れたって聞いたとき、熱にうなされている彼女を見たら……うっ、ううっ……」
霧嶋先生、涙を流し始めたぞ。教え子が倒れたと聞いたり、苦しんでいる風花を目の当たりにしたりしたらショックも受けるか。ただ、他の生徒や顧問の先生の前だと涙を流すことができないから、俺達しかいない今になってようやく涙が出たのかな。
「ゆづる……? みゆせんぱい……?」
風花に名前を言われた気がしたので彼女の方を見ると、風花はゆっくりと目を覚まして俺達の方を見ている。
「どうして……2人がここに? しかも、私服姿で……けほっ、けほっ」
「霧嶋先生から、風花が水泳部の練習に倒れたって聞いて美優先輩とここに来たんだよ。2人で風花のことを家に連れて帰るために」
「……そうだったんだ、ありがとう。そういえば、何度目かのクロールを泳いだ後にフラッとして、意識がなくなって。誰かに運ばれたり、ふんわりとしたところに仰向けになったりしたことは何となく記憶があるんだけど。あれ……服が水着じゃなくなってる。まさか、由弦や美優先輩が?」
「ううん、そうじゃないよ。水泳部の子達が服や荷物を持ってきてくれて、風花ちゃんを水着から制服に着替えさせてくれたそうだよ」
「……そう……なんですね。後で……お礼を言わないと」
喋ることで疲れてしまったのか、はあっ、はあっ……と風花の呼吸が乱れ始める。とても辛そうだ。
「風花ちゃん。風花ちゃんの今日の部活はこれでおしまいだよ。これから由弦君や私と一緒に家に帰って、ゆっくりと休もうね」
「……はい」
「顧問の先生には2人と一緒に帰ることを伝えるわ」
「よろしくお願いします。風花ちゃん、家の鍵はどこにあるかな」
「……スクールバッグの内ポケットに。犬のキーホルダーが付いてます」
「分かった」
すると、美優先輩は風花のスクールバッグを開けて物色。犬のキーホルダーという言葉を聞いたからか、すぐに鍵は見つかった。
「風花ちゃん、これからお家に帰るけれど、歩けそうかな?」
「どう……でしょうか」
風花はゆっくりと起き上がると、辛そうな表情をして美優先輩の方にもたれかかる。
「……無理っぽいです。だるい……」
「分かった。じゃあ、由弦君。風花ちゃんのことをおんぶしてあげて。荷物は私が持つから」
「分かりました。風花、俺がおんぶして家まで連れて行くけれど、それでいいかな?」
「……うん。ありがと」
そう言うと、今日の中で一番嬉しそうな笑みを浮かべた。辛いはずなのにこんなにも柔らかい笑みを見せることができるなんて。そんな彼女が少しでも楽でいられるように、責任を持って彼女のことを自宅まで連れて行かないと。
霧嶋先生の力を借りて、風花のことをおんぶする。熱があるからか、風花の体はとても熱くなっている。風花の乱れた温かな吐息が首の後ろ側にかかって。多少くすぐったさがあるけど、嫌ではない感覚だ。
美優先輩は風花のスクールバッグと水着のバッグを持っている。ジャケットまでだと持ちにくいのか、先輩は風花のジャケットを私服の上から着ている。
「霧嶋先生。俺達はこれで帰ります。家についたら電話かメッセージを入れますね」
「分かったわ。落ち着いてからでいいから」
「はい」
俺達は保健室を後にする。
私服姿であり、風花のことをおんぶしているからか、さっき来たときよりも、周りの生徒から視線を集めてしまっている。こんな状況は滅多にないことだもんな。
美優先輩もいるおかげで、上履きから靴への履き替えもスムーズに行なうことができた。風花のローファーも先輩が持つことに。
校舎の外に出ると、朝のように結構肌寒くなっているな。体が熱い風花にとって気持ちが良ければいいけど。
「由弦……」
「どうかした? おんぶの仕方がまずかったか? それとも、もう少しゆっくり歩こうか?」
「……ううん。今のままでいいの。ありがとう。こうしていると、体が少し楽になるの」
「そっか。そう言ってくれて嬉しいよ。ただ、家に帰れば、自分のベッドでもっと楽になれると思うよ。それまであと少しだから頑張って」
「……うん。美優先輩もありがとうございます」
「いえいえ。風花ちゃんは大切な住人で、隣人で、後輩で、友達だから」
美優先輩は優しい笑顔を見せ、優しい声色で風花にそう言った。今までの2人を見ていれば、先輩の言うことにも頷ける。
「……2人があけぼの荘に住んでいて良かった」
そう言うと、風花は俺の着ているワイシャツを強く掴んだ。これだけの力があるなら、たっぷり寝て、週末の間、ゆっくりすれば大丈夫だろう。
風花のことを考えて、いつもよりもゆっくりと歩くけど、あっという間にあけぼの荘が見えてきた。住まいが学校から近いところで本当に良かったと思うのであった。
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